16、女神は目覚める
リューは言った。
「ウィルキンソン邸のリビングで、二度目の浄化を行った後のことです。私が例の青髭まがいの男に声をかけられた途端、メグさんの気配が、メグさんとも娘々ともつかない気配に変わったのです。あの時は他人の目がありましたから、素知らぬ顔をして何もお聞きしませんでしたが、お心当たりはありませんか?」
メグは思い出した。リューにはメグを守る囮役という務めがあるとわかっていても、ブレア・モローがリューに穢らわしい目を向けるのが許せなかったことを。
――あの男に神罰を下してやりたい。
そう思ったのはメグ自身で、女神ではなかったことを。
「……どういうこと、なのでしょうか?」
戸惑うメグに、リューが言った。
「少し長くなりますが、私の考えを述べてもよろしいでしょうか?」
メグは言った。
「……長くなるのでしたら、どうかリュー君も椅子に座ってください。ずっと跪いているのは、病み上がりのお身体に良くないでしょうから」
リューはこう説明した。
メグは気付いていないようだが、彼女の気配は普通の人間とは、少し違う。それは、メグが表に出ている時も、女神が表に出ている時も変わらない。ただ、メグが表に出ている時には控えめなその気配が、女神が表に出て来る時には強くなるというだけだ。
「たとえるならば、春の日差しが、真夏の日差しに変わる、それだけの違いです」
だからリューは初めてメグに会った時に、メグが人間ではないと直感した。
そして、先日の任務で、初めて人面瘡や魔女という、本来の身体の持ち主以外の霊や魂が憑依する現象を目の当たりにし、改めて確信したのだ。
メグは以前、自分は女神の憑坐だと打ち明けてくれたが、実際はそうではない。メグという人間の身体に女神の魂が憑依しているのではなく、メグと女神とは元々、魂を同じくする同一の存在なのだ、と。
「ハワード卿やトーマス筆頭顧問も、メグさんは女神の憑坐に選ばれた人間ではなく、女神そのものであるとお考えです。但し、お二人はメグさんの中に二つの異なる人格があって、一方が主で、もう一方が従だとお考えのようですが、私はそうは思いません。メグさん自身が、知らず知らずのうちに、メグさんとしての意識と娘々としての意識を使い分けておいでなのではないかと思うのです」
何故なら、メグと姫御子は控えめで周囲に気を遣いがちか、積極的で自由気儘に振る舞うかという違いはあれど、その他の点では何も変わらないから。
メグも姫御子もモリーのことが大好きで、ハワード卿とモリーが結ばれた時には心から喜んでいた。どちらも、ドミニク・トーマス筆頭顧問の使い魔で妻でもあるタレイアに一目会いたい、そうでなければ正体だけでも知りたいと望み、タレイアと友人になることが出来た時には嬉しそうだった。ブラックカラントの実が苦手なところも同じだ。
「ブラックカラントはジャムやシロップにしても酸味が強いから、苦手でいらっしゃるのですよね」
メグと姫御子の違いは、メグなら我慢して食べるところだが、姫御子は手を付ける前にリューに押し付ける、ということだけだ。
「ですから、先週の『藤の花を愛でる会』で出されたブラックカラントソース添えのアイスクリームは、私が美味しく頂きました」
リューの微笑みに何か穏やかならぬものを感じて、メグは少し身を引いた。
「でも、メグが女神の憑坐ではなくて、女神そのものだというのなら、どうしてメグは自分を憑坐だと思い込んだのかしら?」
モリーが疑問を口にすると、それには老ブラウニーが答えた。
「確か、姫様がご幼少のみぎりに一度だけお会いになったご両親が、女神の憑坐として身を慎むようにと姫様に言い聞かせなさったのでしたか。爺めが考えますに、ご両親のそのお言葉に、姫様は縛られておしまいになったのではないでしょうか」
意図があろうとなかろうと、親の言葉は子どもを縛るものだから、と老ブラウニーは言った。
「ヒルダお嬢様が良い例です。お父君のニコラス卿は心からヒルダお嬢様を愛しておいででしたが、ただ一度だけ、ヒルダお嬢様のいらっしゃる所で、『この子が男子に生まれなかったことが惜しまれる』と仰ったことがありました。……それからです。あれほど美しい物や愛らしい物をお好みになっていた繊細なヒルダお嬢様が、言葉遣いも挙措もすっかり男の子のようになってしまわれたのは」
それでもヒルダが美しい物や愛らしい物を好むのは、今も変わらない気がする。彼女の編み物の腕前や、ふとした時に見せる所作の美しさも、昔の名残りなのかもしれない。
メグがそう言うと、老ブラウニーは頷いた。
「仰せの通りです。思いますに、たとえその子が親の言葉に縛られていたとしても、本来のその子の性質が完全に消えてしまう訳ではないのではないかと」
それでは、今の自分と姫御子としての自分、どちらが本来の自分なのだろう、とメグは思った。
すると急に、リューの視線がメグの目をまっすぐに射抜いた。彼はこう言った。
「春の日差しのように優しくて思慮深いメグさんも、夏の日差しのように強気で好奇心旺盛で気儘な娘々も、どちらも偽物などではなく、仮の人格でもない、本当の貴女です。どちらの貴女も、私の愛する貴女であることに間違いありません」
メグを縛っていた鎖が、断ち切られた。
――そうだ、憑坐でも、仮の人格でもない。私自身が、姫神なんだ。
これまで女神としての意識が表に出ていた時の記憶が、メグの中で蘇ってきた。どうして別の存在だと思い込んでいたのだろう。どちらも間違いなく自分自身だったのに。元々、臆病な自分を、或いは面倒なことから逃げ出したくなる自分を、その都度奮い立たせるために、あえて違う自分を演じていただけなのに。
「……私は人ではなかったのですね」
メグがそう言うと、モリーが安堵の溜め息をついた。
「良かった。メグが憑坐ではなくて本当の女神で。だって、それならメグが誰を選んで結ばれようと、誰にも文句を付ける筋合いはないんだもの」
老ブラウニーがそれに付け加えた。
「左様でございますとも。現に、フォスター家に連なる方々も、正義の女神アストライア様がその御名をユスティティア様とお変えになり、北東の地へお移りになった後、人間のご夫君をお迎えになってお産みになった御子のお血筋。ヒルダお嬢様の婿君は、美と豊穣の女神フレイヤ様のお血筋。女神が神ならぬ相手と結ばれる例は決して少なくはないのです」
メグの身体から力が抜けていくのがわかった。
――良いんだ、彼に手を伸ばしても。彼と、幸せになりたいと思っても。
何故か、涙があふれて止まらなくなった。
「メグさん、大丈夫ですか?」
リューが慌てて席を立ち、ハンカチを差し出した。
そんな彼に泣き笑いの顔を見せながら、メグは尋ねてみた。
「リュー君、私は物を投げるのがあまり上手ではありませんが、もし私が果物を投げたら受け取ってくれますか?」
リューは耳まで赤くなった後、彼女の耳元でこう囁いた。
「勿論です。きちんと受け取って、常に身に付けているこちらの羊脂玉をお返しにお渡ししますね」
彼は襟元から、いつも鎖に付けて服の下に懸けている羊脂玉のチャームを出して見せ、それからこう言った。
「私からも、拙い皇国語ですが、三十一文字の詩を詠んで貴女に贈りましょう。返しの詩をくださいますか?」
メグは笑顔で頷いた。
「ええ、喜んで。でも私は、リュー君が詩を詠んでくれるのなら華夏語でも帝国共通語でも嬉しいです」
やがて、二人はくすくすと笑い合った。
モリー「えっと、二人の言っていることがさっぱり理解出来ないんだけど」
爺や「姫様はこう仰ったのです。自分がリュー殿に想いを伝えたら、受け止めてくれますか、と。それに対してリュー殿が、勿論、想いには想いを以て返しますと答えた後で、自分からも改めて愛をお伝えしますと言ったのですよ」
モリー「よく分かるわね……?」
爺や「食べ物や、自分が普段から身に付けている装身具を贈るのは、普遍的な求愛行動でございますよ。当家のお嬢様方は何故かお気付きにならなかったようですがね」
毎日オシアンにご飯を作ってもらって髪を整えてもらっていたのに愛されていることに気付かなかったヒルダと、ハワード卿から指輪を受け取っておきながらその意味が今ひとつよく解っていなかったモリー。 二人が結婚出来たのは偏に婿君たちが頑張った成果だ、と思う爺やなのでした。




