第八十五話:沈みゆく者たち
ロダンは麻痺したはずの痛みを感じた。幾度となく結晶化を繰り返し、いつの間にか銃弾を跳ね返すようになったはずの肉体が、ついに砕かれようとしていた。
「ヒヒッ、我らローレンシアは不滅なり。まだ終わらんぞ。戦士の魂は星天に還り、再び大地に舞い戻るのだ」
腹に大きな銃痕が刻まれ、傷口から宿虫の亡骸がぼろぼろとこぼれている。火炎瓶によって蒸し焼きにされたのだ。たとえロダン本体に炎が効かなくても、腹の内側で熱せられた宿虫は一匹残らず死んでいた。
「あぁ、もったいない。俺の体だぞ。落ちるな、これ以上落ちないでくれ」
大きな腹がみるみるうちに縮まっていく。ロダンは宿虫がこぼれないように傷口を両手で塞いだ。思考能力が欠落した彼は宿虫を自分の体の一部だと錯覚し、自由を奪ったはずの宿虫を救おうとする。
だが限界なのだ。彼を宙に支えていた宿虫も徐々に高度を落とし、ロダンの体はナバイアの海に沈もうとしていた。
「哀れね。脳が中途半端に生き残ったから、余計に苦痛が長引くんだわ」
ロダンは顔を上げた。珊瑚礁の上から見下ろす白金の少女、その姿は月明かりの塔で交えた一戦と重なる。少女はロダンの記憶よりも少し成長している。だが敵を人間とも思わぬような冷たい瞳は変わっていない。
「また俺を見下ろすか。また、また貴様が、俺を地獄に堕とすのか!」
「そうよ」
結晶銃が構えられた。照準は一点。ひび割れたロダンの額に向けられる。
「私があなたを殺すの。恨むなら私を恨みなさい」
ただただ、哀れみだけが込み上げる。
聖都ラフランでもそうだった。かの禁足地に縛られる聖女代行に、少女は自分勝手だと自覚しながらも哀れんだ。禁足地に集まる人間は皆がそうだ。ろくでなしどもに救いなし。慈悲を与えるはずの神は雲隠れしたようだ。
「だから、もう眠っていいの。あなたの顔は忘れないわ」
少女が言葉を発すると同時に、ロダンの頭部から結晶の花が咲いた。命の輝きを宿した美しい花だ。四肢の力を失った彼はゆっくりと傾き、真っ暗な水の底へ沈んでいく。
彼らに救いはない。ならばせめて、自らの手で地獄に堕としてしまった相手の顔だけは覚えていよう。戦いの場に生きる者として、救われない戦士の魂を導くのも勝者の役目。
少女はまた一つ、重荷を背負う。始まりは外の世界への憧れだった。いつの間にか少女の背中には様々な重荷が乗せられた。傭兵の責務。戦士の誇り。第二〇小隊の悲願。自らの手で撃った戦士の数。
重い。調査任務が終われば隊長の座は降りる。だがこれから先、彼女の背中にのしかかる重荷が軽くなることは決してないだろう。
ナターシャは駆け出した。上がり続けるナバイアの水位。脱出の時間はあとわずか。
◯
調査隊は急いで引き返した。ナバイアの水位は加速度的に上昇し、先ほどまで広々としていた研究所の吹き抜けがあっという間に水中へ飲み込まれる。
「生還おめでとうナターシャ。だが私に謝ることはないか?」
「ごめんねリンベル、あなたの火炎瓶は全部使っちゃったわ。あの素材ってすごい高価なんでしょ?」
「そりゃあ厳選された油鷲の油を使っているからな。いや、それはいいんだ。私が怒っているのは別件だ」
リンベルがぷりぷりと怒っている。何が気を触ったのだろうか、とナターシャは首を傾げた。
「もしかして蹴落としたこと?」
「そうだよ! おかげで溺れかけたんだぞ! 禁足地で死ぬ人間の話はよく聞くが、まさか味方に蹴られて溺れるような奴は初めてだろうさ!」
「あはは、あわや珍事件として傭兵の歴史に刻まれるところだったわけだ、ごめんね」
まさかリンベルが泳げないとは思わないだろう。ナターシャは申し訳なさそうに謝りつつ、リンベルの意外な一面を知れて嬉しそうだった。
「まったく……それにしても化け物どもが襲ってこないな。まさか逃げたのか?」
「いえ、違うわ。ほらあそこ」
回廊の奥になりそこないが倒れている。外傷はない。眠っているようにも見えるが、彼女たちからは死者の匂いがした。亡骸は一つではない。真っ白な体が至る所に転がっている。
「あの様子だと全滅でしょうね」
「エイダンたちの仕業だとは思えないな。どれも綺麗すぎる」
「えぇ、まるで急に意識を失ったみたい。命の根源を絶たれたような――」
老朽化した壁の一部が崩れ、なりそこないの亡骸が吹き抜けの底へ落ちていった。水面とぶつかった音は存外近い。水位がすぐそこまで迫っているのだろう。
延々と続く階段が二人の体力を削る。乱暴に踏みしめられた珊瑚が転がり落ちた。イグニチャフを先に逃したのは正解だ。足が遅い彼ならば逃げきれなかったに違いない。ヌークポウで駆け回ったナターシャとリンベルだからこそ、迫り来るナバイアの水から逃れることができた。
ようやく水の音が遠くなって一息ついた時である。ふと、前方に人影が見えた。先行したはずのエイダンたちが歌織場の中央で立ち止まっている。
「どうしたの?」
ナターシャは息を整えながらエイダンに尋ねた。彼は無言で中央の椅子に目を向ける。
そこにはグッタリとした様子で椅子に座るマリーがいた。鮮やかだった鱗は色褪せて光沢を失い、彼女の顔色も病人のように青白い。急激に細くなった両腕は力なく下げられ、向けられた瞳にも生気が感じられない。
「あらあら、お帰りなさい。無事に帰られたのですね。マリーは安心しました」
今にも倒れそうな体をしているが、声だけは元気な時と同じく、澄んだ水のような響きが残っていた。ナターシャが駆け寄ると、美しき人魚は期待するような視線を向けてきた。
「あなたの願いどおり、探求者は眠らせてきたわ」
「あぁ、良かった。ありがとうございます。あなたは良い人ですね」
マリーは着ていた傭兵用の上着を返そうとしたが、ナターシャは首を振った。それはもうマリーの服だ。「あなたが着ていて」と伝えると、人魚は軽く頷いて上着の裾を握った。
「マリーはもう……歌を織らないの?」
「歌織場は閉幕です。織って欲しいのですか?」
「聴きたいわ。でも、あなたは満足してしまったのでしょう?」
「はいな」
譜面を並べた本棚が高く、高く、天井に伸びる。入りきらない譜面が広間の床に散乱する。
「満足しました。たくさんの歌を織りました。誰かと共に歌を織る喜びも知りました」
「マリーは歌が上手いから、私たちじゃ足手まといだったでしょ」
「はいな」
「そこは否定しなさい」
マリーが目を細めた。よく見れば彼女の体から珊瑚が生えている。肉体が珊瑚に変わりつつあった。
「……永遠の命の研究は、完璧に成功したのではありません。人と海が混じるには、人の体があまりにも脆かった。誰かが礎となって二つを繋がなければ、容易く分離してしまうものでした」
以前に聞いた、探求者の弟が研究所を作ったという話だろう。ナターシャも話の内容を全て理解しているわけではないが、口を挟まずにマリーの言葉を聞いた。
「探求者は人と海を繋ぐ鎖であり、命を縫い止める杭でした。探求者が眠りについた今、私も人として眠りにつきます。妹たちも先に眠ったようなので、私の役目は終わりでしょう」
妹とはなりそこないのことだろう。全てのなりそこないが眠り、マリーは最後の人魚となった。それもあと数刻の話。マリーは細い両手を持ち上げて、淡い水色の石がはめ込まれた髪飾りを外した。
「ナターシャにこれを差し上げます。マリーの力を僅かばかり込めました。きっと役に立つでしょう」
「大事な髪飾りじゃないの?」
「もう必要ありませんから。どうか、あなたの旅路にマリーの歌を連れて行って下さいな」
「あまり綺麗な景色は見せてあげられないかもしれないわ」
「構いません。どんな景色でも歌を織る材料になります」
足元から振れを感じた。水位が歌織場にまで上がりかけているのだ。
振り返るとエイダンたちは既に出発の準備をしており、マリーの話を聞いているのはナターシャとリンベル、そして一人だけ部隊から離れているエメだけだった。
「じきに研究所はナバイアの海に沈みます。さぁ、早く逃げなさいな。人の時間は終わりました。ここに居てはいけません」
「でも……」
「いきなさい」
ナターシャたちの体が浮いた。マリアン・マレーの反重力が傭兵たちを外へ促す。後ろ髪を引かれながらもナターシャは頷き、髪飾りを落とさないよう大事に握った。
「マリー、髪飾りありがとう! 大切にするわ!」
「じゃあなマリー! お前の歌が一番綺麗だったぜ!」
「ちょっと待ちなさい、私は自分で歩けます! ひゃぁ、速い……!」
騒がしい傭兵たちが歌織場の出口に飛ばされる。エイダンはクレメンスの保護を優先して先に脱出しており、歌織場にはマリーだけが残された。
彼女は脱力したように息を吐く。もう腕を上げる力は無く、瞼を支えるのも億劫だと瞳が閉じていく。
「愛しき私の探求者、もうすぐマリーも向かいます。長く生きましたね。本当に、長く、静かで、でも最後は賑やかな――」
本来、歌織場に水が入ることはない。だが、研究所を守る探求者が眠りにつき、彼らの加護が消失したことで歌織場の内部にも浸水が始まった。沈みゆく譜面。瞳を閉じた人魚。天井のシャンデリアは光を失い、華やかだった広間が暗くて冷たい世界に変わる。
やがて、マリアン・マレーの歌織場はナバイアの海に飲まれた。




