第八十三話:腹抱えのロダン
ロダンは優秀な兵士だった。凡人でありながらも地道に努力を重ね、泥にまみれながら戦場を駆け抜け、数多くの仲間を失いながらも信頼を勝ち取って、ようやくアーノルフ元帥から特殊部隊を任された。禁足地の任務は危険だ。しかし成功すれば彼の地位は飛躍的に上昇する。する、はずだった。
白金の悪魔と出会ったせいで歯車が狂った。宿虫の苗床にされて以降、彼が過ごしたのは腹の内側から食い破られる苦痛を味わい続ける日々だ。死ぬことは許されず、神に祈るも救いは無し。やがてロダンは一つの答えを見出した。
地の底に地獄があるのではない。この世こそ、人の世こそ地獄である。
「俺は、俺はっ、ヒィッ、もう間違えないぞ……! 見ておられますかアーノルフ閣下! 私はまだここに――」
ロダンの頭に銃弾が飛んだ。ナターシャの狙撃だ。悠長に話を聞いてあげるほど彼女は甘くない。結晶銃から生み出された弾丸は生物の体内に侵入し、急激な結晶化現象を発生させて内部から破壊する。
しかし、ロダンは結晶憑きだ。すでに結晶化した頭蓋骨がナターシャの弾を阻んだ。
「ドットルは下がって! イグニチャフとナナトも絶対に近づかないで!」
一番近い場所にいたドットルが真っ先に狙われた。水場という状況が良くないのだろう。ドットルの足取りが普段以上に遅い。
「もっと速く走ってドットル! 追いつかれるわ!」
「こう見えて全力疾走なのさ! あぁそうだ、僕に愛を囁いてくれたらもっと速く走れそうだよ! ご褒美に君の足で踏んでくれてもいい!」
「冗談が言える余裕があるなら大丈夫そうね!」
ナターシャは先にエイダンと通信をつなげた。
「こちら支援部隊。宿虫と呼ばれる寄生虫に襲われている。神経麻痺の毒があるわ」
「――クレメンスを先に逃したい。そちらで対処可能か?」
「うーん……」
ナターシャは照準をのぞいた。今にもドットルに襲い掛かろうとする宿虫の群れに弾丸を撃ち込む。ロダン本人に結晶銃の効果は薄い。しかし宿虫は別だ。撃ち抜かれた数匹の宿虫が群れの中央で結晶化現象を引き起こし、爆発したかのように結晶の花を咲かせた。
「厳しいかも」
されど宿虫の数は膨大。ロダンの体から際限なくあふれる宿虫の群れを見て、ナターシャは固い声をこぼした。
「でも我々でどうにかするわ。奴の狙いはおそらく私だから、囮になるなら私がいい」
「――了解、健闘を祈る」
他人事のようね、とナターシャはつぶやいた。仕方が無い。合理的に考えれば結晶銃を持つナターシャが残った方がいい。
「僕だって戦えるさ、工兵の意地を見せてやる!」
「ちょっ、バカ!」
ドットルが大きな手榴弾を投げた。工兵の知識を活かした特注品であるが、室内で使用すればどうなるか。
爆音と共に水柱が昇り、足元の水位が上昇した。
「我ながら想像以上の爆発だ! アハハ、ちょっと爆薬が多すぎたかもね」
「自滅する気なら爆弾を抱えて突撃しなさい!」
広間の底が抜けなかったのは幸いだ。良くも悪くも水によって威力が抑えられたのだろう。
ロダンは明確な敵意をナターシャたちに向けた。大きな水しぶきを上げながら広間を駆け、同時に宿虫を翼のように大きく広げて、調査隊を包囲しようとする。
横目でエイダンの様子を確認すると、クレメンスを肩に担ぎながらロダンの隙をうかがっていた。唯一の逃げ道である入り口に向かいたいのだろう。
「全員結晶憑きを撃って!」
「俺たちの銃じゃ効かないぞ!」
「効かなくてもいいの!」
ロダンは相変わらず気味の悪い笑みを浮かべた。髪の毛がほとんど抜け落ちており、膨れ上がった腹を両手で抱えながら走る姿は生理的な嫌悪感を抱かせる。
「貴様の部隊は弱いな小娘! 力は欲しければ神秘に触れるのだ! あぁ、虫、我らは虫の眷属なり!」
無数の弾丸が降り注ぐも、宿虫によってことごとく防がれる。大口を開けて涎を垂らし、人の尊厳をかなぐり捨てた滑稽な姿であるにも関わらず、どれほどの銃弾を浴びせようともロダンの足を止められない。
ドットルが性懲りも無く手榴弾を投げた。爆弾はロダンに到達する前に宿虫によって放り払われ、遠くの壁で爆発した。イグニチャフとナナトが応戦しても効果がない。ただの銃ではロダンに通用しない。
水位がぐんぐんと上がるなか、腹抱えが跳躍した。狙われたのはイグニチャフだ。
「何で俺なんだよ……!」
イグニチャフは背を向けた。半ばパニックになった彼は必死に逃げようとする。だが水を吸った隊服は彼の体を重くし、焦れば焦るほど水中の珊瑚に足を取られる。
ついに体勢を崩したイグニチャフは顔面からこけた。水浸しになった元神父、顔を上げると目の前には下卑た笑顔。
「ナターシャ……」
ぶわりと広がった宿虫がイグニチャフの視界を暗くする。
「助けてくれ、ナターシャ……!」
「わかっている!」
モヤの両翼が爆ぜた。結晶化現象が周囲の宿虫を飲み込んで、半透明な塊に変える。だが時間稼ぎにしかならない。
「リンベル、今のうちにイグニチャフを回収して! それか注意を引くだけでもいい!」
「任せな、得意分野だ!」
リンベルが腰に下げているガラス瓶を取り出した。あれはリンベルが独自に調合した火炎瓶だ。元狩人の彼女が愛用する武器の一つであり、油鷲から採れる発火性の高い油と、ソロモンの焼夷砲にも使われる特別な種火を合わせたもの。
「潜れよイグニチャフ! じゃねぇと蒸し焼きだぜ!」
火炎瓶がロダンの周囲に炎を撒き散らした。遠巻きでも伝わる熱気。水面に落ちてなお燃え続ける炎。焦げた肉の匂いが広間に充満する。ロダンを包む炎は熱く、大きく、研究所の天井へ向かって伸びた。
イグニチャフがナターシャの近くに浮き上がった。素晴らしい生命力だ。
「げほっ、ナターシャの友達は随分と過激だな……躊躇せずに投げやがったぞ……」
「どのみち宿虫に食われるかリンベルに焼かれるかの二択でしょ。むしろよく生き残ったわね」
「星天教の加護があるからな」
「追放されたくせに」
クレメンスを連れて入り口を抜けるエイダンの姿が見えた。無事に依頼人を保護できたようだ。
炎はなおも消えない。本当にただの油かと疑いたくなる熱量。煌々と燃える炎が水面に反射し、あたり一帯を赤く染めた。リンベルはあらゆる遺物の情報に長けたジャンク屋だ。彼女の知識が詰め込まれた火炎瓶はソロモンの炎にも匹敵し、骨一つ残さずに燃やし尽くす。
ロダンはもがいた。宿虫を守るために胃袋へ戻し、大事に腹を抱えこむ。
「ヒヒッ、熱いなぁ小娘ども、まるでルーロの戦場みたいだ。だが、あの時はもっと熱かった。鋼鉄の乙女が生んだ、消えない炎を知っているか? ルーロの戦場を焦がした炎はこんなもんじゃない。俺たちローレンシア兵が見た地獄はこの程度の炎ではない!」
彼は降伏しようとした仲間が容赦なく焼き殺される光景を見たことがある。鋼鉄の乙女が生み出した地獄は彼にトラウマを植え付けた。防護マスク越しに肺を焼いた炎の、なんと熱きことか。自らの内から焼かれる経験に比べれば、この程度の炎は耐えられる。
ロダンは燃えながら立ち上がった。結晶化した体はリンベルの炎を寄せ付けない。炎の奥、鋭い眼光と気味の悪い笑みを貼り付けて、ロダンは傭兵の前に立ち塞がる。
「アーノルフ閣下、私は炎を克服しましたぞ! 我が勇姿、我が忠誠をご覧くだされ!」
才無き男は倒れない。彼を支えるのは執念のみ。




