ドロレス・ウィントからの1箱目
その日の生徒会の仕事を誰よりも速く適切に仕上げると、エーリカは革鞄からソレを取り出した。
一見すると茶色い木箱だ。
しかし、よく見れば、その箱は紙で作られていた。
見たこともない質感の紙には、奇妙な紋章──笑顔の口元のようにも見える湾曲した矢印──や解読不能の文字が刻まれていた。
明らかにこの世界のものではない。
「先日私の寮の自室に届いたものなんですよ。ほら見てください、クラウス様」
箱の横に貼り付けられたラベルには、異世界の文字で記述されたドロレス・ウィントの署名があった。
異世界に転移し、この世界に干渉をつづける千里眼の魔女の、エーリカへの贈り物というわけか。
「ドロレス嬢は粋な計らいをしてくださったのですよ」
エーリカが箱から取り出したのは、赤と黒と青の薄い不可思議な道具。
黒い部分は黒曜石を磨き上げたようなガラス質の表面をしている。
赤と青の部分には操作のための突起が付いていた。
「この世界では見たこともないモノだな」
「ええ……」
エーリカは郷愁の色の濃い瞳をしてその物体を見つめる。
「クラウス様、これは私が元々いた世界のもので遊戯をするための道具なのですよ。これは私のいた国でもっとも有名な携帯ゲーム機でですね──」
エーリカが流麗な手つきで操作すると、携帯ゲーム機と呼ばれた道具は煌き始めた。
色とりどりの絵が映し出され、心地よい音楽、そして声が流れる。
これに物語がつくのだから総合芸術といって過言ではないだろう。
なるほど、文化の華だ。
エーリカのいた世界の文明の水準がうかがえる。
「なるほど、不思議な道具だな。お前が前の世界で魅了されていたのも分かる」
「ですよね」
エーリカはにっこりと笑って「ゲームの攻略」を始めた。
「本来なら順番にクリアしなければならないのですが、これは特別版で、好きなところから攻略できるんですよ。さらに有料追加コンテンツ『真夏のカレイドスコープ』なる物語までダウンロード済みというお得な逸品です」
俺にとっては訳のわからない呪文のような言葉を紡ぎながら、エーリカは最初に迷わずエドアルトを選択した。
主人公はクロエ・ルーカンラントだそうである。
「ふむ……確かに、極めてエドアルトの声に似ている」
異世界の言語だが声の質くらいは俺にも分かる。
「すごいですよね。兄の声が推しの声優さんにそっくりだったことを今更ながらに思い出してしまいました。今度兄に会った時どんな顔をすればいいかわからなくなりつつあります」
エーリカは嬉しさと困惑が半々に混ざったような顔を浮かべた。
「お兄様シナリオ……めちゃくちゃ切ないかもしれません……そんなっ、……お兄様尊い……」
「いや、今ゲームの流れで、お前が死ななかったか?」
「そういう役割ですもの、私」
確かこれは本来、エーリカへの注意喚起のために作られた物語だ。
このドロレス・ウィントの物語は、俺の見たことのある世界にも似ていて心臓に悪い。
俺は、耐えきれなくて視線を逸らした。
「おや、クラウス様はこういうのはお嫌いですか?」
「物語の世界でもお前がそういう目に遭うのは、あまりな」
「ふふ……クラウス様ったら本当にお優しいのですね」
お優しいのではなくて、お前が好きだからだと言い返したかったが止めた。
エーリカの集中を削ぐ言動だ。
本人が楽しいなら、俺がとやかく口を出すべきじゃない。
それに、ここ一週間エドアルトからの連絡が途絶えている現状、現実逃避としては妥当なところだろう。
「しかし、なぜ生徒会室でそれを?」
「自室だとずっとニヤニヤしながらプレイしてしまいそうでして、しかもその顔を二人の同居人に見られそうで……クラウス様しかいない状態の生徒会室でなら、少しは顔に気合が入るかと」
ティルナノグと南方の天使に、ゲームでニヤけた顔を見られたくないのか。
身近すぎる相手……例えば親兄弟のいる場所で恋愛物語を読みたくないのは、なんとなく俺でも理解できる。
「ふむ、納得した。好きにすればいい」
「ありがとうございます、クラウス様!」
俺はエーリカから離れて、机に戻り、仕事を再開した。
ちなみに、ここ二週間はたっぷり多忙なオーギュストの分である。
二人きりの生徒会室に乙女ゲームなるものの音声と俺の作業音が響く。
これは俺の欲しかった平穏の一つでもあった。
☆
エーリカがリベルモンストロルムを攻略し始めて一週間。
生徒会室で音声を聞いていた俺は二三日で異国の言葉を聞き取り理解できるようになってしまっていた。
文字の羅列を見ても、象形文字と表音文字の違いなども分かるようになってきた。
エーリカは次々と攻略を進めて、エドアルト・エルリック・クロード・ブラド・カインを終えてから、ハロルドとオーギュストをプレイし、再びエドアルトを攻略していた。
「君のためなら何だってするよ、クロエ」
エドアルトがクロエにいう姿がまったく想像できないが、物語は平気でそのリアリティを踏み越えていく。
どんな顔してこんな話を作ったのだろうな、あの千里眼の魔女は。
ゲラゲラ笑っていたのか、白目を剥いていたのか、想像し難い。
「ああっ……お兄様、尊い……」
ゲーム機をテーブルに置き、顔を覆ってエーリカは長く深いため息をつく。
エドアルト二周目のシナリオがいたく気に入ったらしい。
あまり口出しはするまいと思っていたが、つい疑問が溢れる。
「ところでエーリカ、俺は攻略しないのか?」
エーリカが固まった。
「……! ついに気がついてしまいましたか、クラウス様……ふふっ」
ゆっくりと俺の方を向く。
感情の読めない、否、感情を意図的に隠していることがバレバレな笑顔をエーリカは浮かべた。
長年見慣れた笑顔である。
「指摘待ちだったのか?」
「いえ、そういうわけではございませんが、その……仮にも婚約者であるクラウス様を友人であるクロエさんで攻略するのは気が引けまして……その」
「なるほど」
一瞬納得したが、疑問が残る。
だったら兄を友人で攻略するのはいいのか。
友人で友人の異母兄を攻略するのもかなり倫理観に問題がないか?
数日前は狂王すらも攻略していなかったか?
「しかし、他のシナリオもかなり問題では?」
「ま、まあその、実はですね」
エーリカは非常に気まずそうに答えた。
「クラウス様も推しの声優の方でして。というか、一推しの……」
「推し……?」
確か「特別にお気に入り」に近い概念だったような。
「毎日聞く声が、万が一完全に推しの声ということが確定してしまったら私、どう生きていけばいいかわからないんです」
エーリカは俺から視線を逸らし、窓の外の遠くに移動させた。
──俺の声がお気に入りなら、それでいいのでは……?
という疑問が湧いたが、しつこく追求するのも野暮だろう。
「好きにすればいい。多少はシナリオが気になるが、お前がそれでは仕方ない」
「え、ええ」
エーリカはまた黙々とゲームをプレイしていった。
ちらりと見るその顔が楽しげで、それだけで俺は満更ではない気持ちになる。
真夏のカレイドスコープなる物語と、それを楽しむ婚約者の声を聞きながら、何事もない午後は過ぎていくのだった。