死にやすい公爵令嬢2
その時、ぐらりと〈月の御座〉が揺れた。
クラウスが私を支える。
「ひゃっ」
「……! すまない」
「い、いえいえいえ、私こそ、す、すみません」
「いや、俺こそ、つい」
気まずい感じに体を離す。
お付き合いすることになった(?)とはいえ、まだ距離感を測りかねている。
しかし、この地震みたいな揺れは何事だろう。
魔法階層でそんなことが起こるのか、いや、それとも例の御座の崩壊がもう始まったってこと?
「クラウス様、これは?」
「御座の正規の挙動ではないな。何らかの異常事態か」
クラウスが霊視の魔眼であたりを見回すと、表情が険しくなった。
「何者かが力任せに介入している。しかしこの干渉不可能な領域に、どうやって……」
こんな大規模魔法に介入できる存在。
可能性としてはドロレス・ウィントだろうか。
「それは、もしかしてドロレスが?」
「ああ、こんな場所に介入してくるのはドロレス・ウィントぐらいだろうな。そうか、彼女は元からお前や俺を未来に捨てさせる気はなかったか……」
クラウスが意外そうに呟く。
「もっとも、自然崩壊を待たずしてこんな介入をされたら、この魔法階層を構築している領域そのものが損傷しかねない。この先数十年間は〈月の御座〉が構築不可能になるだろうな」
「ハーファンの切り札的軍事施設じゃないですか。いいんですか、クラウス様?」
揺れ続ける御座で、クラウスはそっと私の腕を押さえて支えた。
「お前に普通の人生を返すことの方が俺には重要だ。かの千里眼の魔女もそう判断したんだろう。見た感じ、割と優先順位がはっきりしたタイプだったじゃないか」
「まあ、そうですね」
割とドタバタした状況で話したので、印象論に過ぎないが、彼女は判断が早い。
切り捨てるものと、切り捨てないものを分けるときに躊躇しないだろう。
そして、躊躇しない自分自身に常に怒っていて、他人への当たりがキツくなるような、そんなイメージだ。
「まったく制約を使うなんて。……もしや、不安にさせないための思いやりか?」
「わりと優しい人ですしね。本当に精神的な余裕も説明の時間も足りなかったんでしょうね……」
今回の件で一番に忙しかったのはドロレスだろう。
私もハロルド・パリューグ・クラウスとの連戦の時はかなり忙しかったけど、彼女に比べたらマシなんじゃないかな。
その時、ひらりと私の手の中に、一枚の紙切れが滑り込んできた。
片面は呪符になっているが、もう片方には普通の文章が書いてあるようだ。
その文面を私は見つめる。
──お待たせいたしました。只今参ります。
そんなメッセージが、ベアトリスの文字で綴られていた。
「ウィントのメッセージだな。一体どこからこんなものが……あそこか」
クラウスが天を指差す。
〈月の御座〉の上部に、不思議な欠落が見えた。
本来ならば、真っ黒な虚空に浮かぶ星々が見えているだけだった場所に、一筋のヒビが入っている。
光が差し込む、といった感じではなく、そこだけが空色に塗り分けられたようになっていた。
奇妙な見た目だ。
「青空の欠片みたいに見えますね」
どこか別の空間と繋がった?
でも、あれは人が出入りできるような大きさじゃない。
まさに紙一枚がすり抜けられるかどうかの、小さな小さな隙間だ。
遠くから、わずかに声が聞こえたような気がした。
「人の話し声……でしょうか?」
「何を言っているかまではわからないな。魔法で集音してみよう」
クラウスは魔法で音を拡大し、風などの雑音を除去する。
二人の女の子の声だ。
「クロエとベアトリスですね」
「あの二人が何かしている、と。どう考えてもドロレス・ウィントの差し金だな」
「ですね。クラウス様にはなんて聞こえました?」
「はずしちゃダメだよ……と聞こえたが」
「……何か起こりそうですよね」
クラウスと目配せしてから、私はそそくさと片付けを始めた。
「ベアトリス・ウィントとクロエ・ルーカンラント。つまり未来視を得意とする原初の模様の使い手と、氷銀鉱の剣の担い手である当代随一の剣士の組み合わせか」
このセットなら、大抵のことはどうにかなりそうではある。
どっちも扱いづらそうなことを除けば。
「未来視で〈月の御座〉崩壊後の帰還先の座標を得て、そこから氷銀鉱の剣を使って無理矢理に御座をこじ開けようとしている……か?」
クラウスが眉間に思い切りシワを寄せる。
「なるほど……! さすがですね、クラウス様!」
「しかし、現在この御座は、大規模な時間魔法と空間魔法を起動中で、その上大量の魔力が集まっているんだぞ。正規の手段を用いずに強制終了させたら、行き場を無くした魔力が暴走しかねない」
「すると、どうなるんですか?」
「俺たちが御座ごと虚無の空間に飲み込まれるか、帰還先の周囲に大規模な時空間異常が発生するか。もちろん、奇跡的に全ての魔力の消去に成功し、俺たちも無事に帰還できる可能性もないわけではないが」
「な、なるほど……」
どういうことかはわからないけれど、とんでもなくヤバいことだけはわかった。
やっぱり〈月の御座〉はとてつもなく危険な領域のようである。
「そ、それは危険な方法ですね…」
大胆な救済方法すぎて命が危うい。
本当に大丈夫なんだろうか、このレスキュー方法。
「失敗した場合、魔力の影響範囲がどこまで広がるか予測もできんぞ。最悪、南北大陸を覆う災害に繋がりかねない。お前と俺を助けるために? あのドロレス・ウィント……これほどの大きな賭けに出るとは……」
「大胆かつ挑戦的ですね。私は信じますよ、ドロレスとあの二人を」
ここにきて、またしても命の危機であるが、もう腹をくくるしかない。
クラウスが私を見て驚いた表情を浮かべた。
「お前は本当に、いつもびっくりするくらい前向きだな……」
クラウスは呆れ顔で笑う。
「では俺も信じて待つか……とはいえ、転移先がどこかもわからないし、はぐれないようにしておこうか」
そう言って、クラウスが私に手を差し出す。
私がその手を取ろうとした瞬間、御座の天井が割れた。
御座に投げ入れられたのは、氷のように透き通った剣だった。
剣はそのまま月の御座のガラス状の床に突き刺さる。
氷銀鉱の剣は〈月の御座〉の底をたやすく貫いて、そのまま落下していった。
裂け目が急激に広がっていく。
空間が砕ける。
夜がガラスのように砕けて、私たちは真っ青な空と海のただ中に投げ出された。
「エーリカ!」
クラウスが私の方に手を伸ばすが、その手は空を切った。
私たちは風に揉まれて、離れ離れになる。
クラウスはすぐさま飛行の魔法を詠唱した。
彼は魔法で急加速し、落下する私に先回りする。
間一髪、クラウスは私を抱き留めると、ふわりと制動をかけた。
重力から解き放たれて、私とクラウスは宙に浮かんだ。
気づけば、巨大な竜に取り囲まれていた。
イグニシアの王の魂を守る、王竜の群れだ。
「……これは」
ここは、どこの海の上なんだろう?
足元には巨大な竜の隙間から広大な海と、点々とした島々が見える。
記憶にあるどの海図とも一致していない風景。
「見てください、クラウス様! 今まで地図で見たことのない未知の島々ですよ!」
「俺の計算した緯度と、未知の海域という情報を照らし合わせると、獣の海の可能性が濃厚か」
足元の海と島々を眺めていると、不意に自分たちの現在の状態に気づいた。
──これは、お姫様抱っこというやつでは?
恥ずかしいというより、気まずい。
あんなことがあったから、余計に意識しているのかもしれないけど、そうとうに気まずい。
「クラウス様、その、降りたいんですが」
「そうだな。氷銀鉱の剣はどこかに飛んで行ったが、影響範囲がここまで及んでいないとも限らない。魔法で浮遊し続けるのは危険だな」
私とクラウスは白い竜の背に着地した。
気づかれないようにほっと胸を撫で下ろす。
白い竜の上方にいた別の竜から、影が一つ降りてくる。
クロエだ。
潤んだアイスブルーの瞳に太陽の光がキラキラと反射する。
「エーリカさん!」
「クロエさん……!」
回避不可能の速度でクロエに抱きしめられる。
クロエの肩越しに、もう一人が現れた。
「エーリカ様! 良かった、ご無事で、ほんとに……私、私……!」
ベアトリスの疲労の色の濃い表情が、幼い子供のようになっていく。
「ありがとう。あなたたちが助けてくれたのね?」
答えの代わりに、瞳にたっぷりと涙を溜めたベアトリスからも抱きしめられた。
「うん!」
クロエが私とベアトリスごと抱きしめたので、三人揃ってお団子のようにくっつくこととなった。
苦しいけど、嬉しい。
別の竜が近づいてきて、その背から最後の一人が現れた。
オーギュストだ。
肩にはいつもどおりにゴールドベリを乗せている。
「やっと会えたな、エーリカ……!」
「ただいまです、オーギュスト様」
「帰ってくるのが遅くなりそうだったからな、みんなで迎えにきたんだぜ?」
「ありがとうございます!」
オーギュストはくるりとクラウスに向きなおって笑う。
「と、クラウスも無事で何よりだな」
「お前……あからさまに付け足したな、オーギュスト」
言葉に険はあるものの、クラウスもまた柔らかに微笑む。
「あ〜〜〜……それと、おめでとうだな、二人とも」
「……は?」
オーギュストがクラウスの耳元で何かを囁いた。
「……!!!!」
オーギュストの言葉に、クラウスの顔が赤く染まる。
「この介入がなければ、お前たちの帰還は百三十年後だったらしいぜ? お前たちがあの会話をしていたのが、だいたい今から一年後になる計算だそうだ」
──あの会話。
この流れ、私たちの会話をもしかしていろんな人──少なくともこの三人に聞かれていたの?
あの会話ってどのあたり?
──え?
ことによっては、ハーラン・スレイソンから例の記憶忘却のお薬調達した方がよい案件?
「で、これは私からのサービスだ」
「待て、なぜお前がそれを! 手紙を隠した箱には鍵がかかっていたはずだぞ!」
「次からはもっと分り難い場所に隠しておくといいぜ」
クラウスがオーギュストを止めようと手を伸ばすが、オーギュストはくるりと回避した。
私の混乱をよそに、オーギュストはするりと私の右手にそっとなにか紙を掴ませた。
「ほら、エーリカ。クラウスからの最初の手紙の、本当の手紙だ」
「えっ?」
オーギュストが私に囁く。
「ど……どうして、今、そんな手紙を私に?」
「十歳のクラウスが一生懸命書いたラブレターなんだ。訳あってお前に届いてなかったみたいでな。あいつの気持ちが嘘じゃないって証拠にと思って持ってきたんだが、なくても上手く行っちゃったな」
私がクラウスから最初にもらった手紙は、果たし状だったはずだ。
どういうことだろう?
というか、クラウスって、出会ってすぐの十歳の頃から私を好きだったということ!?
──いや、その前に、この話の流れ、やっぱり聞かれてたの!?
「お前……!」
クラウスが叫ぶと、オーギュストはまたくるりと向きを変える。
「今は応援してやる。でも、クラウス、お前がエーリカに辛い思いをさせたり裏切ったりしようものなら、私がすぐさま略奪するからな?」
オーギュストが冷たい目でクラウスを睨んでから、破顔した。
「まあでも、私はお前を世界で一番信じているしな〜〜〜。そんなことしない奴だって死ぬほど信じてる」
「オーギュスト」
オーギュストが拳を突き出すと、クラウスもまた拳で答える。
「あっ、いけない! 私まだ仕事があるんです!」
ベアトリスが目を擦りながら、クロエの拘束から身を剥がそうともがいた。
「へ? まだあるの?」
「ここからの辻褄合わせがまた一苦労でして……! では、失礼します!」
ベアトリスは、竜の上でダッシュして消えていった。
彼女の軌跡には原初の模様が浮かび、しばらくするとその痕跡も消えた。
「忙しいことだな。まあ、私たちはこのままゆっくりイクテュエスに戻ろうぜ」
青空を背景にオーギュストがウィンクした。
「そうだよ、帰ろう。エーリカさんのお兄さんも、ちゃあんと待っているよ」
クロエがそう言って優しく微笑んだ。
「先生たちも大丈夫。私の兄さんも。兄さんは、ちょっと大変な状況だし、まだ目が覚めてないけどきっと大丈夫!」
「みんな無事なのね?」
「うん!」
クロエが力強く肯く。
ちょっと大変な状況が気になりはするけど、生存しているのなら勝ちだ。
みんな生きて帰ってこれたのである。
心の中で張っていた糸がぷつんと切れたような気がした。
足元がぐらりと揺れる。
「エーリカ!」
「ええっ、エーリカさん」
「……エーリカ?」
クラウスとクロエとオーギュストの声が聞こえる。
私は、もうどうしようもないほど眠くて、深い夢の底に沈んでいった。