星が落ちる先3
魔法学園都市リーンデース近郊の丘の上。
錬金術師エドアルト・アウレリアは狂王カイン・グレンデルと相対していた。
「お前の声は届かない。分かるか、エド」
カインは旧友に手を差し伸べ、語りかける。
錬金術師は驚いたように目を見開いた。
彼の反応に、カインは言葉にできない奇妙な違和感を覚えた。
その時、遠くで一筋の流星が流れた。
満月よりも煌々と、燃え盛る星の光が夜を照らす。
不意に、カインは自分の心の中までも強烈な光に照し出されたかのように錯覚した。
「……!」
カインは現状を正確に理解し始める。
目の前にいる男は、宿敵オスヴァルト・ボルツではないことを。
「エドアルト・アウレリア……そうか、そうだ、お前は、あのオスヴァルト・ボルツの血族の裔」
カインは、先ほど自分がエドアルト・アウレリアを「エド」と呼んだことに気がついた。
その名でエドアルトを呼ぶ人間は、この世界でただ一人。
ブラド・クローヒーズだけ。
かつてブラドは狂王の器となる呪詛を受けた。
狂王カインの構築した呪術の上では、それは比喩以上の意味を持つ。
ブラドの肉体は、狂王カインの血液を受け止めるための器である。
血液には冥府に取り込まれた者の魂──記憶や知識、感情が保持されている。
そして、狂王カインの魂は、器となる者の魂を基盤として再生される。
つまり、肉体と魂を合わせて器なのである。
魂を欠いた状態では、金狼から受け取った血液からすべての狂王の記憶を再構築することが不可能になる。
ブラドの魂がなければ、狂王の意識は混濁し続ける。
だが、狂王は今、正しくエドアルトを認識していた。
それは、欠けていたブラドの魂が近くに存在することを意味する。
記憶の一部にはまだ靄がかかっている。
ブラドの魂を全て取り込まなければ、記憶の不整合を修復できない。
凶悪な捕食者は、ブラドの魂を探して、自らを取り囲む世界に視線を彷徨わせた。
その時、カインは気がついた。
自らを取り巻く世界が、とても美しいことに。
丘には花が咲き乱れ、空には透き通った月が輝く。
そして、次々と流れ落ちていく星が、カインの真っ赤な瞳に映った。
魔法使いが画策し、錬金術師が実行した屍都への星落とし。
これにより霊脈は多大なる損害を受け、千里眼の魔女による原初の模様への介入を許すことになるだろう。
己の計画がすべて無に帰そうとしていたその時、カインはその身が震えるほどの歓喜を感じていた。
この流れる星は、互いに殺戮しあう可能性を深層で抱えていた二つの国が手を取り合ったという証明だ。
あれだけ分断と憎悪と殺し合いの種を撒いたというのに。
それは、狂王の生まれた土地では決して起こらなかった奇跡だった。
ずっとこんな奇跡が見たかった。
カインの心は、湧き上がる歓喜に満たされていた。
千年近くに渡る憎悪の果てに、狂王は再び司祭王カイン・グレンデルとなって笑っていた。
──ああ、しかし。
いつから己は間違っていたのか。
記憶を手繰っても、蘇るのは苦痛と憎しみと孤独ばかりだ。
取り戻したかったのは、尊厳だったはずだった。
もっとずっと昔には、皆の幸福を選んだはずだった。
呪詛に手を染めたのは、失われた同胞たちのために奇跡を願ったからだった。
それなのに、どうして。
この奇跡はなぜ、己に与えられなかったのか。
歓喜は、いつの間にか激しい怒りと嫉妬に塗り変わっていた。
カインは、その熱く煮えたぎる泥濘のような感情の矛先に目の前の錬金術師を選び、その手を伸ばした。
赤黒い光が、大地に原初の模様を刻む。
しかし、カインがその一歩目を踏み出したとき、咲き誇る花々を透かすように白い光の模様が浮かび上がった。
白い光は、赤黒い光を打ち消すように、丘全体に広がる。
──エド、離れろ!
懐かしい声がエドアルトの脳内に響いた。
エドアルトは、すぐさま後方に退く。
草をかき分ける音に、カインは振り返った。
黄色い花弁を蹴立てて、黒い竜がカインに肉迫する。
ブラドの守護竜ボアズの金緑石色の瞳が、満月に照らされて爛々と輝いている。
ボアズは、その顎門を開いた。
竜の息がカインを襲う。
カインは磁場の盾を展開し、防御する。
黒竜の口から放たれた電撃はカインに届く前に軌道を歪められ、地面に焦げ跡を作った。
視界の端のエドアルトの僅かな動きに、カインは気付いていた。
その手の中には解呪の短杖があった。
ボアズと連携し、カインの防御魔法を妨害する意図は明白だった。
だが遅い。
カインは一度途切れた精神掌握の力をエドアルトに向けた。
エドアルトは短杖を抜いた姿勢のまま硬直する。
エドアルトの動きは封じた。
黒竜の息は届かない。
原初の模様は今でこそ拮抗しているが、徐々に掌握を取り戻している。
更なる一押しのため、カインは一人と一匹に向けて手を翳した。
掌に傷口が勝手に開き、そこから滴る血液が異形の怪物へと変化していく。
不意に、頭上を何かが過ぎったような気がした。
あの流星か。
そう思って見上げたカインの胸元に、何かが飛び込んでくる。
ゴボリと、カインの口から真っ赤な血が溢れた。
突然の激痛。
胸元を見下ろすと、虚ろな穴から大量の血がこぼれ出していた。
真紅の瞳は、にわかに灰紫に変わっていく。
血痕を目で追うと、そこには返り血にまみれた白い竜がいた。
もう一体のブラドの竜──白竜ヨアンが狂王の心臓を貫いていたのだ。
カインが夜空を仰ぐと、また星が流れた。
「は……最後に世界ごと呪って嗤おうかと思ったが──」
一歩、カインは踏み出す。
エドアルトと、二頭の竜は身構えた。
「興が削がれた……あれに比べたらなにもかも退屈だ」
ずるり、とブラドの肉体が倒れ伏せる。
ボアズがブラドの身体を守るように受け止めた。
エドアルトはすぐさま駆け寄る。
「ブラド!」
エドアルトが覗き込むと、ブラドがゆっくりと上半身を起こした。
入れ替わるように、ボアズとヨアンは眠りに落ちる。
ブラドの瞳は、エドアルトのよく見知った、紫を帯びた赤い色合いの瞳に戻っていた。
「無理をさせたようだね、エド。いつも、すまない」
「いいや、十分さ」
立ち上がろうとするブラドに、エドアルトは肩を貸す。
「回廊で心臓を貫かれた瞬間に、守護竜に精神を逃して狂王との完全同一化を回避した。しかし、その後に自我を失ってしまい、竜に同化しかけていてね。ずいぶん遅れてしまった」
ブラドは目を閉じて自嘲気味に笑う。
「ブラド、君は僕を批難できない程度には無謀じゃないか。よく戻ってこれたね」
「君の妹のおかげだ……それに、良くできた生徒達のおかげだろう」
一歩二歩と、二人で歩を進めながら、エドアルトがぽつりと問う。
「ねえ、ブラド。……君はもしかして……」
血の気のない肌の色。
貫かれて鼓動を打たない心臓。
次第に失われていく体温。
それはどう考えても死体だった。
ブラドは答える。
「狂王の施した不死の呪詛はまだ残っている。そうでなければ、こんな死体が魂を保持することは不可能だ」
エドアルトの瞳から、涙が溢れていた。
それが安堵から来るものなのか、絶望からなのか。
本当にブラドを救えたのか、それとも救うためにこれからブラドを終わらせなくてはならないのか。
もうエドアルトには判断できなくなっていた。
ブラドとエドアルトが前を向いた瞬間、彼らは列車の中にいることに気がついた。
その床にも、ブラドが丘に展開したものと同様の原初の模様がすでに広がっていた。
二人の前に、髪の乱れた一人の女が突然現れた。
魔法使いドロレス・ウィントだった。
「待っていたわ。ブラド・クローヒーズ……あなた、大きくなったわね」
疲れきった顔をしたドロレスは、小さな子供を見るような目で優しく微笑んだ。
「エドアルトもブラドも……二人とも、長く辛い旅路だったでしょう? でも、もう大丈夫。私がどうにかするわ。もう何も心配しなくて良いのよ」
小柄なドロレスは背伸びして、エドアルトとブラドを抱きしめた。




