怪物たちの祝祭6
「エドアルト、どうかブラドを頼むよ」
エルリックとクロードを残して、僕は進む。
もう後ろは振り返らない。
螺旋階段を上り、無人の広間を抜ける。
僕が玉座の間へと続く扉の前に立つと、扉は自ずから開いた。
まるで、この屍都の主が僕を招いているかのように。
玉座の間は、神殿にも似た荘厳な造りをしていた。
床や柱は大理石で作られており、黄金で装飾されている。
純白の壁には金箔で南方大陸の神話が描かれ、天井には星座が描かれていた。
それだけなら、きっと清浄な印象を持ったことだろう。
漆黒の垂れ幕には、金糸で紋章が描かれている。
紋章は生命の印を首から切った印。
上部に角のような突起の残る異形の十字だ。
全ての窓には、王冠を戴いた骸骨がステンドグラスで描かれている。
服飾の特徴から察するに、彼らは古代ロムレスの皇帝や代々のウェシル族の王だろう。
ガラスの色なのか、それとも光の色なのか。
血のような赤い光が、部屋に投げかけられていた。
数段高くなった位置に、装飾のないシンプルな白亜の玉座が設えられている。
一人の男が、玉座に沈むように腰掛けていた。
物憂げに、いかにも気怠そうに、僕を見下ろす。
狂王カイン・グレンデル。
数多の魂をその身に引き摺り込んだ冥府。
不世出の呪術の天才にして、呪われた化け物達の創造主。
未曾有の暴力の被害者にして加害者。
──そして、この世界で誰より孤独だと訴え続けている、寂しがりの怪物。
姿こそ同じでも、その魂は僕のよく知る男と別物だ。
血のように赤い瞳には、空虚な怒りが燻っているように見えた。
「迎えに来たよ、ブラド・クローヒーズ」
僕は友人に呼びかけた。
この声がまだブラドに届かないことなど百も承知だったが、今は口に出せればそれで良かった。
勇気を絞り出すための合図だ。
「すべてが手遅れだというのに、何故ここに?」
狂王は南方大陸の古代語で呟きながら、手を差し伸ばす。
指先から赤い血がこぼれ、影に落ちたかと思えば、その影が蠢きはじめた。
狂王が持つ怪物創造の呪術。
それを観測して詳細を後世に伝えた人間はいない。
ことごとく速やかに死んだか、人間ではないものに変わってしまったとされている。
故に、仮説として存在が示唆されているものの、一切の記録が残されていない技術だ。
影は蛇のようにうねりながら、するすると階段を下りてくる。
幾筋もの影の蛇は、やがて七つの束になり、鎌首を持ち上げた。
平面から立体へ。
影から肉へ。
蛇は多頭蛇のような姿に変わった。
七匹の多頭蛇は僕を取り囲み、一斉に開花する。
放射状に開いた顎の内側には無数の白い牙がみっしりと生えていた。
「友人を返してもらうために決まってるじゃないか」
狂王の問いに古代語で答えながら、左手に持った短杖を振る。
短杖拡張により、火焔の矢は長大な剣を象った青いエネルギーの塊に変わる。
僕は火焔の剣を振り抜き、多頭蛇を薙ぎ払った。
溶断された多頭蛇は再生することも叶わず、灰となって砕け散っていく。
狂王はつまらなそうな表情で、眷属の滅んでいく様を見下ろしていた。
「ここには、もうお前の取り戻したいものなどないよ、オスヴァルト」
ブラドの姿をした怪物は、表情を変えずに答えた。
意識や記憶が混ざっているのか、この敵は僕が何者かすら正しく認識できていない。
もしかしたら、誰も彼も区別できないこんな状態こそが、狂王カインの正しいあり方なのかも知れない。
「お前が救いたかった魂は、もうどこにもない」
狂王は、ここにいない死者に語り続ける。
もしかすると、これは狂王と伯父の間で過去に交わした会話の再現なのか。
それとも、僕を伯父と認識してしまっているだけで、言葉は通じているのか。
狂王は、ゆっくりと王座から立ち上がった。
その足下で、原初の模様が赤く輝く。
一歩──
たった一歩だけ、狂王は足を踏み出した。
──何を改変するつもりだ?
須臾の時、赤い光に飲み込まれる。
脳の奥を揺さぶられるような感覚の後、僕はどこかに着地した。
靴越しに感じる、小石混じりの土。
風に混じる潮の香り。
波の音。
海だ。
幻覚ではなく本当の海。
感覚の全てが、これは真実だと言っている。
馴染みのない、しかし、どこかで見たことのあるような景色。
──ここは、どこだ?
混乱しかけて、無理やり状況を飲み込んで再確認する。
水平線の向こうに見える島影。
周囲の植生。
そして、決定的なのは、どこか人工的な虫の音。
ここは、あの島だ。
伯父が狂王と戦った、あの人形だけの孤島。
過去における、決戦の場所。
──なぜ? なぜこんな場所へ?
まさか、追憶のために訪れたとでも言うのだろうか。
狂王の意図がつかめないので、何が起こってもいいように身構える。
断崖絶壁の地嘴の上に、狂王はいた。
煌々とした満月の輝く夜空の下。
暗い海を背に、彼の纏ったローブが風に揺れる。
「そう、お前に俺は救えない」
狂王を倒しにきた僕への、不可解な言葉。
──この世界中で、誰もお前なんか救おうとは思わない。
そう罵りそうになって、僕はある事柄について思い出した。
伯父オスヴァルトの暗号化された日記。
一見すると無意味に見える、不可解な記述。
ふと目に留まった異常な数値が気になった僕は、日記の中から数値を扱っていたものだけを抜き出した。
いくつかの暗号形式に当てはめ、試行錯誤してみると、意味の通る文章が現れた。
日記に見えたものは、二重の暗号だったのだ。
解析の結果出てきたのは、誰かへ向けた手紙のような短い文章だった。
そして、今。
不可解と不可解を掛け合わせて、僕は答えに気がついてしまった。
あれは、伯父から狂王への言葉だったという可能性に。
「僕が君の助けにならないのは、よく分かってるつもりだ」
「だからこそ、僕は思いついたんだ。君に君の物語から逃げてもらおうとね」
「君にとっては酷いお願いかもしれない。でも、これは君に対する憎しみなどではないということを、どうか分かって欲しい」
「全てが終わった後に、君が愛していたものを再び愛せるようにと、心から願っているよ」
僕は最初これを、共犯者の友人宛のメッセージだと思った。
でも、この語りかけは決定的におかしい。
もしも狂王に決死の攻撃を行った人間がいたとしたら、その人物はほぼ確実に死んでいるはずだ。
共犯者が生存している前提のメッセージが込められているのはおかしい。
共犯者ではないならば、誰に宛てたメッセージなのか。
先入観を取り払えば、見えてくるものがある。
伯父のメッセージの宛先は、あのアアル仮説に記述された、ウェシル族の最後の王子だ。
未曾有の暴力に晒されて殺されて、命を奪われた後ですら尊厳を奪われ続けた屍体奴隷。
仇を皆殺しにしても復讐を終えることが出来ず、狂ってしまった司祭王。
その凶行ゆえに、全ての人間から恐怖され、憎しみの対象になった、始まりの吸血鬼。
空虚な永遠の中で、死体にすら縋り付いた寂しがり屋。
「これは、オスヴァルト・ボルツから君に宛てた言葉だ」
僕は伯父がウェシル族の王子を逃すことが出来なかったことが、どうしようもなく悲しかった。
カイン・グレンデルは結局、自分の物語からは逃れられずに此処まで来てしまった。
狂王は、表情を歪めた。
その表情は泣き顔に似ていた。
溢れる滴は、血の色に変わった。
ボロボロと溢れる血は風に舞って海に落ちていく。
海から巨大な影が湧き上がってきた。
骨と肉で構成された、巨大な人間……胎児に似た骸の怪物。
腕を組んで天を仰ぐ様子は、祈りの姿に似ている。
新たに生まれた怪物を狙って、僕は魔弾の杖を振った。
狂王は右手をかざす。
十層の力場の盾が展開され、多重化された全ての魔弾が防がれた。
ブラドの魔法だ。
ブラドの魂はもう失われたと言いながら、力は失われていない。
いや、それともブラドの中にいた狂王が新たに学んだものか。
狂王は、一歩僕に向かって歩いた。
視界が再び赤い光に飲み込まれ、次の瞬間にはあの王座の間に戻っていた。
狂王は疲れ果てたかのように玉座に腰かける。
巨大な骸骨の頭部を持つ上半身のみの怪物が、主を守ろうとするかのように玉座ごと両手で包む。
これは、単なる時間稼ぎだ。
狂王は未だに本来の力を出せていないのではないか。
その証拠に、先ほどからまともに体を動かすことができていない。
わずかな動作で怪物を創造し、原初の模様を動かすのみだ。
何か齟齬が発生しているのか。
例えば、器たるブラドの体が、狂王を構成する魂の集合体を受け入れ切っていない。
ブラドの魂と狂王の魂の融合が終わっていない。
あるいは、ブラドが狂王に取り込まれてなお抵抗し、争っている。
「ブラド、もしかして、そいつは今は動きたくてもそれほど動けないのかい?」
答えがないことを承知で、ブラドに尋ねる。
ブラドの顔をした怪物の王は、軽蔑したような瞳で僕を見下ろした。
「お前が取り戻そうとしている男は、俺から逃げだした。いや、耐えきれずに壊れたか?」
「僕の知るブラドは、そんな臆病者じゃないよ」
巨大な怪物の両腕が、僕目がけて振り下ろされる。
僕は小型ゴーレムを投げると同時に場所替えを使い、怪物の手の届かない距離まで回避した。
「すでにブラド・クローヒーズは俺に敗北し、失われて久しい」
「そうかな? むしろ、お前こそブラドに負けている、と僕は思うね」
怪物は駄々をこねる子供のように、巨大な腕を何度も振り下ろす。
狙いも何もない、出鱈目な攻撃だ。
再び巻き込まれそうになって、場所替えで逃げる。
同時に、怪物は両腕から消滅した。
地雷化した分解を置き土産に残しておいたのだ。
「狂王に成り果てたお前ならば、別に原初の模様なんて大魔法に手を出さなくてもよかっだろう? 世界に取り付く宿痾の如く、世界をゆっくり腐らせて、闇に紛れて人を喰らっていくだけで、そう遠くない未来、お前たちは勝利していただろう」
一歩、一歩。
今度は僕の方から狂王に近づいていく。
狂王は身じろぎ一つせず、僕を見下ろしている。
「お前はブラドが紐解いた世界の秘密に心惹かれた。呪術の天才だったお前は、どうしてもその秘術を手にして動かしてみたかった。ただ世界を呪うだけなら、こんなマネは必要なかった!」
僕は柄にもなく叫んでいた。
挫かれたウェシル族最後の王子の愛したものは、おそらく伯父が心から愛していたものと同じ。
謎を紐解くことの楽しさ。
隠された秘密の美しさ。
「一度は呪ったはずの世界だった。しかし、その世界がまだ美しい秘密を、謎を、隠していることを知って、お前は心を動かしてしまった」
狂王は唇を吊り上げる。
怒りに染まるかと思ったその口元は、静かな微笑みを湛えていた。
彼は戸惑いがちに、己の頬と口元に触る。
狂王の真っ赤な瞳が、わずかな驚きに見開かれた。
「オスヴァルト、どこまでも呪わしい男だ」
楽しんでいることに、今頃気がついたのだろうか。
だったら、それはオスヴァルト・ボルツの願いの成就でもある。
「……俺を理解したいと言っていたな。今ならお前の望みを叶えてやれる」
狂王と視線が合う。
脳内に、突然まったく別の感覚が入り込んできた。
がくりと膝から力が抜ける。
強制的な感情の共有。
ブラドの、イグニシア王族の強烈な精神感応。
ずっと彼が抑えていた、彼の天才的な異能の一つ。
見たこともない風景や、感じたことのない感覚が脳裏で再現される。
視覚を奪われる。
たくさんの助けたかった家族・仲間・友人。
彼らが殺され、冒涜されていく光景。
感情を奪われる。
怒り・諦観・無力感・絶望、そして何より深い憎しみ。
感覚を奪われる。
罪人の名の下に与らえた、何十年もの恥辱と虚無。
後頭部に乗せられた足の重み。
生きたまま、体を開かれて、施術される感覚──
「……っ!!!」
僕は頭を振って、自分の身体感覚を取り戻す。
きっと、このまま彼の記憶と感情に呑まれたら、取り込まれてしまう。
初めて短杖を作った日、頭を撫でてくれた父の笑顔を。
生まれたばかりの妹の小さな指に触れた感触を。
夕焼けの空を背景にして、僕のために星を落とした母の笑顔を、思い出す。
僕は、僕を取り戻した。
何とか自分という境界を再構築しても、狂王の精神干渉は止まらなかった。
狂王だけではなかった。
虐殺の被害者たちの苦痛の記憶だ。
冥府に取り込まれた無数の死者の感情が、僕の中にバラバラに流れ込んでいく。
「どうだ、オスヴァルト。お前さえいなければ、永遠に忘れていられたものだ」
視覚と感情と感覚が、何度も上書きされて気が狂いそうになる。
狂王が、いつの間にか目前に近づいていた。
気がつけば、体の制御を奪われかけていた。
震える手を抑えて、短杖を狂王に向ける。
「いじらしい抵抗だな」
もうすぐ最悪の事態がやってくる。
僕は、ここから帰れそうにないらしい。
父と妹、そして母の顔が、脳裏に浮かぶ。
「……ブラド、聞いているかい? 君は、このまま死体の王様になるのかい?」
この声が届かなければ、まだ僕が僕を保てる間に、僕と彼の物語に終止符を打とう。
どの程度の足止めになるかは分からないが、最後の抵抗を行う。
わずかに動かせた左手で、分解を玉座の間全ての空間を満たすように展開する。
僕は、初めてブラドに会ったあの日のことを思い出した。
木漏れ日。
初めて聞く竜の歌声。
屈託のない笑顔。
二人で研究所を抜け出て歩いた、リーンデースの街並み。
狂王が、また一歩僕に近づいた。
分解を起動しようとした瞬間、原初の模様が輝き、玉座の間の様相が変わった。
そこは屋根も壁もない廃墟だった。
柱の配置こそ似ていたが、全て折れ砕け、あるいは倒れている。
玉座はなく、床は植物に覆われていた。
輝く満月の下、黄色い花々が咲き乱れている。
そこはリーンデースを見下ろす丘の上だった。
偶然か、それとも必然か。
あの日ブラドと二人で抜け出した、思い出の場所だった。
僕の腕から最後の力が抜け、短杖が落ちる。
ブラド・クローヒーズを乗っ取った狂王は、そっと手を僕に伸ばした。
「お前の声は届かない。分かるか、エド」
僕は、目を見開いた。
その時、遠くで一筋の流星が流れた。