クラウス・ハーファンの手紙
クラウス・ハーファンの手紙
親愛なるエーリカ・アウレリアへ
ハーファンの銀枝城に戻って、ひと月が経った。
今でも〈春の宮殿〉でのことが、昨日の事のように思い出される。
ようやく俺の方も落ち着いてきたところなので、お前に手紙を出そうと思った次第だ。
実を言うと、あの時のアウレリア訪問について、あまりよく思ってはいなかった。
父上とアウレリア公爵のあの会談、表向きは鉱山開発やら森林資源の話だったのは覚えていると思う。
だが、お前は気づかなかったかも知れないが、裏では秘密裏に俺とお前との婚約に関しての相談をしていたそうだ。
俺たちは揃って、親たちの決めた政略結婚のレールに乗ってたって訳だ。
俺は、このままお前と愛の無い結婚をさせられてしまうんだと思っていた。
どうせアウレリアの娘なんて、甘やかされた鼻持ちならないヤツだろう。
なぜ俺が、派手好きの性悪女と夫婦にならなければいけないんだ。
偏見たっぷりに、そんなことを考えていた。
だが真実は違った。
お前は、俺よりもずっと強い。
強い……?
いや、強い弱いという物差しでは、お前の良さは測れないか。
お前は俺よりもずっと……。
なんだろうな。
上手く言い表せないな。
ただ一つ言えることは、お前のような女性に会ったのは初めてだということだ。
まあ、話を元に戻す。
俺はあの時……あの地の底で、何も出来なかった。
迷宮の罠に阻まれて立ち往生していたときも。
得体の知れない怪物に妹が殺されそうだったときも
救ってくれたのは、いつもお前だった。
お前は俺に礼を言っていたが、そうじゃない。逆だ。
感謝を言うのは俺の方だ。
妹を、アンを守ってくれてありがとう。
間に合わなかったら俺は一生俺を許せなかった。
俺はお前に釣り合うような人間になりたいと思う。
今の俺では弱い。
だから、いつの日か、お前に見合うだけの強さを身につけたら、お前に婚約を申し込みたいと思っている。
もちろん、お前が気に入らなければ、この婚約は無かった事にしていい。
覚えておいてくれ。
お前が俺の物になる必要は無いが、俺はお前の物だということだ。
お前の身に何かが起こったときには、俺は誰より早くお前の元に駆けつけよう。
そして、俺の命に代えても、お前を守ってみせる。
君の永遠の盾 クラウス・ハーファンより
☆
「アン!! な、なぜ人の手紙を勝手に見ている!? か、返せっ!!」
「ダメです、クラウスお兄様! ダメダメです!!」
クラウスはいつの間にか忍び寄っていたアンに完成したばかりの手紙を奪われ、ひどく慌てた。
浮き足立った兄を、アンはばっさりと切り捨てる。
クラウスはこの三歳も年下の妹がとても苦手だった。
「お兄様。なんて、暑苦しい手紙を書いてらっしゃるんですか。
私が目を離すとすぐナナメウエで無駄な努力をするんですから」
「誰が暑苦しいと言うんだ!?」
「いかにもこれからストーカーヤンデレになります宣言じゃないですか!
こんなの貰ったら、エーリカお姉様が迷惑します!!」
「な! なんだと!」
「想いが重いんですよ!!」
「その前に、ナナメウエだのストーカーヤンデレだの、意味が分からないぞ!!」
意味が分からなかったが、クラウスにも手紙の中に重大な失敗が含まれている事だけはわかった。
まずは激昂している愚妹の話を良く聞かなければならない。
何と言おうと、アンは数少ないアウレリア公爵令嬢の情報源なのだから。
「エーリカお姉様とガールズトークした時のことなんですが……」
「ガールズトークか。それで?」
クラウスにはガールズトークの意味もよく分からなかったが流した。
アンはエーリカ・アウレリアの影響で奇妙な言葉を好んで使うようになった。
意味を把握しているのは、現状アンだけである。
こういった話が出てくると、クラウスは妹に従うことを余儀なくされていた。
「お姉様の好きな殿方のタイプを聞いたんです。
すると、好きなタイプはいないけど、嫌いなタイプはいると」
「……ほう。そうすると、消去法で彼女の好みを推測する事が可能なのだな」
「その通りです」
「重要な情報だ。続けてくれ」
「勝手に感情を押し付けてくる男性。
それと、一見好意を持っているようで、その実コミュニケーションとる気がない男性です」
「確かに、それはあまり良くない性質の男だな」
「あまり良くないどころか、同じ空気も吸いたくないそうですよ?」
「く、空気すら吸いたくないのか……!?」
「深刻ですよ?」
「深刻だな……」
クラウスは密かに心のメモ帳に重要項目としてアンの情報を記録する。
これにはエーリカなりの深遠な理由があるはずだ。
不用意にそれらの行為を行うと、エーリカから絶対的な拒絶を受ける可能性がある。
クラウスは分からないなりに、そう考えた。
「あとは、いきなり後ろから殴ってきたり、刺してきたりするタイプもお断りだとか……」
「それは……、当たり前のことじゃないのか?」
クラウスは当惑した。
彼の婚約者候補はまだ八歳だというのに、どんな経験をしてきたのか。
暗殺か?
やはり何者かに暗殺されそうになった経験からだろうか?
だから時々あんな暗い目をするのか?
クラウスは「やはり俺が守らなければ」という意志を強くかためた。
「世の中には、俺に分からないことばかりだな……」
「エーリカお姉様は、一見誰にでも優しい方ですが、実は激しい男性嫌い……。
いえ、いっそ人間嫌いの可能性すらありますよ」
「え……?」
「あーあ、お兄様は鈍感だから分からなかったんですね。
エーリカお姉様って、笑顔のポーカーフェイスじゃないですか」
クラウスはさらに当惑した。
〈春の宮殿〉に滞在していた頃のエーリカを思い返す。
好かれているとまでは言わなくとも、嫌われている可能性はまったく考えていなかった。
なぜなら、どんな時でもエーリカは薄く微笑んでいたからだ。
「誰でも優しく受け入れてくれそうな笑顔だとか、むしろ自分だけに特別な好意を寄せている笑顔なんじゃないかとか──
まさかそんなことを考えてはいませんよね?」
「ぐぬぬ……」
「あれは一定以上距離を縮めることは絶対許さない笑顔でしたよ?」
「そ……そうだったのか……」
「沢山の人に囲まれて楽しそうにしていても、時々寂しげな視線をそっと遠くに向けているのには、気がついてました?」
「……ああ。それくらいはな」
「グッド! ギリギリ合格ラインですね、クラウスお兄様!」
寂しげな目というより、ぼーっとしてる感じだったがな。
クラウスにはそんな風に見えたのだが、逆らうのは止めておいた。
こういう時の妹には、何を言っても言葉では勝てないのだ。
そんなことを考えていると、アンは真剣な目でクラウスに詰め寄る。
兄がちょっと引くくらいの真剣な目だ。
「妹の私にとっても、エーリカお姉様がお義姉様になるのは嬉しいことなんです」
「お、おう……」
「クラウスお兄様、もっと頑張れますね? まだ本気じゃないですよね?」
「おう……」
「今はまだ、そんな弱腰でも許しましょう」
「許されたのか、俺は」
何故、お前に許されねばならぬのだ、とクラウスはこの世の理不尽に震えた。
「そう、今はまだいいんです。クラウスお兄様にはまだ、時間というアドバンテージがあります」
「お前は何と戦っているんだ」
「何を言ってるんですか! 本当なら、クラウスお兄様が率先して戦わなきゃいけないんですよ!」
「おう……」
ちょっとだけ、クラウスはアンの剣幕にビビってしまった。
やっぱり女はだいたい苦手だ、と彼は思った。
「つまり、どういうことなんだ?」
「エーリカお姉様は、それはそれはお美しいのです」
「ん……まあ、そうだな……あいつは、まあまあ美人ではあるが……」
「はあ!? もう一度、私の目を見て言って下さい?」
「ああ、あいつは子供とは思えんほど綺麗だ……やめろ、お前の目など見れるか……」
クラウスが羞恥心に負けて目を逸らす。
兄に隠れて、アンはしてやったりという表情を浮かべた。
「エーリカお姉様がもう数年もしたら、きっと絢爛で妖艶な大輪の薔薇のような絶世の美女になります。
その時になって煮え切らない態度では遅いんですよ?
分かっていらっしゃいますか、クラウスお兄様?」
「何が遅いと言うんだ」
「お兄様。エーリカお姉様が成人なされたあかつきには、亡き母君の広大な領地を継承なさいます。
アウレリアの豊かな銀鉱脈の数々……そこに類稀なる美貌が加わると、どうなると思います?」
「それがどうしたと言うのだ?」
あいつが仮に文無しの平民でも、万難を排して妻にする気概くらいはある。
そんなつもりで切り返したクラウスだったが、対するアンの反応は予想外なものだった。
「優良物件すぎるんです! 引く手数多なのです! 国中ライバルでいっぱいですよ!」
「なん……だと……」
「例えば、ルーカンラントのウルス辺境伯ハーランなどは、ほぼ確実に狙ってきます」
「な、なに……!? 奴はエーリカより二十六も年上だろう!?」
齢三十四を数えるルーカンラントのウルス辺境伯ハーランには血腥い噂が絶えない。
領民の女、しかも夫のある妻を攫って惨殺した。
謀殺した部下や領民の幼い娘を何人も囲い込んでいる。
奉公に出た女中が、二月と経たず孕まされ、その身の上を悔いて身を投げた。
などなど。
法治と人治の境目の曖昧な場所では、貴族による女の略奪程度の蛮行なんて通常営業である。
しかし、それにしたって、ハーランは殺しすぎている。
「有名なイグニシアの第一王子、オーギュスト殿下。
あのお方もお兄様と同じ十歳。最大のライバルかもしれません」
「なに! あのオーギュストか! それは許しがたい!」
イグニシア第一王子オーギュストもまた、悪い噂しか聞こえて来ない人物である。
王妃の不貞によって生まれ、愛情を与えられずに育った。
王家の血が流れていないので、イグニシアの守護獣である竜からの祝福をうけるどころか騎乗すらままならない。
我がまま放題でド暗君間違いなし。忠臣たちも匙を投げている。
王位を継承したならば暗黒時代が訪れるだろう、と司教たちはこぞって預言している。
ただし、オーギュスト王子に関しては、明確な被害者が存在したという話はアンも聞いていない。
噂だけでそこまで否定するのは良くないというのが、アンの持論である。
この辺り、未来の悪女と名高かったエーリカも、噂と実物は全く別のものだったという経験が大きい。
しかし、兄を焚き付ける材料として考えるならば別だ。
敢えて不確かな噂に便乗しよう。アンはそう考えていた。
結婚したくない貴族は数多いけれど、クラウスが悪行を知っているレベルとなると、この辺りが限界なのである
「オーギュスト殿下が相手では、王妃になられても決して幸福にはなれませんよ。側室ならばなおさらです」
「側室だと!? あのエーリカをか!?」
「とは言え、オーギュスト殿下はいずれは連合王国の王になるお方です。
万が一、結婚が決まってしまってからクラウスお兄様がエーリカお姉様を救おうとしたら、何が起こるか分かりますよね?」
クラウスの眉間に皺が寄る。
そうなれば、内戦の危機である。
それは避けなければならない。
何のために旧王家が屈辱に耐えて臣下に下ったというのだ。
「しかし、なんでお前、ハーファン以外の貴族連中の事情に詳しいんだ?」
「他人事じゃないからです」
「ほう、どういうことだ?」
「ハーファンの政治的事情が悪くなったら、例の辺境伯とか第一王子のところに、私が嫁ぐことになりかねません」
「それは俺が許さん」
「お兄様の意志ではどうにもなりません」
「どんなことになっても、それは俺が許さん。だいたいお前、常々理想の男がいると──」
「もう! 私の話はいいです!」
ちなみに、こんなに兄クラウスに厳しいアンであるが、理想の男性はこの朴念仁の兄である。
彼女は兄と同等かそれ以上に強い男性にしか嫁ぐ気はないのである。
そんなわけで、実は今回の婚約話に一番反感をもっていたのは、アンであった。
しかし、真っ先にエーリカ・アウレリアに誑されたのもまた、彼女である。
それは〈春の宮殿〉の薔薇庭園を最初に案内された時だった。
あの時、既にアンはエーリカの人となりを見極め、この女性なら兄クラウスを任せられると考えた。
推測が確信に変わったのが〈来航者の遺跡〉最深部における一件であることは、もはや説明するまでもないだろう。
「ハーファンとアウレリアの関係が強固になれば、私の結婚も自由になるわけです」
「そうだな。確かに、お前にとっても他人事ではない」
「だから、ちゃんとエーリカお姉様に、正常なコミュニケーションで! 程よく! 好意を伝えてください!」
「お、おう……」
アンの鋭い視線に、クラウスは目を逸らした。
もともと自分の気持ちに鈍く、あまり愛想のよくないクラウスである。
自分の本心をどのように加工・装飾すれば程よい文章がかけるか、全く分からなかった。
「……恥ずかしくて嫌だなって顔してますね」
「うっ」
「……難しくて面倒くさいなって顔してますね」
「ない。そのようなことは断じてない。安心しろ」
「では、もう少しマイルドかつライトに、それでいて確実にお兄様の恋が伝わるように書き直しです!」
「こ、恋だと!?」
「違うんですか」
「ち、ちがっ、断じて、断じて、違うからな!!!」
「ああもう! 往生際の悪い……!」
美しきハーファンの銀枝城に、アンの叱責とクラウスの悲鳴が響き渡った。
☆
例の事件から一か月半が経った頃のことである。
西の公爵令嬢エーリカ・アウレリアの所に一通の手紙が届いた。
上質な犢皮紙に認められたそれは、東の貴公子クラウス・ハーファンからのものであった。
『あの黒髪の侏儒からの手紙か』
声の主は、すっかりエーリカに馴染んだザラタン──改め、黒竜ティルナノグである。
結局、ティルナノグは拘束用の甲冑から抜け出しても、特に逆らうことは無かった。
今はちょうど、盥に張った湯の中で、のんびり入浴の真っ最中である。
「ええ、そうよ。アン様からの贈り物も届いているわ」
『ほう、供物か。流石俺に手傷を与えた女だ。見所がある奴だな』
「供物……? 供物なのかなあ、うーん。まあ、そうね」
『俺が開けても良いのか?』
「ええ、いいわ」
エーリカから許可を貰うと、ティルナノグは湯浴みを切り上げた。
そして、うきうきといった風情で包装を解きはじめる。
『おお! 豚の腿か!」
「わー……、すごく上等な生ハム原木……。うれしー……」
生ハム原木の足首にはハーファン公爵家の紋章つきのラベルが巻いてある。
じっくり熟成された逸品だ。
というか、道理で大きくて重いと思った。
東の名物は森の潤沢な団栗で肥えた豚と、柔らかい白詰草で育った仔牛だったな。
そんな情報が、エーリカの脳裏に去来する。
『喰ってもいいのか?」
「ええ。あ、ちゃんと私の分も残しておいてね」
『うむ。任せろ。俺は友を飢えさせたことは一度もない』
女子としては、肉を宛てがわれて喜んでいいのだろうか。
一度は躊躇したものの、すぐにエーリカは自分の疑念を適当に流すことにした。
何はともあれ、肉をくれる人には悪い人はいないだろう。
そうこうする間に、ティルナノグは生ハム原木に豪快にかぶりついていた。
「さて、手紙の方を見てみますか」
エーリカは手紙の封を開けた。
はじめこそ、緩んだ笑顔で紙面に目を落としていたエーリカだったが、次第に表情が曇っていく。
読み終えた彼女は、神妙な顔のまま空中に視線を彷徨わせた。
ティルナノグがそれに気がついて肉から顔を上げる。
『どうしたのだ?』
頭痛に苛まれているような表情でしばし額をおさえた後、エーリカは犢皮紙をティルナノグに見せた。
『お前は強い。俺はお前に負けないような男になる。待っていろ、か……』
「……どう思う?」
『果たし状だな』
「あ、私の気のせいじゃないんだ……」
『あいつは強いが、お前ならきっと勝てる。俺には分かる』
「いや、そうじゃなくてね……」
東の天才魔法使いにライバル視されてしまった、とエーリカは受け取った。
何がまずかったのか、まったく分からなかった。
これは、もしかすると、新たな死亡フラグなのかもしれない。
友達になれたと思ったのに。
というか前世を含めて、人生で初めてできた、異性のまともな友人かもしれなかったのに。
エーリカ・アウレリアは少しだけ下唇を噛んだ。
彼女の人間不信のレベルはまた一つ上昇してしまったようだった。




