巨石の祭壇4
場所替えは成功した。
私はアンの居たはずの座標へ、アンは私の居た座標へ。
二人の足元に展開された魔法陣によって、瞬きをする間に入れ替わっていた。
私の眼前には、復讐の巨獣ザラタン。
彼からは、魔力で出来た無数の黒い腕のような影が、禍々しい黒い異形の花弁のように伸びていた。
死の腕の杖から吸収され、賢者の石の力を使って増幅された、即死の呪詛だ。
黒い腕は隙間なく私を取り囲み、その全てが確実に私を照準している。
避けられるはずがない。
視界の端には、悲痛そうな表情でこちらを見守るクラウスとアンの姿が見えた。
ザラタンの恨みの対象はあくまでも〈来航者の一族〉……そしてその末裔である私にある。
ハーファンの兄妹は、怪物の復讐とは無関係だ。
だから──
(逃げて。お願い、あなた達だけでも、逃げて……)
痛みも無く、苦しみも無く。
黒く長き死神の手は、私に優しく触れた。
私は目を閉じて、それを受け入れる。
力を失った体は、ゆっくりと仰向けに倒れていく。
お兄様、お父様、先立つ不孝をお許しください。
こんな電波な娘に優しくしてくれて、ありがとうございました。
エーリカはお母様のところへ行きます。
思えばエーリカとして生きた八年間は短くも充実した人生だった。
我が侭放題に過ごせたのは貴重な経験だった。
前世の私なら、とても出来ないことだ。
もし次に転生するなら、私、牧草かコウテイペンギンがいいなあ。
(……あれ? もしかして、私、まだ死んでない?)
死の腕の魔法は、慈悲の死と違い、速やかに死を履行せしめる。
だから、そろそろ……いや、とっくの昔に意識を失っていてもおかしくない。
何故だろう?
それに、地面に叩き付けられそうな頃合いなのに。
私は目を開く。
エーリカ・アウレリアのトレードマークである金髪縦ロールが見えた。
いつも見慣れたきっちり巻いた縦ロールではなく、激しい運動のせいでちょっとヘタレている。
そんな違いがはっきりと見て取れる。
髪は、風になびいたような形のまま、静止していた。
いや、髪だけではない。
髪を縛っていた地味な色のリボンも、空中に舞ったまま静止している。
いつの間にか手放していた場所替えの短杖もだ。
空気中の埃も。
ザラタンが破壊した柱の残骸も。
そして、怪物ザラタンも。
(これは、走馬灯なの……?)
いや、違う。
全てが止まってしまったわけではなかった。
私からだいたい半径四、五メートルくらいの範囲内のものだけが止まっている。
そんな走馬灯があるはずがない。
停止した空間の外側には、銀色に輝きながら高速で周回する無数の小さな物体があった。
(銀色? 飛行物体? UFO……じゃない、あれは呪符?)
銀色の魔法陣を展開しながら、半径五メートルの円を描いて呪符が飛び交う。
呪符の結界が、時間の流れる速さを遅くしているようだった。
でも、おかしい。
空間操作の魔法と同様に、時間操作の魔法は最上位に位置する。
クラウスも、アンも、こんな魔法を使えるはずがないのに。
俯き加減のクラウスが、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
彼は無造作に結界の中に入ってきた。
どうやら、クラウスには時間操作が影響していないように見える。
『こ、……こ、ぞ……う……、き、さ……ま……な、な……に、を……』
「黙れ」
憎悪に満ちた暗い声が、ザラタンの言葉を遮った。
十歳の少年とは思えない、冷たく重々しい声。
「……よくも」
クラウスが腕を振ると同時に、ザラタンが何かに打ち付けられた。
重い金属のハンマーが、分厚い鉄板を撃つような音。
攻撃を受けたらしき怪物の装甲には、小さなヒビが入っていた。
「よくも」
もう一度、クラウスが腕を振る。
今度は私にも見えた。
彼の展開した防護陣から一枚の呪符が飛び出し、ザラタンを打ち据えたのだ。
同じ箇所に攻撃を受けた怪物の外装は割れ、中から黒い液体が飛び散って、やはり空中で静止する。
クラウスが顔を上げた。
彼の顔からは表情が抜け落ちていた。
冷たく、厳しく、硬質な無表情。
そのクラウスの瞳は、透き通ったサファイアのような、どこまでも吸い込まれそうな蒼い色をしていた。
その目から、たった一雫、涙が溢れる。
「よくも」
呪符が怪物を打つ。
また少し、ザラタンの体が砕けた。
いくら防護陣にはザラタンに特化した効果を上乗せしていたからって、限度がある。
いったいどれだけの加速をかけて衝突させているのか。
この時間を遅延させる結界の中では、ザラタンに抵抗する術は無い。
避けることも、身を守ることもできない。
再生も、物質転換も間に合わない。
攻撃を吸収したくても、意識と体の時間差によってタイミングを合わせることが出来ないようだ。
運良く吸収できても、あくまでもそれは防護陣だ。
単なる防御用の魔法陣となってしまった呪符は、すぐさま他の呪符によって破壊された。
「よくも」
クラウスが腕を振る度に、ザラタンの巨体が砕け、本体である黒い液体が露出していく。
ただひたすらに一方的な暴力。
呪符自体はただの小さな紙片でしかないのに、その一撃は巨大な鉄塊のように、怪物を粉砕していく。
腕を振る。砕く。
腕を振る。砕く。
腕を振る。砕く。
腕を振る。砕く。
まるで、それだけのために作られた機械のように、クラウスは静かに怒りを叩きつけ続ける。
不意に全ての呪符が空中に静止した。
クラウスが長杖を振り上げて構える。
彼の澄んだ蒼い瞳から、また一粒涙が落ちる。
私は、不謹慎にもそれが、とても綺麗だ、と思った。
「よくも……、よくも、俺の友を……殺したな……?」
杖の石突きが石床を打つ。
それを合図に、防護陣を構成していた無数の呪符が、一斉にザラタンに飛びかかった。
クラウスの魔法は、まるで銀色の竜巻のようだった。
それは見た目にはとても美しいのに、触れただけで全てを粉砕する破壊の暴風。
既に五体をバラバラにされていたザラタンは、文字通り原形をとどめないほどに粉砕されてしまった。
黒い液体に戻ったザラタンを、呪符が隙間無く包み込む。
「俺は、お前を許さない」
呪符の球体が、ゆっくりと小さくなっていく。
今度は虹色の光を発しながら、中にいるザラタンを圧搾するかのように。
最終的に、ザラタンを閉じ込めた呪符の球はテニスボールくらいの大きさになってしまった。
もしかして、時間操作魔法だけじゃなく、空間操作魔法も使ってるの?
未熟な体や不安定な精神は、東の魔法を阻害する。
しかし、強い感情はその不利を覆すほどに、魔法の力を増幅すると言う。
私は、こんな時なのに、少しだけ嬉しかった。
あんなにも私を嫌っていたクラウスが、私のために怒ってくれたからだろう。
クラウスは空の水薬壜を取り出し、歌うように呪文を唱える。
古の怪物は、彼を閉じ込める呪符ごと、小さな壜の中に吸い込まれていく。
孤独な巨獣ザラタンは、再び封印の眠りにつくのだろう。
クラウスの歌う封印の呪文が、なんだか私には哀悼の歌のようにも思えた。
「……エーリカ、俺は、……お前を」
クラウスは怪物の封印が終わると、力なくしゃがみこんだ。
それと同時に、止まっていた時が動きだす。
私は仰向けに床に倒れた。
う……、腰の辺りに瓦礫が……。
「いったああああ〜〜〜〜!!」
私は悲鳴をあげながら、平たい床を求めて悶え転がる。
クラウスはびくん、と体を震わせてからゆっくりとこちらを向いた。
「え……?」
おっと、目が合った。
軽く手を振って、にっこりと微笑んでみる。
クラウスの顔に表情が戻る。
なんだか、怒ってる?
いや、驚いて、喜んで、恥ずかしがって……。
違う。怒ってる。
やっぱり、ものすごく怒ってる。
まずい。
どうやって逃げよう。
悩んでいるうちに、アンが私に駆け寄ってきて抱きついてきた。
「エーリカ様! よかった、ご無事で!」
「ええ……、もう大丈夫ですわ、アン様……」
極度の緊張のせいか、アンの頬が冷たい。
できるだけ優しく背中を撫でていると、クラウスもすぐ側まで来ていた。
まだ怒っているけど、アンがいる手前、何も言えないでいるようだ。
アリと共生するアブラムシの気分だ。
これなら、テントウムシなクラウスは攻撃できない!
そんな不埒なことを考えていたら、アンも照れた様子で我に返り、私から離れてしまう。
ああっ、アン様、もう少しハグしててもいいんですよ!
お願い私を守って!
「お前……っ、どうして生きてる!」
「……どうしてでしょうね?」
「生きてるなら、生きていると言え! 勘違いしてしまったじゃないか!」
「喋ろうにも、エーリカ様はお兄様の時間操作の結界内に取り込まれてましたよね?」
「くっ……!」
「せっかく無事に生きてたわけですし、もっと喜んでくれてもいいじゃないですか」
先ほどまでの大人っぽい表情はどこへやら。
クラウスは十歳の子供らしく拗ねたような表情で、ぷるぷると握った拳を震わせている。
「はっ!? クラウス様、まさか!」
「な、なんだ?」
「本当は、私が生きてるのが、嫌なんですか……?」
「うわ……、お兄様……最低……」
「違う! そんな事、あるわけ無いだろう!」
いやいや、うっかり弄ってしまった。
私も素直に感謝を伝えるのが恥ずかしかったらしい。
他人のことは言えないね。
「クラウス様」
「今度はなんだ!」
「助けて下さって、ありがとうございます」
「あ、ああ……」
「あと、友人として怒ってくれて、ありがとうございます」
少し遅れたけれど、心からの感謝をクラウスに伝えた。
彼は苛立ってるのか恥ずかしがっているのかよく分からない表情をして、私から目を逸らす。
「まあ、いい……俺は、お前が無事なら、それで、いいんだ……。俺はな、エーリカ……」
「あっ!」
「な、なんだいきなり!」
「どうしたんですか、エーリカ様」
「もしかして、死の腕の呪いと、お兄様の慈悲の死の呪いが衝突してる?」
私が死の腕で即死しなかったその理由。
既に私は慈悲の死によって、数時間後に死ぬ運命が確定していた。
これは死の腕の与える速やかな死の運命と矛盾する。
二つの相反する死の運命が鬩ぎあった結果、より強力に作られていた慈悲の死が勝利したのだろう。
禍福は糾える縄の如しというか、人間万事塞翁が馬というか。
さすがです、お兄様……。
こんなに強力な死の罠なんて、誰にでも作れるものじゃないですよ。
ていうか、これ、ちゃんと術者以外でも解除できるの……?
一抹の不安が脳裏をよぎるけど、まあ、いいかな。
「お前……それを狙って場所替えしたんじゃないのか?」
「いえ、全然。すっかり忘れてました」
「なら、どうしてだ」
「……なぜでしょうね?」
「俺に聞くなよ……」
「こう、その場のノリに流されて、ついうっかり?」
「お前! そんな適当さで命を捨てるなよ!」
「クラウスお兄様! エーリカ様にこれ以上無礼なことを言ったら、私が許しませんよ!!」
なぜかクラウスとアンの兄妹喧嘩になってしまった。
私はそろりと、二人を刺激しないように静かにその輪から離れる。
この二人、なんだかんだで仲良いよね。
そんな他人事のようなことを考えながら、私は二人のやり取りを眺めて楽しんでいた。
☆
私たち三人は、全員無事に〈来航者の遺跡〉の遺跡から脱出できた。
最終的には通り抜け状態でひたすら浮遊の短杖を振るだけの簡単なお仕事である。
〈春の宮殿〉に戻る頃には、ちょうど日付が変わるところだった。
私が遺跡に入って、だいたい四時間が経過していたことになる。
体感時間よりも遥かに短い。
前世を含めて、一番長く濃密に感じた四時間だった。
クラウスが仕掛けた幻影迷宮化の魔法を解除し、私たちは父の元へ向かった。
「そんなことがあったのか、エーリカ」
どこまで正直に話すか悩んだあげく、〈来航者の遺跡〉でエドアルトお兄様の仕掛けた保存箱の罠にかかってしまったことだけを伝える。
最下層に行ったとか、古の怪物の封印を解いたとか、まして命をかけて再封印してきましたとか、とても言える勇気はない。
「……申し訳ありません、お父様」
ただただ平謝り。
前世で学んだジャパニーズ交渉スタイルである。
低姿勢で反省を示していると、クラウスが私を庇うように割って入ってきた。
「これは俺のせいなんです。俺が巻き込んでしまったんです。エーリカは何も悪くありません」
「クラウス君……エーリカを守ってくれて、感謝するよ。あの遺跡に行って無傷で戻ってこられたのは、君が守ってくれたからだろう?」
「いえ、違うんです。俺はむしろ──」
「はい、そうです、お父様。クラウス様に守っていただきました」
私はクラウスの言葉を遮って、被せるように言う。
話がこじれるから、っていうのもその理由だけれど、守ってくれたことを感謝しているのだって本当だ。
「そうか……クラウス君、私にとって、エーリカは何者にも代え難い宝なんだよ。この恩は父として、アウレリア公爵として、必ず君に報いると約束しよう」
そう言って、アウレリア公は自分より三十歳以上も年下の少年に対し、貴族にとって最上位の敬意を表す礼を行った。
クラウスはまだ何か言いたそうだったけど、それ以上は食い下がらなかった。
父はクラウスとアンを先に下がらせた。
ハーファン公夫妻が彼らを待っているのだ。
「エーリカ……」
「はい」
そして、父はそれ以上何も言わず、ただただ静かに優しく私を抱きしめてくれた。
叱りつけられるより、ずっと罪悪感を感じる。
私が私を粗末に扱ったら、悲しむ人がいることを痛感した。
その後、父の手によって滞り無く慈悲の死の解呪が行われた。
☆
「ああ〜〜〜〜、これでやっと眠れるのね……」
父の解呪が終わったのは、〈春の宮殿〉に帰宅してから二時間後だった。
解呪の儀式の最中に、心配したクラウスは何度も私の様子を確認しにやってきた。
最終的には、私の寝室の前までエスコートしてくれやがりましたよ。
律儀すぎる人だよね。
私は兄から借りた鞄を放り出し、衣装を脱ぎ散らかし、そのままベッドに倒れ込む。
もうだめだ。
もう一歩も動かないぞ。
ていうか、二度と迷宮になんか潜らないぞ。
ダンジョンなんて、ゲームだけで充分だ。
ゴロゴロしていると、脱いだ衣装のポケットから転がり出たらしい、固いものに手が当たる。
迷宮から脱出するときに、クラウスから渡してもらったものだ。
「ああ、これは……、まだ一仕事あったわ」
虚ろな目で、私は自分の作業机に向かった。
錬金術用の素材が入った棚を隅々まで引っ掻き回すと、何とか目的の材料は見付かった。
既に学んだ技術の応用でいけるかな。
でも、あれって、結構時間がかかったような。
……これは、徹夜になるかもしれない。
恨めしい目で、ベッドを振り返る。
ああ、愛しのお布団……。
未練を振り捨てて、私は作業机の上に乗った戦利品に集中することにしたのだった。