崩れゆく病弱の仮面と焦る男たち
「み、ミレーユが、妊娠を……!?」
父の執務室から漏れ聞こえた叫びに、廊下を歩いていたオレーリアの足が止まった。
何事かと執務室のドアに近づいて耳をそばだてる。
両親が、いつものように姉の主治医であるロドリック医師から診察結果の説明を受けているようだった。
「何を言っているのですか!? ミレーユが妊娠などと! あの子に限ってありえないことだ!」
「そうでございますわ! 可哀想にあの子はほとんどの時間をベッドから出ることも叶わず、痛みに苦しんでいるのですよ!」
オレーリアは廊下の壁に背を預け、冷ややかな笑みを押し殺した。
(お父様も、お母様も、お姉様の言うことを信じていらっしゃるのね。ちゃんと見ていたらわかるでしょうに)
オレーリアは、小さく息を吐いた。
――まあ、いい。
今さら二人に信じてもらおうとは思わない。いずれ、目の前に現れたものを信じるしかなくなるのだから。
主治医のロドリック医師の説明によれば、ミレーユは妊娠四ヶ月目に入っているらしく、堕胎は体のことを考えても危険だということ。病状を考えると、体が出産に耐えられるかは何とも言えないとのことだった。
すべては、あの日の予感通りに進んでいた――。
◇
あれは、両親が揃って、父の友人である伯爵家の慶事に出席するため、屋敷を空けていた日のことだった。
セバスチャンもこの日は訪問していないはずだった。
オレーリアが後継者教育の合間の息抜きに庭を散策していると、風に乗って不穏な音が聞こえてきた。
それは、二階にあるはずの姉・ミレーユの自室の窓から漏れる艶めいた声だった。
あまりの衝撃に、オレーリアは周囲を慌てて見回した。
(えっ? 一体、誰と……?)
病弱で、一人では自室から一歩も出られないはずの姉の部屋の窓。しかし、そこから聞こえるのは明らかに男女の情事の気配だった。
不審に思ったオレーリアは、屋敷の中で最も信頼している専属侍女のコレットにこっそりと探りを入れさせた。
そして翌日、コレットからもたらされた報告にオーレリアはさらに凍りつくことになった。
相手は、最近、『ミレーユを抱き抱えて散歩できる護衛』として採用されたばかりの男――パスカル。その採用に際しては、ミレーユ自身の意見を参考にしたと侍女たちから聞かされた。
パスカルは、奇しくも、オレーリアの婚約者であるセバスチャンと同じ、茶色の髪に茶色の瞳をした男だった。
疑惑はみるみるうちに深まり、やがてそれは耐え難い嫌悪へと変わっていった。
セバスチャンと密通しているだけでも汚らわしいというのに、姉は屋敷の護衛であるパスカルとも関係を持っていたのだ。
だが、オレーリアの中で、それ以上に奇妙で引っかかる点があった。
(おかしいわ……)
王国全土が恐れる不治の病、『妖精の気まぐれ』。
その症状は、高熱、耐えがたい倦怠感、そして肌を突き刺すような原因不明の激しい痛みであるはずだ。戸外の光を嫌い、ベッドから動けなくなるほどの苦しみを伴うと聞いていた。
それなのに――。最近では、度々、『護衛に抱きかかえられて庭を散歩する』姿が目撃されている。
男たちとの快楽に溺れているときの姉の嬌声には、痛みに苦しむ気配など微塵もなかった。まるで嘘のように、その嬌声は軽やかで、貪欲に悦楽を貪っているように感じられた。
(あの診断は、本当に正しいのかしら?)
真実を暴くため、オレーリアは屋敷に出入りする主治医・ロドリック医師の動静を密かに観察し続けた。
そして訪れた、定期診察の日。オレーリアは侍女から、信じがたい報告を受けた。
診察と称して姉の部屋を訪れるロドリック医師は、診察を終えてもなかなか出てこないことが度々あった。侍女たちの間では、二人の関係はすでに周知の事実となっていたらしい。
なんと、不治の病に侵されているはずの患者であるミレーユは、ロドリックとも、あろうことか、いかがわしい関係を結んでいたのだ。主治医をも手玉に取り、自らの肉体で骨抜きにしていたのである。
ロドリックも、また、茶色の髪に茶色の瞳であった。
吐き気を催すような淫乱さと、それを『病気のせい』に仕立て上げる狡猾さ。
すべてを把握したオレーリアは、表向きは従順な妹を演じながら、水面下で着々と『破滅への準備』を進めていた。
(お姉様は、最低でも三人の男と関係を持っている。しかも、一人は医師。……きっと、避妊薬の処方を受けているはず。なら、妊娠する可能性は低い。……それでも、もし妊娠したら?)
オレーリアは、ふっと口元を緩めた。
(そのときこそ、誰の子なのかしらね)
私は何も手を出さなかった。
ただ、姉の周囲にいる男たちと、医師の診察記録を注意深く見張った。
そして――今日。ついに、その時が来た。
私は狙い通り、侍女を使ってお姉様の避妊薬を別の薬へとすり替えた。
◇
そして迎えた今日――ロドリック医師の口から、決定的な言葉が放たれた。
「ミレーユ様ご懐妊でございます。……ただ、この子の父親については、私から申し上げることはできません」
執務室の中で顔を青ざめさせる主治医と、ベッドの上で焦燥に駆られているであろう姉の姿を想像し、オレーリアは冷たく美しい微笑みを深めた。
(さあ、誰の子なのかしらね)
セバスチャンかしら。パスカルかしら。それとも――ロドリック医師ご本人かしら。
考えていると、自然と笑みがこぼれた。誰であろうと、私には関係ない。
だって――この子の父親を決めるのは、私ではないのだから。お姉様ご自身よ。
パピノン伯爵家の長女として持て囃されてきた『儚げな伯爵令嬢』の化けの皮が、音を立てて剥がれ落ちようとしていた。
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