祝福されない産声
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――オギャーッ!
「痛いっ、痛いぃぃっ!」
初産に挑む姉、ミレーユの悲痛な叫び声が、パピノン伯爵家の奥の寝室に響き渡る。
その直後、赤子の産声が響いた。
「ひっ……!?」
赤子を取り上げた産婆が、小さく悲鳴を漏らした。
続いて、ガチャンと器具が床に落ちる音が響き、顔を真っ青にした産婆が大きな声を張り上げた。
「全員外へ! すぐに出ていきなさい! ……それと、早く旦那様をお呼びしてちょうだい!」
産婆は赤子を隠すかのような姿勢で、周囲に控えていた若い侍女たちを見据え、切羽詰まった声で怒鳴りつける。
「な、何があったんですか!? 私たちはお産のお手伝いを……」
「いいから、すぐに出てお行き!!」
産婆の鬼気迫る形相に気圧され、侍女たちは慌てて廊下へと押し出された。
室内からは、赤子の産声がうっすらと聞こえてくるが、祝福ムードなど微塵もない。あるのは、ただならぬ異様な緊迫感と、不穏な気配だけだった。
――産まれた。
ついに、あの姉の腹から、赤子が産み落とされたのだ。
廊下の片隅、陰になる場所に佇む少女は、誰にも気付かれないようにそっと唇の端を持ち上げた。
パピノン伯爵家次女、オレーリア。十六歳。
彼女の瞳に浮かんでいたのは、姉の身を案じる心配でも、寝室から立ちこめる不穏な気配への恐怖でもない。冷徹なまでの、歓喜に似た冷笑だった。
(これでやっと、病弱なお姉様の化けの皮が剥がれるのね)
オレーリアは内心でほくそ笑んだ。
◇
長女であるミレーユは、八歳の頃に突然、王国に伝わる『妖精の気まぐれ』という不治の病に侵された。
発熱と倦怠感、そして肌を刺す原因不明の痛み。戸外の光を嫌い、自室のベッドに引きこもる姿は、まさに病弱なか弱い美少女。周囲の誰もがミレーユを憐れみ、大切に扱ってきた。
だが、ミレーユはその病を嘆くだけではなく、笑顔を振り撒くその姿が周囲からは『健気で高潔なパピノン伯爵令嬢』として噂された。
両親はもちろん、二歳下の妹である私も『どうしてお姉様が!』と、涙に暮れた時期もあった。
しかし、いつからだろうか。パピノン伯爵家はすべての予定が姉を中心に回るようになっていった。
◇
「お姉様、花輪ができたわ! 綺麗でしょ!」
「まあ、オレーリア。上手にできたわね」
「ははは。オレーリアも上手くなったね」
かつて、中庭で幼馴染のセバスチャンと私たち三人で花輪を作って遊んでいた懐かしい日々が思い出される。
ガチノー伯爵家の次男であるセバスチャンは、お姉様の一歳下で私の一歳上。
周囲は、彼が将来、ミレーユお姉様と結婚して、パピノン伯爵家に婿入りするのだろうと思っていた。
大好きな優しいお姉様と、幼馴染のセバスチャンが結婚してパピノン伯爵家を支えていく。私にとって、それは決まっている未来であり、何の不満もない事実だっただけだ。
だが、運命は私たち姉妹の未来を変えてしまった。
お姉様が不治の病を発症してから、セバスチャンを婿に迎えることは変わらなかったが、婚約相手は私に代わったのだ。
「オレーリア。ミレーユは病気なんだ。お前がこの家を守っていくんだ。しっかり学業に励むのだぞ」
お父様は、私を嫡女として届け出、セバスチャンとの婚約を正式に結んでしまった。
当時、十二歳の私は、自分の状況を受け入れるしかなかった。
「そうよ、オレーリア。あなたは健康なんだもの、ミレーユの分もしっかり執務に励みなさい。本当なら、ミレーユが継承するはずの後継者の座を譲ってもらったんだから」
お母様も、どこか押し付けがましく感謝するようにと言われた。
(私が後継者になりたいと願ったわけでもないし、セバスチャンを好きだと言ったわけでもないのに……)
人々は「儚い美少女」としての姉の姿しか知らない。
そう、妹である私、オレーリアだけが真実の姿を知っているのだ。
それが、いつの頃からか、面倒なことはすべて投げ出し、努力もせず、ただ可愛がられて同情されたいだけの我儘な姉になってしまった。
「ねえ、オレーリア。今日はすごく体がだるいの。このハンカチの刺繍、やっておいてくれる? セバスチャンの誕生日の贈り物にしたいのよ。いいでしょう?」
「ねえ、オレーリア。お友達にお祝いの詩を贈りたいのだけど……。めまいが強くて辛いのよ。明後日までにカードに書いて出しておいてくれる? カードの宛先は侍女に聞いてちょうだい」
私は、姉の『ねえ、オレーリア』を聞くと、鳥肌が立つようになってしまった。
けれど、姉の前では笑顔を崩さなかった。
何を頼まれても、私は『はい、お姉様』と答えた。そうしているほうが、姉は油断する。
――そして、安心している人間ほど、隙が多い。
そのことを、私はこの頃から少しずつ学んでいた。
◇
そんな日々の中、姉が病に臥してから九年。
私が十五歳のある日。
姉に頼まれた手紙の清書を携えて部屋を訪ねると、部屋の前に立っていた姉の専属侍女に下卑た笑顔で入室を止められた。
「恐れ入りますが、只今、ミレーユお嬢様はお休みでございます。お届けのものでしたらお預かりいたします」
そう言う侍女の返事に混じって、部屋の中から姉のものと思われるくぐもった甘えた声が漏れ聞こえてきた。
荒い息遣いまで聞こえてきそうな、明らかな嬌声に、十五歳の私の顔は赤らむどころか青ざめた。
あまりに意外な出来事に固まってしまったそんな私に、お姉様の専属侍女の声がかけられた。
「ミレーユお嬢様は、お取り込み中でございます。お引き取りください」
相変わらず嫌な顔をして、「帰れ」と言わんばかりの物言いであった。
私は部屋へ戻るふりをしてその場を去った。
廊下を曲がった先、客間に入ると扉を薄く開けて廊下の声に全神経を集中した。
――お姉様のお相手は……誰?
私は声を立てないよう、そっと耳を澄ませた。
もし本当に病気で苦しんでいるのなら、あんな声が出せるはずがない。ならば、この嬌声をあげさせている相手は誰なのか。
そして――なぜ、姉の専属侍女は私をここまで頑なに近づけようとしないのか。
一つずつ考えていくうちに、胸の奥にあった違和感が、ゆっくりと形を持ちはじめた。
一時間ほどして、その瞬間はきた。
「じゃあね、セバスチャン。また来てね。ずっと一緒にいられたらいいのに……寂しいわ」
「僕もだよ、ミレーユ。明日、パピノン伯爵からご教授を受ける予定だから、また顔を出すよ」
「ええ、待っているわ。またね」
ミレーユはセバスチャンの頬に素早く口付けた。
「えっ!? ちょっと、ミレーユ! 廊下ではやめてくれ! オレーリアに見られたらどうするんだ!」
「大丈夫よ。オレーリアなら。気付いたとしても、きっとわかってくれるわ」
(バカじゃないの? どこに自分の婚約者と実姉の情事を受け入れる妹がいるのよ……気持ち悪い。体の調子が悪いんじゃなくて、頭が悪かったのね)
姉の『儚い美少女』という幻想に酔いしれ、婚約者である私を裏切ってミレーユの部屋に入り浸っていた男――私たちの幼馴染であり私の婚約者、セバスチャン。
(私をバカにして、二人はどれほど愛を囁き合っていたのかしら。そこに本当に愛はあるのかしらね……)
ガチノー伯爵家の次男であり、本来ならオレーリアの婿に入る予定のセバスチャン。彼はミレーユへの歪んだ憧れと、背徳の快楽に溺れ、オレーリアの苦言すら鼻で笑っていた。
『ミレーユは病気なんだ。君のように強くない、か弱いんだよ』と。
(もう、幼馴染としての好ましさも消え去ったわ。最悪で最低の男ね)
それでも私は、何も言わなかった。
――まだ、その時ではないと思ったから。
胸の奥が、ひどく冷たくなったが、泣きたいとは思わなかった。お姉様と幼馴染である婚約者の裏切りを知ったはずなのに、不思議なくらい、涙は出てこなかった。
ただ――私は二人の会話を最後まで聞き、そして、すべてを忘れまいと思った。
私は、廊下に人の気配が消えてから、足音を忍ばせて部屋を出ると自室へと向かった。
その私の背後から聞き慣れた低い声がかけられた。
「おい、オレーリア。何かあったのか?」
低い声とともに、ふわりと大好きなムスクの香りが近づいてきた。
私の一歳上の従兄であり、セバスチャンと同じクラスに通うビクターだ。ビクターは昔から、私のことになると妙に過保護だった。
彼は眉間に深い皺を寄せ、振り向いた私を正面から見据えている。ビクターだけは、常に私を気遣い、セバスチャンに苦言を呈してくれていた唯一の理解者だった。
「……さあ、何でしょうね、ビクターお兄様」
私はそう言って、微笑んだ。
ビクターお兄様は、私の笑顔を見て眉をひそめる。
――どうやら、私の笑顔がいつもと違うことには気付いたらしい。
けれど、私は何も話さなかった。
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