第八夜:石の王
第四色の魚が導いた先には、誰も住まないはずの白い宮殿がありました。
そこで王たちが出会ったのは、下半身を石へ変えられた若き王・マサウダ。
湖に沈んだ王国と、魚へ姿を変えられた民。
そして、そのすべてを引き起こした一人の魔術師の存在が、少しずつ明らかになっていきます。
どうぞ最後までお楽しみください。
夜が来た。
砂漠の空には、今夜も星が浮かんでいた。
シャハラザードが寝所へ入ると、王はすでにそこにいた。
寝台の端ではない。
篝火のそばに置かれた椅子へ腰を下ろし、片肘を肘掛けに預けている。
シャハラザードたちが入っても、窓の外へ顔を背けることはなかった。
「お姉様」
座るなり、ドゥニヤザードが口を開いた。
「あの灯りまで行ったの?」
「ええ」
「何があったの?」
シャハラザードはすぐには答えず、まず王へ向かって一礼した。
「続きをお話ししてもよろしいでしょうか」
王はわずかに目を上げた。
「始めろ」
「では、王たちが山の灯りを目指したところから」
篝火の中で、薪が小さく鳴った。
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夜明けを待ち、一行は山へ入った。
王の前を近衛兵が二人進み、剣で枝を払いながら道を切り開いていく。
その後ろに王と家臣たちが続き、最後にハリームが銅の壺を抱えて歩いた。
昨夜、山の中腹に見えていた灯りは、朝になると木々の向こうへ隠れていた。
道らしい道はない。
湿った土に何度も足を取られ、低く伸びた枝が肩や頬をかすめた。
「まだ先か」
先頭を歩く兵が立ち止まり、辺りを見回した。
「昨夜見えた位置から考えますと、もう遠くはないはずです」
それからさらに半刻ほど歩いた頃だった。
突然、森が途切れた。
木々の向こうに、白い宮殿が立っていた。
白い大理石の柱が並び、その奥から細い塔がいくつも空へ伸びていた。
立派な宮殿だった。
それなのに、窓には明かりがなく、庭にも人影がない。
噴水は水を止めたまま沈黙し、花壇には色鮮やかな花が咲いていたが、そこには人の手が触れた気配がなかった。
花だけが、時の止まった庭で咲き続けている。
宮殿へ続く階段を上り、閉ざされた扉の前で足を止める。
近衛兵が先へ出た。
取っ手を掴んで力を込めると、扉は長い眠りから目覚めるように、低い音を立てて内側へ開いた。
一行は慎重に中へ入った。
薄暗い広間の奥に、人がいた。
高価な衣をまとった若い男だった。
金糸の刺繍が施された長衣を身につけ、壁へ背を預けるようにして座っている。
初めは、ただ疲れ果てて座り込んでいるように見えた。
しかし、近づくにつれて、その異様な姿が明らかになった。
男の腰から下は、白い石へ変わっていた。
衣の裾から続いているはずの両脚は、磨かれた大理石となり、床と一つに繋がっている。
継ぎ目はない。
生身の体が、途中からそのまま石へ移り変わっていた。
兵たちが息をのむ。
王は数歩手前で立ち止まった。
「あなたは、何者です」
若い男はゆっくり顔を上げた。
疲れた目だった。
突然現れた一行を見ても、驚いた様子はない。驚くための力さえ、すでに使い果たしているように見えた。
「わたしはマサウダ」
男はかすれた声で答えた。
「先代の王、マームードの息子です」
「マームード王の御子だと?」
王の顔に、初めて明確な驚きが浮かんだ。
「マームード王は、我が一族にも連なる方だ。その御子が、なぜこのような場所にいる」
マサウダは自らの石となった体へ視線を落とした。
「妻に、こうされたのです」
「妻に?」
「わたしは見てしまった」
マサウダは窓の向こうへ顔を向けた。
遠くに、湖の一部が見えている。
「妻が、別の男と庭で会っているところを」
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それきり、マサウダはしばらく黙っていた。
過ぎた出来事をどこから語ればよいのか、分からないようでもあった。
やがて、途切れ途切れに話し始める。
「わたしは怒りました。妻を問い詰め、相手の男を捕らえようとした」
声には怒りも悲しみもなかった。
そのどちらも、とうに擦り切れてしまったのだろう。
「ですが、妻はわたしの知らない力を持っていた。あの女は、魔術師の娘だったのです」
マサウダは石となった腰へ手を置いた。
「次に気がついた時には、わたしはこの姿になっていました」
「民は、どうなったのです」
王が尋ねた。
マサウダは窓の外を見た。
「あの湖にいます」
「湖に?」
「あそこは、もともと湖ではありません」
マサウダの指が、わずかに震えた。
「あの水の下には、わたしの国がある。街も、市場も、家も、神殿も、すべて沈められた」
王は黙って聞いている。
「民は魚へ変えられました。色の違う四つの民が、今も湖の中で泳いでいる」
ハリームは思わず、抱えていた壺へ目を落とした。
「魔神様」
周囲へ聞こえぬよう、小さな声で呼びかける。
「魚たちが、あの女の問いに答えたのは……」
壺の中から、低い声が返った。
「誓いを縛る魔法だ」
「誓いを?」
「封じた者は、封じられた者へ何度も同じ言葉を言わせる。従っていることを、自らの口で確かめさせるのだ」
ハリームは、厨房で鍋の中から声を上げた魚たちを思い出した。
「海を離れても、王宮まで運ばれても、逃げられなかったのですね」
「ああ」
魔神の声が、少しだけ低くなる。
「本当の封印とは、場所へ閉じ込めることではない。どこにいようと、逃れられぬ形にすることだ」
短い沈黙のあと、魔神は続けた。
「わたしが千年、あの壺から逃れられなかったようにな」
ハリームは返す言葉を失った。
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「奥方は今、どこにいますか」
王が尋ねた。
マサウダの表情が曇った。
「宮殿の奥に、閉ざされた庭があります。妻はそこにいる」
「会うことはできますか」
「やめた方がいい」
今度は、はっきりと恐れが声に混じった。
「あの女の目を見てはいけません。目が合えば、あなた方も何をされるか分からない」
「それでも、このまま立ち去るわけにはいきません」
王は静かに言った。
大声ではなかった。
だが、誰にもその言葉を変えられないことだけは分かった。
マサウダは長い間、王を見つめていた。
「……奥の廊下を進み、右へ曲がってください」
諦めたように言う。
「青い扉があります。その向こうが庭です」
王は近衛兵へ目を向けた。
「二人はここに残れ」
「しかし、陛下」
「この方をお守りせよ」
兵たちは不安げに顔を見合わせたが、やがて頭を下げた。
王はハリームを見た。
「漁師。お前は来い」
「わたしが、でございますか」
「その壺の中にいる者は、魔術に詳しいのだろう」
ハリームは抱えている壺を見た。
「詳しいかどうかは、本人に聞いてみなければ分かりませんが」
「余計なことを言うな」
壺の中から声がした。
近衛兵の一人が、怪訝そうな顔をする。
王は構わず歩き出した。
ハリームも慌ててその後を追った。
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廊下は長かった。
壁には、いくつもの絵が掛けられている。
宴の席で杯を掲げる者たち。
音楽に合わせて踊る女たち。
庭を駆け回る子どもたち。
どの絵の中でも、人々は笑っていた。
かつて、この宮殿に確かにあった暮らしが、絵の中だけに取り残されている。
足音が、誰もいない廊下へ響いた。
「魔神様」
ハリームは歩きながら囁いた。
「魔術師と向き合う時は、どうすればよいのでしょう」
「知らん」
「知らないのですか」
「魔術師にもいろいろいる」
壺の中から、不機嫌そうな声が返る。
「ただし、あの男の言葉が正しいなら、目は見るな」
「目を?」
「視線へ術を込める者はいる。目を通して、相手の心へ入り込むのだ」
ハリームは前を歩く王の背を見た。
「心に隙があると、危ないのでしょうか」
「隙のない人間などいるものか」
「では、誰でも危ない」
「そういうことだ」
ハリームは思わず足を緩めた。
「陛下にも、伝えた方がよいでしょうか」
王はすぐ前を歩いている。
聞こえていないはずはなかった。
だが、振り返りはしない。
壺の中で、魔神がしばらく黙った。
「……あの王は、目が澄みすぎている」
「澄んでいる?」
「迷いがないように見える目だ」
「それなら、術には強いのでは」
「反対だ」
魔神は吐き捨てるように言った。
「揺らがないと思っている者ほど、一度揺れた時にもろい。初めから迷っている者は、自分が迷うことを知っている。だが、自分は決して揺らがぬと信じている者は、揺れた時にどうすればよいか分からん」
ハリームは王の背を見つめた。
王の歩みは変わらない。
真っすぐ前だけを見ている。
壺の中から、もう一度声がした。
「だから、目を見せるな。お前も、あの王もだ」
ハリームは黙って頷いた。
やがて、廊下の先に青い扉が見えた。
古い木で作られた扉だった。
その表面には、蔦と鳥をかたどった模様が彫られている。
扉の隙間から、甘い花の香りが流れてきた。
王は扉の前で立ち止まった。
ハリームも、その数歩後ろで足を止める。
「魔神様」
「何だ」
「この匂いは」
「分からん」
壺の中の声が、いつになく慎重だった。
「だが、自然の花の匂いではない」
扉の向こうから、かすかな歌声が聞こえた。
女の声だった。
言葉は聞き取れない。
ただ、悲しんでいるようにも、誰かを待っているようにも聞こえた。
王が扉へ手を伸ばす。
「陛下」
ハリームは思わず呼び止めた。
王の手が止まる。
「目を見てはなりません」
王は振り返らなかった。
「分かっている」
そう答えた声は、落ち着いていた。
だが、扉へ触れた指先だけが、ほんのわずかに強張っていた。
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シャハラザードは、そこで口を閉じた。
寝所へ静寂が戻る。
ドゥニヤザードは両手を膝に置いたまま、瞬きもせず姉を見つめていた。
「……そこで終わるの?」
「今夜はね」
「もう扉の前まで来ているのに?」
「ええ」
「中へ入るのでしょう?」
シャハラザードは答えなかった。
ドゥニヤザードは困ったように王を見る。
王は篝火を見つめていた。
炎の揺れが、その横顔を明るくしたり、暗くしたりしている。
やがて、低い声で問う。
「その女は、なぜ今も宮殿にいる」
シャハラザードは王を見た。
「マサウダ王子を憎んでいるのなら、石に変えたあと、立ち去ることもできたはずだ」
王は炎から目を離さない。
「それでも、そばに残っている」
ドゥニヤザードが、はっとしたように姉を見た。
シャハラザードは小さく頷く。
「その理由は、明日の夜にお話しいたします」
「また、そこで止めるの?」
ドゥニヤザードが不満そうに言う。
「夜が明けてしまうもの」
窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。
王は何も言わなかった。
ただ、篝火のそばの椅子から立ち上がろうとはしなかった。
青い扉の向こうでは、今も女の歌声が続いている。
その声を聞きながら、王と老漁師は、まだ扉の前に立っていた。
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第九夜へ続く
第八夜を最後までお読みいただき、ありがとうございました
次回はいよいよ、青い扉の向こうで待つ魔術師の女と王たちが対面します
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第八夜もお楽しみいただけましたら幸いです




