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大臣の娘は「物語」だけを武器に、千の夜を生き延びてみせる――娘を殺し続ける狂王の心を、少女の声が溶かしていく砂漠の千夜一夜  作者: 宵先誠


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第五話:千年の怒りと焼き魚の匂い

今回は、壺に閉じ込められた魔神と、老漁師ハリームが言葉を交わし始める夜です。


千年という時間は、怒りさえも別のものへ変えてしまうのかもしれません。


焼き魚の匂いとともに蘇った、小さな記憶。


二人の距離が少しだけ近づいていく様子を、見届けていただければ幸いです。


夜が来た


砂漠の空には、今夜も星々が静かに輝いていた


シャハラザードは今夜も、ドゥニヤザードとともに王の寝所へ通された


灯火は揺れ、お香の香りが薄く漂っている


王は、すでに部屋にいた


何も言わない


けれど、席を立とうともしない


それだけで十分だった


「お姉様」


ドゥニヤザードが、小さく呼んだ


「続きを聞かせてください」


シャハラザードは頷いた。


「もちろんよ」


そして、静かに語り始めた。


---


小屋へ戻ると、ハリームは壺を両手で抱えたまま、しばらく動かなかった


壺の中では、魔神がまだ怒鳴っている


海へ投げ戻すことはできた


けれど、それではまた誰かが拾う


蓋を開けることもできた


けれど、開ければ殺される


ハリームは壺を膝の上に置き、長いこと黙っていた


耳の奥に、魔神の声が残っている


最初の百年は、解放した者に財宝を与えようと思った


次の百年は、知恵を与えようと思った


それでも誰も来なかった


だから、殺すと決めた


あれは怒りだったのか


それとも、怒りの形をした別のものだったのか


「魔神様」


ハリームは壺に向かって呼びかけた


「なんだ。さっさと出せ」


「出すことはできません」


「なら黙れ」


「話をしませんか」


壺の中が、ふっと静かになった。


「……話?」


「はい」


「何を話す」


「あなたのことを」


返事はなかった


波が来て、返していく


その音だけが、しばらく浜辺に残った


「あなたは千年、誰とも話さなかったのでしょう」


ハリームは言った


「わたしも、長いこと一人です。妻は先に逝きました。子どもたちは街へ出ました。朝になれば海へ行き、夜になれば一人で飯を食べる。それが十年ほど続いています」


壺は黙っている


「十年と千年では、比べものになりませんが」


やがて、壺の奥から低い声がした


「……変な人間だな」


「よく言われます」


「わたしを哀れんでいるのか」


「いいえ」


ハリームは少し考えてから、首を振った


「哀れむほど、あなたを知りません」


壺が、かすかに揺れた


「ただ、怒るのも無理はないと思いました」


「なら出せ」


「それはできません」


「なら話すことなどない」


「そうでしょうか」


ハリームは、海の方を見た


夕陽が沈みかけている


波の先が、赤く光っていた


「人を殺すと言ったあなたを、外へ出すわけにはいきません。でも、あなたの声を聞くことはできます」


壺の中から、低く笑う声がした


「偽善だな」


「かもしれません」


「怖くないのか」


「怖いです」


ハリームは正直に答えた


「ですが、怖いからといって、耳まで塞ぐことはありますまい」


また、沈黙


今度の沈黙は、さっきより少し長かった


---


「ソロモン王のことを聞かせてください」


ハリームは言った


「あなたは、王に仕えていたとおっしゃった。そして、命令に背いたとも」


「……ああ」


「なぜ背いたのです」


「忘れた」


「本当に?」


壺が、低く唸った


「漁師風情が、よく聞く」


「海を相手にしていると、聞くことだけは上手くなります」


ハリームは静かに言った


「波は、毎日違う顔をしますから」


しばらくして、壺の中から声が返ってきた


「……わたしは強かった」


「はい」


「ソロモンの家臣の中でも、わたしほど力のある者はいなかった。風を呼び、海を割り、遠い国の財宝を一夜で運ぶこともできた」


「それは、大変なお力です」


「王も、わたしを頼った」


魔神の声が、そこで少しだけ変わった


「頼られるのは、悪くなかった」


ハリームは黙って聞いていた


「ある日、王が命じた。遠い村から、壺を一つ運んでこいと」


「壺を?」


「ああ。ただの土の壺だ。農家が水を汲むような、何の変哲もない壺だった」


魔神の声に、苦いものが混じった


「わたしは腹を立てた。わたしほどの者に、土壺ひとつを運ばせるのかと」


「それで、断ったのですね」


「断った。王は怒った。わたしも怒った。怒鳴り合った。あとは……覚えていない」


「気づけば、この壺の中だった」


ハリームは、壺の丸い腹に手を置いた


冷たい銅の感触が、掌に伝わってくる


「その土の壺には、何か意味があったのかもしれませんね」


「知らん」


「はい」


「病人に飲ませる水が入っていたのかもしれん。王にとって大切な者の形見だったのかもしれん。あるいは、本当にただの壺だったのかもしれん」


魔神は吐き捨てるように言った


「千年考えた。分からなかった」


ハリームは、しばらく答えなかった


それから、静かに言った


「千年、考えておられたのですね」


壺は黙った


怒鳴り声は返ってこなかった


---


日が暮れると、ハリームは小屋の前に低い椅子を出した


壺は、足元に置いた


「魔神様」


「……今度は何だ」


「バグダッドの街では、今ごろ夕市が立っているでしょう」


「夕市」


「ええ。香辛料の匂いがして、人の声がして、ラクダの鈴が鳴って。魚を焼く煙も上がります」


「魚」


「食べたことは?」


「ない」


その声があまりにも短く、ハリームは思わず黙った。


「魚というのは、どんな味がする」


「どんな味……」


ハリームは腕を組んだ


「海の味です」


「そのままではないか」


「ええ。でも、それが一番近い。塩と風と陽の匂いが、一口になったような味です」


「分からん」


「そうでしょうね」


ハリームは少し笑った


「明日、魚が取れたら、ここで焼きましょう」


「わたしは食えん」


「匂いくらいは、届くかもしれません」


「届かん」


「やってみなければ分かりません」


「馬鹿なことを」


「馬鹿なことは、時々よく効きます」


魔神はもう何も言わなかった


ハリームは空を見上げた


星が、一つ、また一つと増えていく


「神よ、感謝します。今日も一日、生かしていただいた」


いつもの言葉だった


けれど今夜は、それを聞いている者がいた


壺の中で、千年ぶりに黙った魔神が


---


次の日


ハリームは浜辺へ出た


網のそばには、銅の壺が置かれている


「さて、今日も四度打ちましょう」


「四度と決めているのか」


壺の中から声がした


「ええ」


「なぜ四度だ」


「昔、師匠にそう教わりました。一度目と二度目は海の機嫌をうかがう。三度目は働く。四度目は挨拶だと」


「挨拶?」


「何も取れなくても、最後にもう一度網を打つ。今日もありがとうございました、と」


「海に礼を言うのか」


「はい」


「海は返事をせんだろう」


「魚が入れば、それが返事です。空なら、空が返事です」


「分からん」


「わたしも、全部は分かりません」


ハリームは網を広げた


朝の光を受けて、濡れた縄が銀色に光る。


「でも、分からないまま続けることはできます」


一度目


砂と泥


二度目


石と流木


三度目


網が重く沈んだ


「今日は魚ですかね」


引き上げると、真鯛が三匹、銀色の腹を光らせて跳ねていた


「ありがとうございます、神よ」


壺が、かすかに揺れた


「取れたのか」


「ええ。真鯛が三匹。今日はいい日です」


「分からぬものだな」


「はい」


ハリームは笑った


「海は、毎日そうです」


四度目の網は、空だった


それでもハリームは丁寧に網をたたみ、海へ頭を下げた


「今日もありがとうございました」


壺の中から、低い声がした


「空なのにか」


「空でもです」


「変な人間だ」


「よく言われます」


---


夕方


ハリームは小屋の前で小さな火を起こした


真鯛を一匹、塩だけで焼く


皮が焦げ、脂が落ち、じゅう、と音がした


白い煙が細くのぼる


海の匂いと、焼けた魚の匂いが、夕風に混じって広がっていく


「魔神様」


ハリームは壺に向かって言った


「匂いはしますか」


しばらく返事はなかった


だめか、と思った時


「……する」


ハリームは手を止めた


「本当ですか」


「この壺の蓋に、小さな傷がある。そこから、ほんの少し空気が入る」


魔神の声は、今まで聞いたことのないほど静かだった


「甘いような、焦げたような……塩の匂いもする」


「それが焼き魚です」


「……昔」


魔神が、ぽつりと言った


「ソロモンの宮殿で、似た匂いがした」


ハリームは黙っていた


「宴の夜だった。中庭で料理人たちが魚を焼いていた。わたしは塔の上にいた。風が強い夜で……その匂いだけが、上まで届いた」


魔神はそこで口を閉じた


壺も、海も、しばらく黙った


千年ぶりに出てきた記憶が、焼き魚の匂いだった


怒りでもない


屈辱でもない


封印の闇でもない


ただ、塔の上まで届いた、あたたかな匂い


ハリームは焼けた魚を皿に移した


「覚えておられたのですね」


「……今まで、忘れていた」


「それでも、残っていた」


「うるさい」


「はい」


ハリームはそれ以上、何も言わなかった


魚を少しだけほぐし、自分の口へ運ぶ


「うまいです」


壺の中から、低い声がした


「言うな」


「失礼しました」


「……いや」


魔神は、しばらく黙った


「もう少し、匂いのするところへ置け」


ハリームは壺を、火のそばへ少しだけ近づけた


近づけすぎないように


熱で壺が傷まないように


それに気づいたのか、魔神は小さく笑った


「お前は、わたしを閉じ込めたまま、壺の心配をするのか」


「壺が壊れたら、あなたも困るでしょう」


「……やはり変な人間だ」


ハリームは笑った


「よく言われます」


---


そこまで語って、シャハラザードは少しだけ口を閉じた


ドゥニヤザードは、じっと聞いていた


いつものようにすぐ質問をしない


ただ、何かを考えるように、両手を膝の上で握っている


やがて、小さく言った


「お姉様」


「なに?」


「魔神は、ソロモン王のこと……本当は、全部嫌いだったわけじゃないのかな」


シャハラザードは妹を見た


そして、ゆっくり微笑んだ


「どうしてそう思ったの?」


「だって、本当に嫌いなら、宴の匂いなんて覚えてない気がする」


「そうね」


「でも、捨てられなかったんだね」


ドゥニヤザードは、少しだけ眉を寄せた


「怒ってるのに、捨てられないものって、あるんだね」


シャハラザードは答えなかった


ただ、静かに頷いた


その時、寝所の奥で、衣擦れの音がした


王だった


王は何も言わない


けれど今夜は、遠くを見ていなかった


灯火の方を見ていた


揺れる火を


その火の中に、どこか遠い夜を探すように


シャハラザードは、それ以上何も言わなかった


言葉にすれば、壊れてしまうものがある


物語は、まだ続いている


そして今夜もまた、夜明けは少しずつ近づいていた


---


第六夜へ続く


ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


千年ものあいだ壺に閉じ込められていた魔神にとって、ハリームとの会話は、久しぶりに外の世界へ触れる時間でもありました。


怒りと憎しみだけが残っているように見えても、その奥には、忘れたはずの匂いや景色が眠っている。


焼き魚の匂いによって蘇ったのは、封印された日の記憶ではなく、遠い昔に宮殿で過ごした、何気ない夜の記憶でした。


ハリームは、魔神を信じたわけではありません。


魔神もまた、ハリームに心を許したわけではありません。


それでも二人は、少しずつ言葉を交わすようになります。


閉じ込める者と、閉じ込められた者。


本来なら決して分かり合えないはずの二人が、どのように距離を縮めていくのか。


最後まで見届けていただけましたら嬉しいです。


少しでも面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をしていただけると、今後の執筆の励みになります。


それでは、また第六夜でお会いしましょう。


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