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青春讃歌  作者: 鍋谷葵
19/20

彼の隣を歩くはずだった

 私は寒空のもと、彼の家の前に立っていた。


 学校から逃げ出してから彼の家に着くまでの記憶はなかった。


 終業式前までの習慣に倣い、震える手でインターホンを押した。返答などあるわけがなく、かつてのように玄関扉を引き開けた。相変わらず一階には人気がなく、明かりさえついていなかった。


 一か月前は日常だと思っていたその光景は、一か月後の私には常軌を逸したグロテスクに映った。


 想像を絶する孤独な空間に足を踏み入れることへのためらいは、不思議と生まれなかった。動作に慣れ親しんだ私の体は、独善的な罪悪感に蝕まれる精神を置いて勝手に動いたのだ。


 二階へ上がって彼の部屋の前に立ち、私は震える手で扉をノックした。


 応答はなかった。


 罪悪感が増殖した。


 だけれども、私はドアノブを引いた。


 彼の部屋はパソコンのモニターが発する青白い光でぼんやりと照らされていた。長い髪を後ろで結った頭にヘッドフォンを付け、彼はエレキギターを弾いていた。簡素な生音は静かな部屋に嫌なほど反響していた。


 部屋に一歩踏み入ると、彼はジッと見つめていたモニターから私に目を向けた。以前から淀んでいた彼の双眸は一層濁っていた。


「ごめん」


 私は彼の顔を見るや否やたった一言そうつぶやいた。


 私の唇の動きを捉えた彼は傍らのギタースタンドにギターを置いて、ヘッドフォンを外した。


「なんで来たんだよ」


 冷淡な彼の声音に体は震えた。


「謝りたくて」

「お前は誠実なんだな」


 驚くほど白い顔に微笑を浮かべる彼は、ゲーミングチェアから立ち上がった。


「でも、一度壊れたものをそっくりそのまま作り直すことは不可能なんだぜ」


 ジャージズボンのポケットに手を突っ込みながら、彼はそう語りかけた。怒りが滲んだその声は私の心を締め上げた。


 胸中では絶叫しているのにもかかわらず、私の口は動かなかった。唯一無二の天才との友情を取り戻したいと渇望し、欺瞞の態度に贖罪したいと願っているのにもかかわらず、私は彼を見つめることしかできなかった。


「帰れ」


 立ち尽くす私を彼は睨みつけた。


 そこには憤怒が滲み、歪んでいた。


「大介、ごめん」

「帰れよ」

「ごめん」


 私は軽い言葉を繰り返し紡いだ。それは推察から来る賭けでもあった。

 私は知っていたのだ。彼が本当に興味のない人間には冷徹で感情など露わにしないことを。


 私は彼の期待に甘え、そこに依存して、彼が根負けすることを願った。


「ああ、もういいよ。謝んな」


 性懲りもなく同じ言葉を繰り返し続ける私に彼は根負けした。


 深い溜息と呆れ笑いを浮かべた彼は「寒いから閉めろ」と要請するとゲーミングチェアに座った。そして扉を閉めた私に、いつかと同じようにヘッドフォンを差し出した。


「新しいの作ったから聴いてくれよ」


 嬉々とした表情を浮かべる天才は、私にヘッドフォンを付けた。


 彼はマウスをダブルクリックした。


 乾いた二重の音のあとに聴こえてきたのは、あのとき聴いたと何ら変わらないものだった。無機質な轟音と掠れたドラムス。淡白で無秩序な波が規則だって並べられた音は、私にはやはり理解できなかった。


 理解不能な音楽は現実的には三分程度だったのだろうが、当時の私には十分程度に感じられた。三倍程度の時間を過ごした私はヘッドフォンを外し、「どうだった?」と期待に満ちた表情を浮かべる彼を見つめた。


 彼がどんな言葉を欲しているのか私は理解していた。いや、理解していたというのは傲慢が過ぎる。私が把握していたのは、あのとき、あの場で、私が言うべき言葉だった。それは私に罪悪感を埋め付け、彼との友情を根本的に揺るがした欺瞞だった。


「良い曲だと思う。本当に大介は天才だよ」


 作り笑いと明るい声。


 本心からかけ離れた表情と運動は私自身に強烈な嫌悪の念を与えた。気を抜けば瞬く間に露出してしまいそうだった。


「公彦、それは嘘だろ」


 冷徹な声音と表情が私に注がれた。


 彼は天才だ。


 どこまでも天才なのだ。


 彼にとってご機嫌取りのために人が吐く嘘など、その本心が露呈していなくともわずかな機微だけで捉えられるのだ。


「そういうお世辞が一番嫌いなんだよ」

「お世辞だなんて……」


 私は本心を見破られ、言葉に窮し、ぼろを出してしまった。


「よしんばお世辞じゃなかったとしても、それは嘘だ。つまんなそうな顔して聴いていた曲が良いわけがない。心から良いと思えるものを体験しているのに笑わないなんてありえない」


 冷徹な視線のまま彼は私の内面を暴いた。


 嫌なほど冷静な彼とは裏腹に私は混乱に陥っていた。「どうすれば挽回できる?」という絵空事を何度も思い描きながら、それを描画し終える前に捨てる空想的な行為に没頭していたのだった。


「もういい。お前もほかの奴らと何ら変わらない。期待してた俺が馬鹿だったんだ」

「俺は大介が思ってるようなやつらとは違うよ」

「同じだ。そんなこと言っている時点で同じだ。尊大な自己認識で、自分とかかわりがあろうがなかろうが損を被るとわかった瞬間に関係を断って、自分を飾り付ける道具として人を扱う奴らと何ら変わらない」


 淀んだ双眸と真っ黒なクマを携え、青白い光を横顔に浴びる彼は私を真っすぐ見つめた。


「ふざけないでくれ。大介をそんな風に思ったことなんてただの一度もない。尊敬してるだけだ」


 彼の淡々とした語りは、思考の混乱を理不尽な怒りという形で収束させた。


「無視され、陰口を言われている人間をか?」


 彼は私の感情と自分をあざけた。


「関係ない。大介は天才なんだ」

「俺の才能は本物だ。それからお前の利口も本物だよ。人に合わせ、自分の意見を持たず、自分本位の信頼しか持とうとしない腐った性根もさ」


 思い返せば全く正しい彼の言い分も、当時の私には怒りを煽る言葉でしかなかった。


「才能はあるけど研鑽は全然だ。勉強もそうだし、音楽もそうだ。自分の持てる力を過信して足踏みをし続けてるだけ。お前は成長していないよ」


 私は彼へのフラストレーションをそのまま吐き出した。


 彼は冷淡な声で「帰れよ」と呟いた。その双眸には興味のない人間へと向けられる冷たさが宿っていた。


 私は彼の内で私の価値が底に落ちたことを捉えた。


 彼は私を『友人』から『他人』とした。そして、それが変動することは過去の経験からありえなかった。


 ヘッドフォンを付けた彼は私を居ない者として再びギターを弾き始めた。乾いた生音は頭の奥で嫌に響いた。


 私は、もはや私を認識することすらないだろう彼に向け「さよなら」と一言残し、理不尽な怒りとそれによって隠された強烈な孤独感を抱えて彼の家を後にした。

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