黒の奔走 その2
『使徒の牧杖』と呼ばれているそれは、その名に反し杖というよりも棒に近い。およそ成人男性の身長ほどの長さの細い円柱だ。
無色透明の水晶を成型したようなその中を、角度によって彩りを変える緻密な幾何学文様と金属のような材質の細線が無数に駆け巡り、虹色に煌めいている。
これは遺跡の遺物にも良くみられる製法不明の素材と同一のものと思われている。
──その多くはこの牧杖よりもごく小さな、赤子の小指の先程のサイズの小片。しかしその小ささですら、今の人知を越える奇跡や呪いが封入されている。
“思われている”というのは確証がないからだ。少なくともこの最高峰の聖遺物には、鑑定を完全にはじくだけの力がある。牧杖に込められた術式も、その本来の用途や使用法も、知ることはできていない。
唯一分かっているのは、ただ魔力を込めようとしたところでうんともすんとも反応を示さないということ。つまるところ豪勢な箔と由縁が付いているだけの綺麗な置物であった。
数日前。
それは臓腑を揺さぶるような低音であったように思えたし、鼓膜を貫く高音にも思えた。
曖昧で正確な認識ができない。
そもそも音など鳴っていなかったのかもしれない。
しかし地下区画の幾重の扉を抜けて、一部の関係者以外が立ち入ることのできない最奥部まで足を踏み入れれば、その異音の源はすぐに分かった。
『使徒の牧杖』が黄金の光を纏い、無数の現れては消える判読不能な遥か古代の文字列を宙に瞬かせていた。
金色の光条は、重なり合った十字架を思わせる。あるいは──四次元の超立方体、正八胞体の展開図のようだ。
神秘の輝きを見つめていた時間は、果たして瞬き一瞬か、数刻か。
普段の正確無比さからは考えられない程の時間感覚の消失。
我を取り戻した彼女が、足早に人を呼び連れ保管庫の扉を再びくぐれば、魔法灯に柔らかに照らされた牧杖が静かに佇んでいた。
これが並みの司祭クラスの人間ならば日々の多忙による過労を疑われ、上司から安息を命じられていただろう。
だがそこはかの“一期生”。狼狽えることなく、即座に己の語る言葉に『聖別』を掛けることで真実であると示し、この異常事態を調査しようとセリンボン枢機卿へ奏上したのだった。
「ほあー……『使徒の牧杖』って、ほんとにあるものだったんですか。すごいですねえ」
バダンタムが気の抜ける声を漏らしたが、まだ日が浅いとは言えこれでもこの男も歴とした枢機卿の一人である。
神への敬愛からではあろうがその余りに飾られていない素朴な表現に、自身が昔まだ助祭や司祭だった頃の孤児院の子供達を相手していたときの記憶が想起され、僅かに口元が緩む。
「ふふ、卿も同じ枢機の座にその身を並べている。優秀な人材の礼に実物をお見せしてもよいのだが」
「いえいえそんな勿体ないですよ。遺物に明るくない私が見ても何にも分かりませんし。今は一級誦経士の資格勉強でいっぱいいっぱいで……」
バダンタムが持つ聖五色資格は二級誦経士のみ。二十代という彼の若さを考えれば本来十分なのだが、流石に枢機卿という肩書の前では見劣りする。エデンベールは別格としても、最も凡人と自覚するセリンボンでも自身の領分である鑑定士の一級──本来は特級を目指すべきだろうが、エデンベールと並べるとは彼は考えていない──に加えて誦経士の一級くらいは保有している。
「エデンベール卿から色々教えて頂いているんですが、若輩の身には中々難しくて……でも、これもまた試練ですね」
「……卿はまだ若いのだから、そう急ぐことはない。無理のし過ぎは周囲を心配させる」
少々エデンベールの思考に侵されている気配を感じたセリンボンは、フンスフンスと息巻く年若き新たな同僚をやや迂遠に宥めた。
「誦経士と言えば、卿が大司教の頃より抱えていた『聖ラプサム聖歌隊』にも資格を持った者が居ると聞くが」
「ええ……まあ、はい。ご存知でしたか……」
誦経士は様々な儀礼における聖句を一語違わず諳んじる。より上級では儀礼の準備や人の手配、手順、聖具の管理と多岐に渡る知識も求められるわけだが、基本はそこだ。
そして優れた聖歌隊では聖句だけでなく響かせる声の音階、音長、音量その全てに正確さが求められる。その精緻にして壮麗な合唱は、ときにそれ自体が神聖魔法の長大な詠唱として成立するという。
ゆえに、聖歌隊が四級誦経士を擁しているというのはよくあることだった。正しく聖句を紡げると教会が認めた人間が所属しているというのは、それだけで大きな付加価値になるからだ。
しかしバダンタムは少々気まずそうに口を開いた。
「以前、性質の悪い風邪が流行ってバタバタしたときに、うっかり私も罹ってしまったんですけど……それでこう、彼らに火を付けてしまったみたいでして。その日の内に疾疫特化の広域浄化の聖歌を作って、孤児院の子達全員総出で大合唱したみたいなんですよ」
まず神聖魔法として成立する聖歌、それも複数の領をまたぐ教区全体に効果をもたらす大規模なものをそうホイホイ作れるのがおかしい。
聖歌というのは聖句・和声・旋律・抑揚・緩急その全てに意味があり、最適に組み合わせなければ力ある歌とはならない。新規で作ったにしても既存の聖譜をアレンジしたにしても、一朝一夕でできる事ではない。まだ薬師組合に消毒薬を発注した上で『聖白衣献身隊』のような治癒士団体の到着を待つ方が建設的だろう。
その上で出来たての聖歌をその日のうちに正しく歌い、教区全域に“浄化”をかけるというのも相当におかしい。
単純にその歌唱の技量は勿論のこと、効果を高めるための聖具や聖遺物、陣の敷設、純粋な魔力量の確保。長年の人脈がある大司教ならまだしも、二十歳を過ぎた程度の人間に用意できるものではない。
「それで同じようなことがあってもすぐ対応できるようにと、三級誦経士や治癒士が三人ほど……今はもっと増えているはずです」
「それは……随分と熱心なことだ」
三級と言えば一人前の技量である。
四級とは訳が違う。
誦経士なら司祭レベル、つまり町の教会を運営できるという事。治癒士なら重体でないような大抵の患者を一対一であれば問題なく診る事ができると、あの『白』のアリヤが認めたという事だ。
聖歌隊には過剰というか目指す方向性が行方不明にも思える。
バダンタムも流石にこれはおかしいと思っているようで、眉をハの字に傾けて苦笑いしていた。
「……多分私がまだ二級誦経士だから、三級までで止まってるんだと思います。みんな、私以上には優秀ですから」
「……」
セリンボンはもはや返す言葉を見つけられなくなった。凡人の限界だ。
かの“一期生”ですら、調べた限りでは誦経士の資格だけは二級より上を持つ者がいなかった。先の彼女もだ。
だが枢機卿直属の部下ともなれば、二級の範疇外の作業を行わさせることもある。当然疑問や不明点を確認されることはあるが、ミスがあったことはない。むしろ逆に、先代以前からの過去の慣例に対して問題点や“原典”の曲解の可能性を指摘されたことはあった。明らかにやろうと思えば一級を取ることもできるはずだ。
王国各地に散り、離れ離れになってなお、彼ら彼女らは目の前の若き青年と肩を並べ続けていたいのだろう。
遠慮なんかしなくていいのですけどね、と意固地になっている優秀な兄弟達を慈しむようなバダンタムの柔らかな笑みは、どこか母親を思わせるものだった。
(……エデンベール卿が推すだけある)
その人智を超えた人徳に、セリンボンは“祝福”を感じざるを得なかった。