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少しだけ軽く

 僕はもう一度、砂浜に座り直した。


 さっきまで立っていた場所には、自分の靴跡がくっきりと残っている。

波が届くか届かないか、そのぎりぎりの境目。


少し迷ってから、僕はその境界線よりわずかに上に腰を下ろした。


 濡れたスーツの裾が、じわりと砂を吸い込む。

細かい粒が生地に入り込み、重みを増していくのがわかる。

立ち上がればきっと、ぱらぱらと落ちるだろう。


 風が服の隙間を通り抜け、シャツと肌の間をするりと滑る。

汗と海水が混ざった布地が、ひやりと体温を奪っていく。


 塩の匂いがする。


 鼻の奥が少しだけつんとする。

遠くで誰かが焚き火でもしているのか、ほんのかすかに焦げたような匂いも混じっていた。


 ざあ……ざあ……


 波は一定の距離を保ちながら、規則正しく砂を撫でていく。

白い泡が広がり、消え、また次の波が来る。


 その呼吸に合わせるみたいに、胸の奥もゆっくり動く。


 吸って。

 吐いて。


 思えば、こんな時間を過ごすのはいつ以来だろう。

 会社では、沈黙は気まずさだ。


 会議室での沈黙は、誰かの責任を探す時間になる。

 エレベーターの中の沈黙は、視線を泳がせる時間になる。


 ここでは、ただの“間”だ。

 風が通り抜けるための余白みたいなもの。


「ねぇ」


 少女が、じっとこちらを見る。

 夕方の光を受けた瞳が、思ったよりも透明だった。


「びしょびしょのままで風邪ひかない?」


 心配というより、観察に近い声。

 僕の濡れた袖口や、砂のついた膝あたりを、冷静に見ている。


「ひくかもしれないな。でも、まぁ……いいよ」


 本音だった。


 体が冷えても、さっきまでの息苦しさよりはましだ。

 会社の蛍光灯の白い光の下で、乾いた空気を吸い続けるよりずっといい。


「ふーん。そういうタイプ?」


「まぁね。自分でもよくわからないタイプだよ」


 肩をすくめると、貼り付いていた砂がさらりと落ちた。


 「んふふっ」


 少女は小さく笑う。

 風が彼女の髪を揺らし、頬にかかった毛先が夕陽に透ける。


「じゃあさ、ひとつだけ質問していい?」


「なんだい?」


 なんとなく、軽い話題だと思っていた。

 でも。


「なんで……仕事してるの?」


 その問いは、予想していたものより重かった。


 遠くでカモメが一声鳴く。

 一瞬、言葉が止まる。


「あっ……お金のため、って言いたいとこだけど」


「けど?」


 少女の目が、思った以上にまっすぐだった。

 からかいも、皮肉もない。

 ただ、答えを待っている。


 逃げ場がない。

 軽口で流せない目だ。


 僕は小さく息を吐く。

 白くはならないが、確かに体の奥から何かが抜けた感覚があった。


「……家賃を払うとか、生活の為に色々な物を買うとか……まぁ色々あるけど」


 現実的な理由を並べる。通帳の残高や、クレジットの引き落とし日が頭をよぎる。


 でも、それだけじゃないと感じている。


「ほんとはね」


 自分でも意外なくらい、素直な声が出る。


「どっかでね、“役に立ちたい”と思ってるんだよ」


 言った瞬間、少しだけ照れくさい。

 なんか世間を知らない、青臭い答えに思えた。


 でも、嘘じゃない。

 数字のためじゃなくて。

 上司に怒られないためじゃなくて。


 誰かの困り顔が、ほんの少しでも和らぐ瞬間を見たい。

 たぶん、それが本音だ。


「ふーん」


 少女は、じっと僕を見る。

 その視線は、否定もしないし、持ち上げもしない。

 ただ、受け止めてくれている返事。


「だったらさ、役に立つ場所、他にもあるよ?」


 あまりにも簡単に言う。

 まるで、落とし物の場所を教えるみたいに。


 僕は苦笑する。


「へぇー、なかなか君も、簡単に言うねぇ」


 簡単じゃない。

 簡単じゃないから、みんな苦しんでる。


 でも。

 少女の目は、冗談を言っていなかった。


 風がまた吹く。


 乾きかけたシャツが、ぱさりと音を立てる。

 砂がさらりと落ちてきては、僕の指先に触れる。


 役に立つ場所。

 それは会社の中だけなのか?

 数字の中だけなのか?


 少女は、海を見ながらぽつりと言った。


「役に立つってさ」


 僕は無意識に耳を傾ける。


「誰かの息が少し楽になること、じゃないの?」


 その言葉が、胸の奥にはらりと落ちて行く。

 波の音と重なって、奥までゆっくり沈んでいく。


 ざあ……ざあ……


 吸って。

 吐いて。


 さっきまで重たかったはずの胸が、また少しだけ軽くなった気がした。


 ここでこうして座っているだけでも、もしかしたら。

 誰かの息が、ほんの少しだけ楽になっているのかもしれない。


 少なくとも――


 今の僕の息は、さっきよりずっと深くなっていた。


 「あのさぁ」


 そしてまた、少女は口を開いた。

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