色が足される
「ふーん。じゃぁ、あたしの番ね。あたしは外出」
少女は、海から目を離さないまま言った。
“番”という言い方が、どこか遊びの延長みたいで。
でもその声音は、さっきより少しだけ真面目だった。
「外出? なんだい外出って。家を出てきてるだけなんじゃないの?」
僕は肩をすくめる。
砂浜にいる以上、物理的には確かに“外に出ている”。
それ以上の意味があるとは思えなかった。
少女はゆっくり振り向く。
「ううん。違うの。……あたしのは、外出なんだよね」
同じ単語。
でも彼女の中では、明確に別物らしい。
「えーっと、どういう事なんだ?」
聞くつもりはなかった。
いつもの僕なら、ここで話題を流す。
曖昧な話は深入りしない。
深入りすれば、責任が生まれる。
責任は重い。
だから聞かない。
それが僕の“処世術”だった。
でも。
なぜか今回は、言葉が止まらなかった。
少女は少し目を細める。
風が彼女の髪を横へ流す。
白いワンピースの裾が揺れる。
波の音が、二人の間を静かに往復する。
「風がさ、今日は優しいよね」
唐突に、少女はそう言った。
「……風が優しい?」
「うん。」
彼女は、手のひらを風に向けた。
何故だろう?
そこを風が挨拶しながら流れている様に感じる。
「ほら、どこにも刺さらないでしょ?」
僕も手のひらを風にさらしてみる。
確かに、冷たくはない。
強くもない。
挨拶をしてくれている様には感じられない。
ただ、触れて、そのまま滑って抜けて行く。
「この風が吹く日だけ、ここに来るの」
「へー、風待ちの漁師みたいなこと言うね」
軽口のつもりだった。
少女は小さく笑う。
「全然違うよ。あたしの外出って、決まってるんだよ。家の人がね、“風が変わった日だけ、外に出ていい”って言うの」
「変わった? 天気予報の話じゃなくて?」
「ううん」
少女は首を軽く振って否定した後、空を見上げる。
「“世界に色が足された日”みたいな……そんな日」
世界に色が足された日。
抽象的だ。
でも。
僕も空を見上げる。
青の奥に、ほんのり金色が混じり始めている。
なんか光が微妙に柔らかい。
「色が足されるって、どういう意味だ?」
気づけば、僕は真面目に聞いていた。
少女は頬に人差し指を当てて、少しだけ考える。
「普段はね、色が多すぎるの」
「多すぎる?」
「うん。怒ってる色とか、焦ってる色とか、不安の色とか」
彼女は空中に指で線を引く。
「色んな色が混ざりすぎて、ぐちゃぐちゃになる日があるの」
ぐちゃぐちゃ。
その表現が妙にリアルだった。
会社の会議室を思い出す。
怒号。
数字。
焦燥。
言い訳。
確かに、色なんて概念があるなら、あそこは濁っている。
「でも今日はね、わりと整理されてる」
「整理?」
「うん。青は青。光は光。音は音」
波が砕ける。
ざあ……ざあ……
その音が、はっきり分かれて聞こえる。
さっきより、ずっと。
「だから安心して、外出できるの」
「外出って、色を見るための時間なのかな?」
少女は首を横に振る。
「見るっていうより、一つの色に染まりすぎないため。そして色に混ざりすぎないための時間かな」
染まりすぎない、混ざりすぎない。
その言葉が、胸に引っかかる。
会社では、全部が混ざる。
評価と自尊心。
数字と価値。
怒鳴り声と存在。
全部が一色に溶けて、黒くなる。
でも今は。
波は波。
風は風。
少女は少女。
僕は僕。
ちゃんと、分かれている。
少女は海を見つめたまま言う。
「今日は、世界がちゃんと呼吸してる。」
呼吸。
僕は自分の胸に手を当てる。
確かに、さっきより深い。
「じゃあさ」
自然と口が動く。
「色が足されない日は?」
少女は、少しだけ黙った。
風が答えるまでの間を埋める。
波が砂を撫でている様に穏やかに往復を繰り返す。
「そうだなぁ……外に出ない」
短い答え。
「だって、苦しくなるから」
その声は、冗談じゃなかった。
初めて、僕は彼女の“外出”を現実として受け止める。
これは、遊びじゃない。
逃避でもない。
彼女なりの、生きる方法だ。
そして。
僕はもう、半分どころか、ほとんど聞いていた。
気づけば。
少女の話の続きを、待っている自分がいた。




