波が戻すもの
それから、少し経って。
砂浜の波の輪郭が、さっきよりも大きく幅寄せしてきていることに気づいた。
ざあ……ざあ……
一定だった呼吸が、わずかに深くなる。
夕陽が沈みきる直前の、最後の満ち。
水平線の向こうへ消える寸前の光が、海面を赤黒く染めている。
波の一つひとつが、さっきよりも力を持って押し寄せてくる。
「……あ」
心臓がひとつ跳ねた。
スマホ。
海に“返した”ままだ。
波は容赦なく砂を飲み込み始めている。
さっきまで乾いていた場所が、じわじわと濡れていく。
「まずい」
僕は慌てて立ち上がり、革靴のまま海へ踏み込んだ。
冷たい。
水が一気に足首を包む。
思っていた以上の温度差に、思わず息を呑む。
次の波で、膝まで浸かった。
ズボンが重くなる。
塩水が布に染み込む。
靴の中に水が入る感覚が、妙にリアルだ。
革の内側に冷たい水が溜まり、足先がふやける。
それでも、目は波間を探していた。
さっき投げた位置を思い出す。
あのときの軌道、落ちた音、波の高さ。
光が沈みかけている。
海面は黒に近づいている。
その中に、かすかに違和感。
波の揺らぎの中で、わずかに不自然な影。
指先が何か硬いものに触れた。
「……あった」
砂に半分埋もれたスマホ。
画面は真っ暗だ。
濡れて、冷たい。
指で握ると、ぬめりとした海水が滴る。
でも、確かにそこにあった。
僕はそれを握りしめ、岸へ戻る。
波が足を引き止めるように絡みつく。ズボンの裾が重く、歩きづらい。
靴下は完全に濡れて、ぐちょりと音を立てる。
砂が中に入り込んでいる。
気持ち悪い。
濡れた素足で履く革靴は、決して気持ちのいいものではなかった。
なのに。
不思議と、顔は上を向いていた。
ここに辿り着いた時の、あの鉛のような重さはない。
胸の奥が、すっと通っている。
波が、足跡を消していく。
ざあ……ざあ……
僕は振り返る。
少女の姿はない。
夕闇が広がり、砂浜はさっきよりも静かだ。
でも。
あの場所は、確かにあった。
僕は確かに、風を通した。
次の日。
僕はいつもより早く出社した。
まだ空気が冷たい時間。
駅のホームも、オフィス街も、どこか眠たげだ。
ビルの自動ドアが開くと、冷えた空調の匂いが鼻をつく。
オフィスの蛍光灯が白い。
整然と並んだ机と椅子。
昨日までと何も変わらない景色。
自分の席に座る前に、上司のデスクへ向かう。
「昨日は申し訳ありませんでした」
思ったより明るい声が出た。
ヤケクソじゃない。
投げやりでもない。
本当に、謝ろうと思ったのだ。
上司は、一瞬だけ固まった。
キーボードを打つ手が止まり、ゆっくりと顔を上げる。
僕の顔をじっと見る。
「……大丈夫か?」
予想外の言葉だった。
「はい」
即答する。
「大丈夫です」
自分でも驚くくらい、自然な返事。
上司は少しだけ目を細めた。
「後で、ちょっと声かけるから」
そう言いながら、僕の肩をポンと軽く叩く。
そのタッチは、思っていたより柔らかかった。
呼ばれたのは昼前だった。
周囲のざわめきが、いつもより遠く感じる。
覚悟していた。
顧客からの苦情か。
無断欠勤の処分か。
でも。
「昨日な」
上司は椅子にもたれた。
「お前の担当の顧客から連絡があった」
鼓動が大きくなるのを感じる。
「苦情……ですか?」
「違う」
上司は首を振る。
「心配だと」
僕は言葉を失う。
「連絡がつかないから、何かあったんじゃないかって」
机の上の資料が、やけにくっきり見える。
「会社にまで電話してきた」
心配。
怒りでも、叱責でもなく。
「たまには休ませてやってください、って言われたぞ」
上司は苦笑した。
「ずいぶん大事にされてるな」
胸の奥が、じわりと温かくなる。
役に立っていないと思っていた。
数字だけで、自分の価値を測っていた。
でも。
誰かは、僕の不在を気にしてくれた。
“色が足された日”。
少女の言葉が、ふと浮かぶ。
怒りも、焦りも、悲しみもある。
でも。
整っている日もある。
混ざらない日もある。
僕は、静かに息を吸った。
胸が、ちゃんと動く。
「……ありがとうございます」
上司にではなく。
世界に、かもしれない。
夜。
部屋の机の上に、乾燥剤を詰めた袋が置かれている。
スマホはその中に埋まっている。
画面はまだ沈黙している。
通知音も、光もない。
でも。
僕は知っている。
あの日の風は、確かに通った。
また色が変わる日が来る。
怒りが混ざる日も、悲しみが濃くなる日も、きっとある。
その時。
僕は、またあの砂浜へ向かうだろう。
呼ばれなくても。
きっと。
風が、覚えているから。




