15
リグの眠りは浅かった。夢の中で何かが破綻し、何かがブツリとちぎれ、そのたびにうなされた。
だから、寝ていても誰かが怒鳴ったのがわかった。もちろんリグに意識はなく、どういう対応も感想も出てこない。それでも濡れた砂浜からズボッと引き出されるように掴み上げられ、身体がふわりと宙を舞ったのがわかった。そして固いものにぶつかる衝撃。体が危険信号を発するが、まどろんだままの意識では反応できない。結果として、なんとかしたほうがいいよ? というかなり他人事な警告がリグに届いた。そんな言い方で瞬時に反応するのは兵士というより逃亡者である。雲隠れしている以上、当たらずとも遠からずと言ったところなのだが、とにかくリグは完全に目覚めることはできなかった。
続けてまた大声が響き、倒れていたリグは胸ぐらをつかまれて力任せに壁に押し付けられる。それでやっとリグは目を開けられた。
胸ぐらをつかんでいるのはユキだった。怒りに満ちた目でリグを睨んでいる。
「お前というやつは……今度こそ本当に見下げ果てたぞ! 私たちが、お前の部下たちも必死の思いで苦心しているところを、お前はのんびり居眠りか!」
リグが言われたことを半分も理解できないうちに、ユキはリグを片手で掴みあげたまま二、三発殴った。リグの意識はまどろみから混乱に変化していたが、身体はぐったりしたままだ。
それにいらだって、ユキはリグを投げ捨てるように振り払った。再び床に倒れるリグを横目に、吐き捨てるように言う。
「こんな奴を当てにしなくてはいけないとは……!」
ユキはじろじろと部屋を見回し、壁に寄りかかって立ち上がったリグを鼻で笑った。
「なかなかいい部屋だな。困難から逃げ去り、柔らかいソファに寝転がって隠居生活か。いい身分だ」
それを聞きながらリグは部屋の隅の洗面台で顔を洗い、水を飲む。殴られた頬が熱い。
「目は覚めたか? 言い訳なら聞いてやる。座れ」
ソファの真ん中にどっかと腰を下ろし、ユキは対面のソファを指す。その顔には収まらない怒りが滲んでいる。
リグはソファに座った。まだ頭がぼうっとしている。戦術コンで時間を確認すると、一日半がたっていた。
「どうした、言い訳でも考えているのか」
舌打ちでもしたそうにユキは眉をひそめる。以前会ったときと違って、つややかな黒髪が背中まで伸びていた。
「髪、伸ばしたのか」
「……前のユキと混同されては困るからだ。文句でもあるのか」
「いや」
リグは顔を撫でる。
「悪いな。起きたばっかりなんだ」
「知っている」
意地の悪いユキの返事に、リグは首を振った。
「そうじゃない。まともに寝たのが久しぶりだったんだ。頭が回らない」
「ふん、怪しいものだ……たしかに顔色が悪いな。身体データを見せてもらうぞ」
リグが返事をしないうちにユキの戦術コンから情報共有の要請が入る。リグは即座に承認した。身体データくらい、好きに見ればいい。
リグの身体データを見たユキの表情は、憤怒の赤から戦慄の青へと変化していった。怒ったところしか見たことがなかったので、なかなか表情豊かだな、とリグはそれを眺める。
「お前、これはなんだ! ほとんど病人じゃないか!」
慄くユキの叫びを聞いてリグは、そうだったのか、と感心した。やっぱりどこか他人事の感覚が抜けない。
「こんなところで寝ている場合じゃない。投げ飛ばしてすまなかった、とにかく急いで治療室に行こう!」
焦ったユキはリグの片手を掴んで引く。部屋の外に連れ出そうとして、その手が動かないことに気づいて振り向いた。
リグはユキに引っ張られ腰を上げたかけたまま、手を動かさなかった。その両目は見開かれたまま、ボロボロと大粒の涙をこぼしている。
その様子にユキはすっかり動揺した。手は力が込められていなかったのですぐに外せたが、リグは座り込んだまま動かなかった。ユキはリグの周りをオロオロと歩きまわり、両手はどうしたらいいかわからずに胸まで上げていたが何をするでもなく、力なく指をさまよわせるだけだ。
「す、すまない! 私のせいか? 殴ったりしたから……けっこう加減したつもりだったのだが。打ちどころが悪かったか? それとももう病気だったのか? ど、どうしよう……」
困り果てたあげく、こうなったら担いででも、と言い出したユキをリグは手で制した。
「大丈夫だ。身体はなんともない……すぐに落ち着くから、待っててくれ」
心配そうな顔のままユキは悩み、結局リグの言うとおりにした。ソファに座って申し訳なさそうに縮こまり、座ったまま涙をこぼすリグを見守る。
三分もかからず涙を出し切ると、リグはまた洗面台で顔を洗った。わずかに体が震えていたが、すぐ収まった。ソファに戻る。
「すまなかったな。混乱しただろう」
「混乱というか……身体は大丈夫なのか」
「あまり大丈夫じゃないが、緊急を要する事態じゃない」
リグは急に人前で泣いたこと恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「いまのは、その……君に話すべきではないことなんだが」
「構わない。聞かせてくれ」
だいぶためらった後、リグは口火を切る。
「いつだったか、君の手を握ろうとして邪険にされたことがあっただろう」
「ああ、まあ……」
「あれは当然のことだ。でもいま、君から俺の手に触れてくれたとき……なぜだか、前のユキとの思い出が一気に溢れてきたんだ。それで涙が止まらなくなった。変だよな。前のユキが死んだって聞いたときだって、悲しいとは感じても泣いたりしなかったのに」
うつむいて話すリグに、ユキは身体を小さくしたままつぶやいた。
「変じゃない」
「そうかな」
「そうだ。人間の感情は複雑だ。それに、悲しければ泣くものだろう。泣くのを先送りにしていたから、こんなことになるんだ」
「先送りの上、タイミングが悪いか……俺らしいな」
「その、責めているわけじゃない。先送りにせざるを得ない状況だったのだろう」
「わかってる。状況の方は、なんとも言えないが」
ふと、リグは首を傾げた。
「どうしてここを知っているんだ? ここは631の連中くらいにしか言っていないが、あいつらが簡単に口を割るとも思えない。あと知っていそうなのはGMSと戦略部だが、人払いを頼んであるはずだ」
ユキは気まずそうに視線をそらす。
「どうした?」
「その……あいつらと揉めた」
「あの三人とか? どうせガスだろう」
「ガスも、だ」
「じゃあテオと二人がかりか。しょうがない奴らだ」
「違う。ユウだ」
「ユウ!?」
びっくりしてリグは腰を浮かしかけた。
「俺以外にユウを怒らせられるやつがいたとは……」
順を追って話してくれ、とせがむリグに、ユキはますます気まずそうに膝を抱えた。
今日、攻撃機動の開発中にユキは艦載機を撃墜した。ユキは操縦手だからそれが偶然だとわかったが、仲間たちは喜んでくれて、いまの機動を再検討しようと言う。その中にユウたちもいたのである。撃墜が偶然だという事実への失望と何度やっても確実な機動が捉えきれない苛立ち、そして肝心の武装の情報が何も出てこないことへの絶望が、ユキを激発させた。気がつけばヘルメットを床に叩きつけて怒鳴っていた。
曰く、こんなことをしていても何の意味もない。武装次第で機動は変わる。お前たちの隊長ヅラしている無能を連れてこい。逃げ出すことばかり得意なあのろくでなしを。どうせいままでの戦術開発も偶然か、なにかインチキでもしていたんだろう。あれがただの役立たずだと、さんざん締め上げてお前たちの前で白状させてやる。
ユキはぼそぼそと喋り続ける。
「それで、一瞬しんとしたあと、ユウが一歩前に出てきた。何も言わなかったが、やる気だとわかった。そうしたらガスもユウの隣に立った。俺も混ぜろよ、とか、へらへらしていたが目は本気だった。私も頭に血が上っていたから、面白いと思った。ユウは歴戦の古参兵だし、ガスは地上戦ならWFと肩を並べる性能がある。二人まとめて叩きのめしてやる、と思った」
リグは頭を抱えた。聞くのが怖い。
「それで、どうなった」
「結局、テオと、レオが止めに入った。同じ小隊のダイとエマもいつの間にか立ち位置が変わっていたから、私たちが抵抗したら抑える気だったんだろう。そうしたらテオが……あいつも本気で怒っていた……そんなに気に入らないなら直接話してくればいい、とここの座標を教えてくれた。私は上等だとかなんとか言い残して、ここに来た。そうしたらお前が寝ていた。あとは知っての通りだ」
リグは顔をしかめる。
「何やってんだあいつらは。これからWFや他の兵士と協力していかなきゃいけないってときに、罵声の一つや二つで……疲れてんのか? すまない。うちの部下が失礼をした」
「謝らないでくれ。どう考えても私が悪い。どうかしていた。後で謝りにいかなくては……」
ユキはちらり、とリグを見た。
「それで、その、どうなんだ」
「なにが?」
「いまの流れでわかるだろう! 対空武装の開発だ、いまどうなっている」
リグは少し考えた。
「言えない」
「なぜだ。進んでいないからか」
「進んでいないかどうかも言えない。誰にも言わない。ユウにもだ。なぜかというと、動揺を防ぐためだ」
「動揺?」
「対空武装の開発が進んでいないとわかれば兵士、いや市民は動揺する。進んでいると公言して失敗しても同じことだ。成功の確信を得るまで、なにかが進んでいるかどうかすら言えない」
「私がこの生命とWFの誇りにかけて他言しないと誓っても?」
「だめだ。聞けば君の行動は変わる。さっきのやり取りのあとだ。ユウやレオが君の変化に気づかないはずがない。そうなれば君が一言も漏らさなくても情報は広まっていき、同じことになる。だめだね」
ユキは不満そうに唇を曲げたが、渋々うなずいた。
「悔しいが、その対応はおそらく正しい。あの631が武装について未だに何の対応もしないので、兵士たちは強い不満というか、不安を抱えている。そこへ開発に失敗したと言えばパニックになるし、なにも手がないと言えば暴動になるだろう」
「わかってもらえて嬉しい」
ユキは抱えていた足を離して前のめりになる。
「なあ、あの三人の忠誠心は一体何なんだ。兵士は隊長に対してあんな感情は持たない。隊長や副長なんて、ただの役割分担でしかないからだ。お前はなぜあんなにも信頼されている」
それを本人に聞くのか、とリグは驚いた。前のユキなら聞かなかっただろう。いまのユキは、よくも悪くも真っ直ぐなのだ。
「俺が知るもんか。そもそも、あいつらが素直だったことなんかない」
「素直と忠誠は違う。あの三人は素直じゃないかもしれないが、お前に忠実だ。傍から見ていればよく分かる。戦術開発に対して我々はまったくの手探りなのに、あの三人はなにか指針があるかのように迷いがない。それがお前だ。なぜそうなった」
リグは腕を組んで考えてみる。まだ頭の動きが鈍い。カフェインが欲しかった。
「小隊結成して最初の戦闘の後で、俺はあいつらに生きろと命令した」
「その話なら知っている」
「なんだ。おしゃべりな奴らだ」
「お前は知らないだろうが、我々は戦術開発の動機づけについても話し合いの場を持った。思い出を大切にすることが生き残ること、つまり戦術開発の必要性を生むのだと」
リグはうなずいた。
「話が早くて助かる。そういうことさ。俺の何らかのやり方が生き残りに有利だと、あいつらは捉えたんだろう。それだけのことだ」
「それだけとは思えない。とても強い感情だった」
「そう言われても、俺にはこれ以上はわからない」
「かもな。無意識になにかしているかもしれないし、そもそもあの三人の感情だ。三人に聞くのが筋だろう。もっとも、謝るのが先だから、訊くのはずいぶん先になりそうだ」
ユキはまた身を乗り出す。
「お前は指針にされることに抵抗はないのか。自分が正しい確信があるのか」
「あるわけない」
「それでもやるのか」
「他に手がないんだから、しょうがないだろう。捨てていいのはゴミとプライドだけだ。あきらめなければ、いつかできるようになる。間違えてもやり直せるし、引き返せる。自分ができなくなっても、誰かに託してそいつがやってくれてもいい。とにかくあきらめなければいい。この考え方は確実だ。問題はやたら時間がかかることだが」
「それを短縮しようとして、お前は631の三人や我々にも戦術開発をできるようにしているのか」
「そんなところだ。同じ手探りにしても、手は多いほうがいい」
いや違うな、とリグは拳を額に当てる。
「俺はみんなに死んでほしくない。いつでも手助けできる状況ならいいが、そうじゃない状況のほうが多いだろう。そんなときでも生き残れるように、自分で考える能力を身に着けてほしいんだ」
「思い出のためか」
「そうだな」
「思い出ができた時点で、自分ひとりの命ではないというわけだ。相手の記憶を消さない限り、死ねば悲しい思いをさせることになる。少なくともお前にとっては」
「そのとおり」
ユキは組んだ手をじっと見つめた。
「いまの私にも、死んでほしくないのか」
「ああ。寝込みを襲われたのは初めてだ。なかなか忘れられないだろうな」
「前のユキよりも?」
「前のユキはもう死んだ。死んだ相手に、死んで欲しくない、はおかしい」
「……なんとなくわかった気がする」
「なにが?」
「あの三人がお前に忠誠を示す理由だ」
「そこにつながるのか」
「つながると思う。お前は根本的に兵士に対する認識が私たちと違う。お前は個を大事にしすぎる。我々兵士は常に失われる危険と隣り合わせだ。クローンは必要だ」
「必要なのはいいさ。だからといって死んでいいことにはならない」
「お前が死を恐れていないのはわかる。だが、死を嫌っている。そんな区別をしているのはお前くらいだ」
「じゃあ君たちがどうかしてるんだ」
「それをはっきり言い切るところが、私たち他の個体が真似できないところだろうな」
ユキは笑うと、ゆっくりうつむいた。
「そんなお前の考え方に共感し、WFに広めたのが前の私だ。優秀な個体だ。性能もそうだが、戦術開発をいち早く取り入れた功績は特筆ものだろう」
前のユキ、ではなく、前の私、と言ったことにリグは気づいた。
「同じ遺伝子を持ちながら、いまの私はどうだ。感情に任せて焦るばかりで、さっぱり結果が出ていない。それどころか周りに迷惑をかける始末だ」
リグはユキが何を言おうとしているか察して、止めようとした。
「ユキ」
「私は、落ちこぼれだ」
ユキの黒い瞳に涙が浮かぶ。ユキはそれを腕で拭った。
「前のユキを見習わなくては」
「それは違う」
「なぐさめなくていい。事実だ」
「事実だから言っているんだ。あきらめるなと言っただろう」
ユキは訝しげにリグを見る。
「だから、間違いに気づいて前のユキのやり方を真似しようとしているんだ。いまの私のやり方はだめだ」
「気づいてなんかいない。君はただ前のユキの結果だけを知って、その真似をしようとしているだけだろう。どうしてその考えに至ったか知ることもなく。そんなのできるわけがない。同一遺伝子だといったって、君たちは別個体なんだ。同じ経験ができない以上、同じやり方なんかできやしない」
「じゃあどうしろというんだ。このまま気性の荒く性能だけ高い、手のつけられない女でいろと?」
「そうだよ。わかった。まずその机を下ろそう。投げる前に最後まで聞いてくれ」
ユキは机をおろして、じろりとリグを睨んだ。
「次は持ち上げるなんて悠長なことはしない。蹴り飛ばして顔面に当ててやるからな」
「わかったから聞いてくれ。前のユキだって最初から戦術開発をWFに普及させようとしたわけじゃない。単に興味を持っただけだ。本心では、一般兵が何を生意気なことをしているんだ、と思っていたのかもしれない。でも、俺や他の人々、戦闘を通じてそれが有効だと知った。そこには彼女独自の経験からくる考え方があるんだ。それをそっくり模倣するにはまったく同じ経験をするしかない。無茶だ。時間を巻き戻すようなものだよ。だから、君は君のやり方をするんだ」
ユキは目を丸くした。
「私のやり方?」
「そうだ。識別No.も個体名も関係ない、いまこの瞬間にいる君のやり方だ。同じものを目指していれば、違うやり方でも同じ場所に行き着く。あきらめるな、というのはそういうことなんだ。やり方なんか、君がやりやすいようにやればいいんだ。君の経験と考えに従って。そうしなければ結局納得できない。うまくいっても失敗しても、言い訳ができてしまうんだ。そうすれば真面目に再検討する気なんかなくなる。結果が出ないのなんかどうだっていい。何を目指すべきなのかわかっていればタイミングの問題でしかない。どうして結果が出ないのか、しっかり考えればそれが軌道修正になるんだから」
ユキは腕を組んで考え込んだ。
「……前に私が相談事を抱えていると見抜いたことがあっただろう」
「あったのか?」
「あった! どうして覚えていないんだ!」
机を叩いて怒るユキに、今度はリグが小さくなる番だった。
「いろいろあったもんだから……相談だって? 君が、俺に?」
「もういいっ! 解決したようなものだ!」
いったんそっぽを向いたユキは、リグをひと睨みするとしぶしぶ説明してくれた。
「いまの小隊のみんなと微妙に呼吸が合わないんだ」
どっかで聞いた話だな、とリグは思った。
「どうしてなのかわからなかったが、前のユキに最適化されているのだと気づいた。だからといって前のユキの真似をすると、どうもうまくいかない。時にはいまの私に合わせようとしてくれて、すれ違うこともあった。大した事ではないかもしれないが、いつか生死を分けるかもしれない。どうするべきか悩んでいた。だが、もうやめだ」
ユキは手のひらに拳を打ち付ける。
「いまの私のやり方でいい。前のユキに及ばない部分は、いまの私のやり方でカバーする。結局それが一番やりやすいし早い。そういうことだろう」
「……まあ」
「なんだ、違うのか? 微妙そうだな」
「いや、あってる。ただ、相談があると思ったら勝手に解決しちゃったもんだから」
「それもそうか」
少しの沈黙が訪れる。ユキはリグの顔をまじまじと眺めた。
「ひどい顔だ」
「どうせ脳をいじるんだから、顔もやってくれればよかったのにな」
頬を撫でるリグに、ユキは首を振った。
「そういう意味じゃない。お前の顔は良い方だ」
今度はリグが目を丸くした。
ユキは深呼吸し、よしっ、と気合を入れると立ち上がった。
「隣を借りるぞ」
ユキはずかずかと机を回り込み、リグの隣に座る。そしてリグをじっと見上げると、タックルでもするように抱きついた。
「ユキ!?」
「お前は最初私に触れようとした。そうすれば元気が出るんだろう?」
「でもそれは……」
「いまだけ、私を前のユキと思うことを許す。相談の礼と、いままで詫びを兼ねてだ。さあ、私の身体を好きにしろ!」
リグは恐る恐るユキの肩に触れた。
「頭がおかしくなったのか? 難しい話をしたから? 治療室に行こうか?」
「遺言はそれだけか……?」
ユキの両腕が組み合わされてリグの肋骨をぎりぎりと締め上げてくる。
「あだだだだ、いだいいだいいだ、わかっ、悪かった! 謝る! 謝るから!」
リグはユキの背中をタップして降参を宣言する。伸びた黒髪が乱れ、幾筋か宙に舞った。
ユキは腕を緩め、リグを下から睨む。
「恐ろしく失礼なやつだな。難しい話だと? 私の知性まで心配していただいて恐縮だ」
「しかし、君と前のユキは別個体だ」
「そうだ。お前からすれば勝手な話だろう。前のユキと混同するなと言ったり、今度は同一視しろと言ったり。だが、私はお前に礼がしたい。私の経験から判断して、きっとこの方法が一番だ」
「……無理しなくていい。耳まで赤くなってる」
「う、うるさい! 仕方ないだろう、こんなこと、したことないんだから!」
リグは内心、その言葉にほっとする。
「直接肌に触れるわけじゃない。服越しの間接的な接触だ。たいしたことはない」
ぶつぶつ言いながら、ユキは最初よりも身体を引き寄せてくる。リグは少しだけお言葉に甘えることにして、ユキの背中に手を回した。ユキの肩が、びくっ、と跳ねる。
「ど、どうだ。元気が出るか?」
「ああ。結構なもんだ」
「よし、ならいい」
少しそのままでいると、ユキは鼻をひくつかせた。
「お前、シャワーは浴びているのか?」
「そういえば行ってないな。臭いか?」
「いいや。臭わないので変だと思って聞いたんだ」
何度もリグの身体の匂いを嗅いでは不思議そうなユキを見て、リグも顎の下にあるユキの頭部に目を向けた。その香りに興味が湧いたが、リグの本能が危険を察知する!
「……俺も嗅いでみていいか?」
「事前に尋ねておいて正解だ。予告なしに行なっていたら頭突きを食らわせていたところだ」
リグはなんとなくいまのユキの扱いがわかってきた。
「正直論外だが、私も嗅いだしな。拒否しては不公平だから、嗅いでいいぞ。でも一回だけだ! 一回だけ!」
公平ってなんだっけ、と思いながらリグはユキの濡れたような黒髪に顔を寄せてみる。
「い、一回だけだぞ……どうだ?」
「甘くていい匂いがする」
「私はチョコレートキューブか?」
ユキの声の温度が下がる。
「いや、違う種類の甘さだ……花の匂いみたいな」
ごん、とユキが軽く頭で小突いてくる。
「痛った」
「この馬鹿!」
「なんだ、褒めたぞ!?」
「そういう問題じゃない! 恥ずかしいだろう!」
ユキの扱いがわかった気がしていたが、気のせいだった。リグは納得いかないままユキを抱きしめ続ける。そうしていると、懐かしさに気持ちが和らいでくる。柔らかな暖かさに眠気を誘われてきた。
「……なあ」
「んあ?」
リグの意識が引き戻される。眠りかけていた。
「治療室、いかないか」
「なんでだ」
「こうしているとよく分かる。お前の鼓動は弱く、遅い。ここで寝ているだけでは回復が遅れるだけだ。本当に病気になる。治療室に行こう」
心配そうに自分を見上げるユキに、リグは首を振る。
「だめだ。人目につく」
「動揺を与えるのを心配しているのか? それとも不安に駆られた兵士に襲われるのを? 安心しろ。やりようはあるし、私が警護についてやる。いや、私たちだな。631とWF全員に声をかければ、何個小隊襲ってこようが安眠を約束する」
安眠が永眠に聞こえて、リグは心配になった。
リグは理由を口にした。それはためらわれることのはずなのに、なぜかすらすらと話せた。
「そうじゃない。ユキ、これは俺の問題だ。人目が怖いんだ」
ユキは黙って続きをうながす。
「ある時から、人目が怖くなった。期待と不安の視線が。どうしようもなく体が震えるんだ。人々がそんな感情を持つのは、経緯からすれば当然だ。そうとわかっていても、駄目だった。始末の悪いことに、俺はユウたちを見て自分にとどめを刺した。ユウたちも同じく期待と不安を持っているはずなのに、それを隠してくれる。申し訳なくて吐きそうだった。だから逃げ出したんだ。でも、何もしないこともできない。なんとかしなければ俺も、みんなも死ぬ」
リグの脳裏にGMSの計画がよぎった。
「そんなことは絶対にさせない」
ユキの背中に回した両手を握りしめ、リグはつぶやく。
ユキはゆっくりとリグの体に回していた腕を解き、リグの肩に回す。そのままのしかかってきた。弱ったリグには、上半身だけでユキを受け止める力がなかった。
黒髪が広がり、どさり、とリグは押し倒される。
「ユキ?」
「……さっき、私の知性を心配してくれたな」
「いや、あれは……」
「返上する。私は馬鹿だ」
びっくりしてリグは頭を上げてユキを見る。ユキはリグの服に顔を埋めていた。
「兵士は蘇生時、GMSによって脳に何度も成功体験を学習させられる。不安などから自分の性能を低下させないための精神的な措置だ」
それはリグも知っていた。実際に受けた。だが、話が見えない。
「GMSが与えた精神的な鎧だ。兵士は都市市民よりはるかに高いストレス耐性を得ている。だから簡単に崩れたりしない。なのに……人目が怖い? そんなになるまで、お前は追い詰められていた。考えなくてもわかりそうなものだ。お前は戦場で瞬間的に戦術を考案できる。人一倍優れた観察力と状況を把握する能力があるんだ。みんなの、市民全員の期待と不安に気づかないはずがない。それが重圧となってお前の精神を押しつぶした。そしてお前の感知能力が鋭ければ鋭いほど、その重圧は重さを増していくんだ。すべてを捨てて逃げ出しても、誰も責められない。お前一人に押し付けた私たちが悪いんだ。なのにお前は逃げ出した先でも人目に怯えながら、たった一人で都市市民すべての命を背負って、孤独に戦っていた」
じわり、と血のように熱い液体がリグの服に染み込んだ。
「私は馬鹿だ。お前のことを、嫌なやつだと思っていた。戦術コンに逆らうどころか命令無視、滅茶苦茶をして周りに迷惑をかけても涼しい顔で、最終目的は達しているから罰せられない。どんな攻撃をしてもするりと抜け出して、いつの間にか勝利を掴んでいる。殺しても死なないようなやつだと、そんな風に思い込んでいた。そんな、強いだけの人間などいるはずがないのに。私に心があるように、お前にも心がある。その心が砕けても、お前は戦っている」
ユキは涙に濡れた瞳でリグを見つめた。
「すまない、リグ。私が間違っていた。お前は立派な戦士だ」
リグの服で涙を拭い、ユキは続けた。
「傷ついた兵士は撤退するものだ。でもお前は撤退しない。お前の立っている戦場にはお前しかいないから、撤退がそのまま負けになるからだ。勇気があるのを通り越して、見ていられない。自分の能力のなさが恨めしい。せめて、私でなくてもいい、誰かがお前の隣に立てればいいのに。私たちの能力はまったく足りない」
「足りないなんてことはない。君たちは回避機動を完成させたじゃないか。攻撃機動だって、武装が決まっていないのによくやっている」
「でも、お前は一人だ」
リグはユキの背中をなだめるように叩いた。
「役割分担だよ。タイミングが悪いだけだ、ユキ。ここをしのげば俺はもっと楽ができる。俺は楽がしたくってたまらないんだ。そのうち君たちに全部押し付ける。小隊長なんか返上だ。ユウのほうがうまくやる」
「……本当か?」
「本当だ」
「……約束だぞ。破ったら許さないからな」
それだけ言うと、ユキはぷいっと横を向いた。くそっ、泣いたのは初めてだ、なんてぼやいている。
リグは内心、流れで小隊長をやめる約束をしてしまったことに怯えた。勝手にした約束を守るために隊長やめる、次お前な。そんな事を言ったらユウがどれだけ怒り狂うか。艦載機をやっつけても、俺は生き残れないかもしれない。そんな想像をしてぐったりした。
と思いつつ、ユキの温もりと重さを心地よく感じるリグである。
「なあ」
「どうした」
「前のユキのこと、好きだったのか?」
あまりにも真っ直ぐな質問に、リグはびっくりした。だが、リグといまのユキのわだかまりの核心はそこだ。ユキは間違っていない。
「……ああ。好きだった」
「いまもか? つまり、前のユキを、ということだ」
焦って付け加えたユキから視線をそらして、リグは考えてみた。
「……少し前までなら、そうだ、と答えたと思う。でも、いまは違う。さっき泣いたとき、はっきり整理できた気がする。彼女は過去の人になった」
「好きじゃなくなったのか」
「厳密に言えばそうだろうな。好きというより、大切な人、思い出になった。素晴らしい記憶だが、もうそこから何も変化しない。近くに置いておけない、どうしようもなく遠くに行ってしまったような感じだ」
ユキは考え込んだ。
「前のユキに対して、レオたちも同じようなことを感じているのだろうか」
「たぶんな。話してみればいい」
「そうだな……同じ隊のエマと前のユキは親しかった。いまの私ともよく話してくれる。でも、時々妙な間があく時がある」
少し寂しそうに言ったあと、ユキはしみじみと言った。
「私は死を恐れていない。だが、残す人々にそんな思いをさせたくもない。やはりお前の言う通り、人はそう簡単に死んではいけない」
「そうだ。うちの隊の連中もやっとわかってきたようだが、WFはその意識がまだ薄い。いまは違うかもしれないが」
「我々はその意識について一度話し合う必要がある。生き残りが重要だと心から感じられれば、戦術開発に一層熱が入る」
死してなお、とリグは考える。こうして生き残りの一助になってくれている。死さえも無意味ではない。前のユキの死は、こうしていまのユキたちを奮い立たせてくれる……。
リグは上半身を起こす。しがみついていたユキは驚いたが、バランスを崩さないのはさすがだった。
「な、なんだ、もういいのか?」
言ったあとで、しまった、と言わんばかりにユキは咳払いをする。リグから一人分離れたところに座り直した。
「今度は俺から訊いてもいいか」
「いいぞ」
「ここに来てどうするつもりだったんだ?」
「お前を叩きのめして対空武装の開発進捗を吐かせ、みんなのところに連れ戻すつもりだった」
ユキは小さくなって付け加える。
「もちろん、いまはそんな事考えていない」
「助かる」
リグはユキを見つめる。
「もし武装が開発できなかったら?」
「お前に押し付けている以上、その事態を考えておかなくてはいけないな」
顔をしかめたあとでユキは答えた。
「私はWFだ。心臓を貫かれても敵を滅ぼす純白の剣だ。防衛が間に合わなくなるその日まで敵機撃墜の方法を死に物狂いで考え、時がくれば戦術コンに命じて私が死のうと肉体が完全に破壊されるまで戦い抜く」
「死にものぐるいで考えていたら、その日とやらに万全の体調で挑めないだろう」
「他にどうしろと言うんだ」
リグとユキの間で強い視線が交錯する。
「君に言えることができた」
「なんだ」
「その日が来るまで訓練を続けてくれ。ただし、体調は万全にしておいて、だ。何が起きてもいいように」
「何かが起きるのか」
「わからない。だが、機関砲も当たらないわけじゃない。あきらめるな。戦場にボロボロの体で赴いては、できることもできなくなる」
リグは実際、何が起きるかわかっていなかった。ただ何が起きるにしても……GMSのおぞましい戦術に反逆するにしても、健康な体があってのことだ。
「……わかった。どうせこのあと戻る。みんなにも伝えておいたほうがいいだろう?」
「頼む」
ユキはしっかりとうなずいた。
そのあと急に視線を宙にさまよわせ、いいづらそうに口を開く。
「リグ。話したいことがあるんだが、時間、いいか? いつでもいい話なんだが」
「構わない。時間は、まあ、あると言えばあるし」
「よかった! 実は戦術開発の参考にしようと思って、お前の戦歴だけは入念に調べておいたんだ。それでどうしてもわからないことがあって、お前に訊くしかなくて困っていたところだった」
ユキの視点がブレる。戦術コンの情報を視覚野に反映しているのだ。
「どれにしようかな。やはり最初の侵入個体五連撃破かな。これはシミュレータでやってみて爽快だったが、どうしてあの発想に至ったのかわからないんだ。それともやっぱり巨大飛行船撃破か。お前はなぜかポインターの設定画面の存在を知っていたし、それに戦術コンが連携することまで知っていた! なあ、どうしてなんだ?」
偶然です、とは言いづらく、リグは話を逸らすために部屋の隅に目を向けた。
「食べながらでいいか?」
「ああ、構わない……なんだその箱!? リグ、まさか備蓄倉庫から盗んできたのか!?」
「いいじゃないか。どうせ消費期限が来たら食事に混ざるんだし、防衛に失敗したら気にするやつはいなくなる。うまくいったら、戦闘詳報でついでに白状すれば帳尻が合う。君もいるか?」
「なんてやつだ。盗みなんて、前代未聞だぞ」
言いながら、ユキは放られた携帯食料のパッケージを破ってもぐもぐ食べはじめた。
「……食べてるじゃないか」
「箱ごと盗んできたくせに、その中の一個や二個が余計に減ったところで何だというんだ。戦闘詳報には私も共犯だと書いておけ。いや、私は盗んでいないから……共食いした、で頼む」
ちょっと違うんだよなあ、と思いながらリグはまずいことに気づく。これもユウに知られたら怒られるだろう。戦闘詳報になんか書いたら一発だ。
リグがため息をつくと、ユキは心配そうに身を乗り出した。
「大丈夫か? 都合が悪いなら……」
「いや、いいんだ。それで、なんだって?」
それからリグとユキはずっと話し込んだ。いままで互いを避けてきた期間を埋めるように。ユキは何度も笑い、驚き、それらを足したのと同じくらい怒った。最後の方にはユキに、インチキだ! ずるい! と言わせるのがリグは楽しくなってきていた。
そして、終わりの時間が来た。夕食の時刻だ。ユキには631の三人に謝るという重要任務があった。これ以上遅れると、どんどん謝るのが難しくなる。同じ隊のレオたちも心配するだろう。
ユキは立ち上がり、リグに礼を言ってドアに向かった。近づいたユキを感知してドアが開くと、ユキは振り向いた。
「リグ、ちょっとここに立て」
リグは言われたとおりにユキの正面に立つ。すると今度は、手を出せ、ときたのでまたもリグは従った。
ユキはリグの手を包むように両手で握る。
「快復したか?」
「おかげで、かなり」
「なによりだ。私は有用だな。疲れたら呼ぶといい。手ぐらい、いつでも握ってやる」
それに、とユキは手を離す。
「私もこの感触を忘れたくない」
途端にドアが閉まった。リグは呆然とドアを見つめ、我に返ってもどこか夢見たような気分でソファに横になった。
ひさしぶりに、穏やかな眠りがリグに訪れた。




