最終章:英霊(イーヨー)の帰還、あるいは灰燼のキネマ
一、 臼砲の暗黒と、不条理の白煙
「……大宮さん、大丈夫。怖くないから。ゆっくり、ゆっくり入って」
畑中愛看護主任の、震える、けれどどこか慈愛に満ちた声に促され、大宮徹三兵長は滝のような脂汗で青い検査着を濡らしながら、最新鋭のCTスキャナの巨大な円筒形の空洞へと、ゆっくりと水平に吸い込まれていった。
お尻の部分に、大宮が自らハサミで乱暴に切り裂いて作った穴からは、軍袴の記憶を宿した灰色のロバの尻尾が、戦車の砲身に睨まれた蛇のように、恐怖でカチコチに硬直して突き出ていた。
「撮影、開始するわよ」
ガラス返しの操作室から、麗華院長の声がスピーカーを通じて響く。
ブゥゥゥゥン――という、巨大な磁場が回転する重低音が第一検査室を満たした。それは、あの奉天の空を埋め尽くしたソ連軍のYak戦闘機の爆音のようであり、大宮の鼓膜を激しく震わせた。
――しかし、次の瞬間だった。
チチチ、と異様な電子音が響いたかと思うと、純白のCTスキャナの隙間から、まるで戦場の硝煙のような、不気味な白煙が少しずつ漏れ出し始めたのだ。
「え……? ちょっと、何これ!?」
「院長! 機械の出力が異常数値を叩き出してます!」
操作室の麗華と畑中の顔が、一瞬にして焦燥に強張った。科学の光が、大宮の身体に巣食う「奉天の仙人の呪い」という未知の不条理の領域に触れた瞬間、拒絶反応を起こしたかのように、機械が悲鳴を上げ始めたのだ。
「――が、あがぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!!!」
円筒の暗黒の奥から、大宮兵長の、地獄の底から響くような絶叫が轟いた。
次の瞬間、バチバチと激しい火花が散り、視界を完全に遮断するほどの濃密な「黒煙」が爆発的に噴き出し、第一検査室を、あの昭和二十年の奉天の戦場さながらの暗黒へと包み込んだ。
「緊急停止! 畑中、今すぐ消火器を持ってきて!!」
麗華が叫び、機械の電力が強制遮断される。畑中主任は防水エプロンをなびかせ、部屋の隅の消火器をひったくると、黒煙の渦巻くCTスキャナの開口部へと突入し、白い消火剤を激しく噴射した。
プシューーーッという不穏な霧が晴れたとき、第一検査室には、異様な静寂だけが残されていた。
麗華は操作室から飛び出し、畑中と二人で、ゼーゼーと肩から激しい息を吐きながら、異様な冷や汗を全身に浮かべて立ち尽くした。
「大宮兵長……!? 大宮さん、大丈夫!?」
二人は、消火剤の這うベッドの上から、大宮の身体を外へと力任せに引きずり出した。
――だが、そこに、昨夜までお寿司を食べて日本酒に顔を赤くしていた、あの大宮兵長の肉体(姿)は、どこにもなかった。
スライドベッドの上に横たわっていたのは、白く細い煙を頼りなく立ち昇らせている、生々しい「ロバの頭部、そして軍袴の尻から伸びていたはずの、ロバの尻尾の骨」だけだった。
そして、人間であるはずの大宮徹三の肉体があったと思われる部位には、肉も、内臓も、スウェットの服もなく、ただサラサラとした「黒い灰」の山が、静かに横たわっているだけだった。
「……どういう、こと……?」
麗華院長は呆然と呟き、震える手で持っていたiPhoneのシャッターを切った。
画面に映る、ロバの骨と、黒い灰。
最先端の医学を以てしても、仙人の因果応報の呪いからは、誰も逃れられなかったのだ。科学の光を浴びたことで、大宮の肉体の時間は、一瞬にして「本来あるべき八十年の歳月」へと還元され、灰燼に帰してしまったのだ。
「やっぱり、これは……人間の病気なんかじゃない。本物の、呪いだったのね……」
畑中愛主任は、その場に激しく膝をつき、大理石の床に涙をボトボトと滴らせながら、狂ったように泣き叫んでいた。
二、 白木の箱と、市ヶ谷への再電
「院長……、システムチェック、終わりました。機械に異常はありません……。今でも、完全に完動します……」
数時間後、畑中は涙を袖で拭いながら、力ない声で麗華に告げた。
「なんで……なんでイーヨーの時だけ、こんなことになるのよ……」
二人は、静まり返った検査室の床に散らばる、大宮徹三の形見である「ロバの骨」と「黒い灰」を、生活介護のケアを行うかのように、優しく、丁寧に集め、クリニックの備品室にあった無地の白木の木箱へと丁重に収めた。
麗華院長は、静かに検査室を後にすると、院長室のデスクに腰掛け、再び『市ヶ谷(防衛省)』の高官の顧客へと電話をかけた。
「……もしもし。ええ、高峰です。……例の、消息不明になっていた独立混成第百一旅団の大宮兵長のことだけど。……遺骨(灰)が、見つかったわ。裏から手を回して、今すぐ、彼を正式に靖国神社へと奉納(合祀)してあげて。……ええ、お願いね」
電話を切り、麗華は隣でいまだに肩を震わせて泣きじゃくっている畑中主任のベリーショートの頭を、そっと引き寄せ、静かに囁いた。
「大宮兵長は……これで、やっと長い長い戦場から解放されて、祖国の『英霊』になれたのね。もう、ロバの耳を恥じる必要も、戦傷に怯える必要もないわ」
畑中主任は、その日、それ以上の業務を行うことができず、ただ骨抜きのようになってクリニックを早退していった。
残された麗華は、静かに受話器を上げ、もう一度、別の番号へとダイヤルした。
「……もしもし、東芝の医療機器サービス? ええ、高峰美容クリニックの第一オペ室のCTだけど……今すぐ、メンテナンスの手配をお願い」
三、 雑嚢の遺言、あるいは一筋の涙
その夜。六本木の最高級タワーマンションに帰宅した高峰麗華は、いつものように歌舞伎町へ繰り出す気力すら失っていた。
静まり返った広大なリビングで、彼女は一人、一本数百万は下らない伝説の赤ワイン『ロマネ・コンティ』のボトルをあけ、グラスに注いだ。そして、バーキンから『ヴァージニア・スリム』を取り出し、カルティエのライターで紫煙に火をつけた。
ふうっと吐き出した煙の向こう、麗華は、今朝まで大宮と畑中の二人が寄り添って寝ていた、あの奥の部屋へとゆっくりと足を踏み入れた。
床には、二人が使った布団が、直立不動で硬直していた大宮の温もりを残したまま、そのままの形で残されていた。
そして、その枕元には――大宮が満州・奉天の戦場から命がけで抱えて持ってきた、あの赤茶けた布製の「雑嚢」が、ぽつんと転がっていた。
「……バカね、これだけは持って行くのを忘れたのね」
麗華はロマネ・コンティのグラスを置き、膝をついて、その泥臭い雑嚢の紐を解いた。
中を開けると、出てきたのは、略奪した金貨や腕時計ではない。
何人もの日本の婦女子の祈りが込められた、色褪せた『千人針』の布。
「武武長久」の文字が血痕とともに滲む、色褪せた『日章旗』。
そして――破り取られた現代の歴史の教科書の余白の紙に、鉛筆で殴り書きされた、一枚の「手紙」だった。
『軍医殿、愛ちゃん殿へ。
お国が負けたのは無念でありますが、令和の日本が、これほど美しく、おにぎりや寿司が美味い平和な国になっていたこと、兵長としてこれ以上の喜びはありません。
化け物になった俺を風呂に入れ、水をくれ、匿ってくれたこと、一生忘れません。
不束者ながら、二人のこれからの武運長久を、陰ながらお祈り申し上げます。
大宮徹三』
「……本当に、汚い字ね。あの男の生真面目な人柄が、そのまま滲み出てるわ」
麗華は、薄荷の煙を吐き出しながら、その鉛筆の文字をじっと見つめ、自嘲気味に呟いた。
大学教授の地位も、名誉の青写真も、すべては灰となって消え去ってしまった。手元に残ったのは八十年前の英霊からの、不器用な感謝の遺言だけ。
窓の外には、八十年前の奉天の黒煙など知る由もない、六本木の眩いばかりの平和な夜景が広がっている。
手紙を胸に抱きしめた麗華院長の、冷徹だったはずの美しい目から、一筋の、熱い涙が、大理石の床へと静かにこぼれ落ちていった。
頭の上の灰色の長い耳をパタパタと羽ばたかせ、軍袴の尻の尻尾を振って笑っていた、あの最悪で、最高に純粋だった古参兵の姿は、令和の空の下、二人の女性の胸の奥で、永遠のキネマとなって生き続ける。
(――『奉天のロバ兵長、令和の美容クリニックに立つ』 第一部・完)




