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快炎鬼  作者: 吉田四郎
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最後の炎

最後の炎

濛々(もうもう)と舞い上がる粉塵の中を、何者かが足早にこちらに向って走る靴音が聞こえてきた。

最初は小さな靴音であったが、得体の知れない何者かが近づくにつれ、靴音だけでなく、激しい息使いまでもが聞こえるほどに接近してきた。

やがて周囲の景色が徐々に見え出し始めると、近づいてくる人物の輪郭、周辺の建物の形成までもがハッキリと判別できるようになってきた。

そして、走ってきていた人物は男性だと判ると、走っている場所も松原通りだと判った。

息使いも荒く、松原通りを必死で走ってきた男の正体は、氷室丈二であった。

走る丈二のヘア・スタイルと服装は、失踪当時の刑事の姿のままで、何一つとして変わってなかった。

丈二は走るスピードをガクンと落とし、怪訝な顔で何度も左右の建物を見廻した。

「……どうなってんだ?」

「俺は魔餓鬼を道連れにして自爆したはずだ」

「……なのになぜ松原通りを走ってるんだ?」

丈二はピタリと足を止めた。

「……おかしいのは道だけじゃない」

着ている上着とズボンをポンポンと叩いて確かめた。

「服もズボンも全く以前と同じだ」

数少ない通行人たちの服装を見てみると、全員が夏服の軽装だった。

痛いほどの日射しを浴びながら、丈二は青い空と白い入道雲を見上げた。

「……暑いなぁ」

「……ってことは、今は真夏か?」

ダラダラと流れる汗をハンカチで拭いながら、丈二は前方のパーキングを見た。

「そうだ、思い出したぞ!」

「俺は珍皇寺に向かって走りながら、あのパーキングの前で真央に連絡をしたんだ!」

―――

「俺だ。丈二だ」

「今、どこだ?」

『珍皇寺ですけどォ?……』

「俺は今、キミの近くにいる」

「俺が行くまで、そこを動かないでくれ」

―――

おもむろに携帯を取り出すと、丈二は険しい表情で画面を見つめた。

険しかった丈二の表情が、パッと急激にやわらいだ。

「あった」

「発信履歴が残っている」

「これが真央と会話した証拠だ」

丈二は背広を僅かに広げると、ショルダーに収納されている拳銃を確認した。

「服は事件が起きた当時と同じだ。所持している拳銃だってそのままだ」

丈二は僅かに頬をほころばせて喜んだ。

「……ってことは、もしかすると?」

丈二は呟きながら、ゆっくりと松原通りを歩き始めた。

「も、もしかすれば?……」

笑顔になった丈二は、声も大きくなって足早に走り出した。

「もしかしてくれればいいのに……」

丈二は絶叫しながら、松原通りを全力で走っていった。

「もしかしていろ―――ッ!」

道行く主婦たちは驚くと同時に、走る丈二を哀れんだ。

「可哀想に……」

「まだ若いのにねぇ……」

丈二は死に物狂いで走った。

心ははやるばかりで、珍皇寺になかなか辿り着くことができなかった。

珍皇寺がこれほどまでに遠くに存在しているとは思わなかった。

丈二は他人ひとの目も憚らず、大きな声を上げながら走り続けた。

「うおおおおお~~~ッ!」

―――

短距離走でも走っているかのように、全速力で松原通りを走ってきた丈二は、通りから少し入り込んだ珍皇寺の正門に向かおうとしたのだが、勢い余って曲がり切れず、足を大きく取られてしまい、敷地内の石畳の上に派手に転がってしまった。

「ま、真央がいる!」

「直ぐそこだ!」

逸る思いが強すぎて何度もその場でけつまろびつしながら、やっとの思いで立ち上がった丈二は、正門に向かって駆け出した。

正門を潜り抜け、参道に入った丈二の足がパタリと止まった。

参道の中ほどで、真央がこちらを向いて立っていた。

丈二は呆然とした顔で呟いた。

「……いたよ」

「いてくれたよ。俺の真央が……」

一筋の涙が丈二の頬を伝い落ちた。

「……よかった」

「生きていてくれて……!」

感極まった丈二は、ボロボロと大粒の涙を流した。

「どれほど……」

「どれほど、キミに逢いたかったことか……!」

泣いても泣いても、流れる丈二の涙は止まることはなかった。

丈二はこの時、初めて知った。悲しみの涙よりも、嬉し涙の方が一気に溢れることを……。

手の甲で、丈二は手荒く交互に涙を拭い取った。

「みっともないぜ」

「真っ昼間から、大の男が泣くなんて……」

真央は怪訝顔で丈二を見つめていた。

「……どうしたのかしら?」

「あんな所で、急に立ち止まったりして……」

丈二は自分を叱責した。

「泣くな!」

「泣けば真央が心配するじゃないか」

流れ落ちる涙は驚くほどにピタリと止まった。

この上ない至福の時を感じながら、丈二は歓喜の声も上げずにゆっくりと真央に近づいた。

「……お願いだ」

「これが夢なら、めないでくれ……!」

ゆっくりと近づいてくる丈二を、真央は不思議がった。

「……何だか様子が変ね?」

「いつもの丈二さんじゃないみたい」

喜びを抑え切れなくなって丈二は突然、絶叫にも似た声で参道を駆けだした。

「真央―――ッ!」

真央は丈二の豹変に仰天した。

「な、何なの?」

「何があったのよ?」

参道で立ち止まっている真央に息せき切らせながら辿り着くと、流れ落ちる大粒の汗をハンカチで拭い取り、丈二は一息入れて呼吸を整えてから、真央の両肩に手をそっと置いた。

「逢いたかったんだ」

「真央に……」

「どうしたのよ?」

今朝けさ、逢ったばかりなのに?……」

真央の腰の後ろにパッと両手を回した丈二は、真央を抱き上げるようにして持ち上げると、理由も告げずにグルグルグル……と真央を大きく振り回した。

急に丈二に抱き上げられ、地から足が離れた真央は悲鳴にも似た声を上げた。

「きゃあ~~~ッ!」

叫ぶ真央には全く構わずに、丈二は歓喜の表情を浮かべながら真央を回し続けた。

「よかった、よかった、よかった―――ッ!」

真央の叫び声は一度だけだった。

真央は振り回されながら、笑顔で丈二の耳元で囁いた。

「何かいいこと、あったのね?」

回す勢いを緩めた丈二は真央を参道に降ろすと、感慨深げに言った。

「あったとも。感無量ってやつだ」

「これ以上の喜びを感じたことは一度もないよ」

真央は微笑みながら言った。

「何があったのか知らないけど……」

「丈二さんが喜んでくれれば、私はそれだけで幸せなの」

丈二は近くの木の天辺を見上げ、指を差しながら真央に聞いた。

「キミは見たか?」

「あの木の天辺に、頭の白いカラスが止まってたはずなんだが?……」

「……頭の白いカラスですか?」

「そうだ。頭だけが白いカラスだ」

「見なかったわよ」

「頭の白いカラスなんて……」

丈二の表情が和らいだ。

自分を納得させるように、丈二は何度も何度もこっくりと頷いた。

『よし、それでいいんだ』

だここには、懸衣翁は来ていなかったってことだ』

丈二の不審な言動を、真央は何も言わずに優し気な表情で暫く見守っていた。

後先の損得を余り考えずに直ぐに実行することは、刑事にとっては小さな長所であって大きな短所だと他人ひとは言うかもしれないけど、何もせずに後でウジウジと後悔している刑事たちよりも、丈二のように即、実行に移してから後悔した方が絶対にいいと真央は以前からそう思っていた。なぜなら、やるだけのことはやってからの後悔だからだ。

丈二と共に喜びを分かち合いたかったのだが、いまだに詳しく事情を話してくれない丈二に対して、一抹の不安を感じた真央は率直に尋ねた。

「今は勤務中のハズです」

「教えて下さい。何があったのですか?」

丈二は真央を諭すようにして言った。

「ゆっくりしているヒマは無い」

「詳しいことは後でじっくりと話す。いいかな、それでも?……」

真央はそれ以上、詳しく聞くことはしなかった。

「……はい」

―――

勢いよく正門を潜り終えた政岡は、参道に入ってくると、丈二と真央を指差し、怒鳴りつけながら近寄ってきた。

「コラ―――ッ!」

「お前ら、そこで何やってんだ―――ッ!」

血相を変えて怒っている政岡に、真央は恐怖を覚えた。

『や、やっぱり、何かあったのだわ?』

『冷静な政岡さんが、あんなに怒るなんて……!』

近づいた政岡に対し、丈二は深く頭を下げて謝った。

「悪かった」

「許してくれ。この通りだ」

政岡は呆れていた。

「お前ってヤツは……」

「職場放棄までして、真央ちゃんの顔が見たかったのか?」

真央は驚いた。

「えッ?」

丈二は悪びれることも無く、平然と応えた。

「そうだ。その通りだ」

「俺は真央の身が心配だったから会いにきたんだ」

「どういう意味だ。詳しく説明しろ!」

「その前に教えてくれ」

「六道総合医療センター前の道路で、多重事故が起きたとか、病院が大爆発したなどの報道は無かったか?」

政岡はぶっきらぼうに応えた。

「ねぇよ。そんなモノ……」

安堵の表情を浮かべた丈二は、直ぐに真顔に戻って言った。

「この境内の奥に逃亡犯が隠れ潜んでいる。それも殺人容疑の凶悪犯だ」

「えッ?」

丈二は真央に顔を近づけ、小さな声で言った。

「容疑者は拳銃を所持している。激しい銃撃戦になるかも」

「だから、キミは直ぐにここから離れて欲しい」

「わ、わかりました」

丈二の言葉に何の疑いを持たなかった真央は、サッと二人に背を向け足早に参道を走り去った。

真央を見送りながら、丈二はホッと安堵の息をついた。

『よし。これで境内に穴が出現しても、真央は助かる』

走り去っていく真央の後ろ姿を見送りながら、政岡が言った。

「おい。間違いないのだろうな?」

「逃亡中の男が、この奥にいるっていうのは……」

丈二は何の躊躇いも無く、背広内のショルダーケースから拳銃を取り出した。

「詳しく説明したいのだが今はそれどころじゃない。殺人容疑で逃亡中の犯人身柄確保が第一優先だ」

「よし、判った」

丈二が真剣で言っていると察した政岡は、丈二と同じようにしてショルダーケースから拳銃を取り出した。

「信用するぜ。お前の言葉を……」

拳銃を所持して警戒しながら、二人は参道から奥の境内に向かって行った。

―――

手元近くの地面に拳銃を置いた矢沢は、「迎え鐘」の裏の壁に、背もたれながらヘタり込んでいた。

ガックリと首を項垂れ、矢沢は深い溜め息を付いて嘆いていた。

「あ~あ~」

「今から思たら、大きなヘタを打ってしもたわい」

右側の遠方には、アイボリー系の壁のマンションが建っていて、前方には珍皇寺の出入り口だと思われる塀などがあり、僅かな空間から見えている雲一つ無い青空を見つめながら、矢沢は無念と後悔の言葉を吐いた。

「検問しとるのが遠くから見えた」

「そやさかいに人気ひとけの無いトコへ車を乗り捨てて、ここまで逃げて来たんやけど、こんなことやったら繁華街の中に逃げ込むか、それとも観光客の中に紛れ込んだ方がよかったかもしれんなぁ?」

―――

政岡とともに境内に入ってきた丈二は、本堂前の石塔近くで立ち止まって推理した。

『魔餓鬼が飛び出して来た穴は……そこだ』

『逆算すると、矢沢と魔餓鬼が出会った可能性のある場所は、遠くの『閻魔堂』よりも、穴に近い『迎え鐘』の方だってことになる』

政岡に身を摺り寄せた丈二は、小声で政岡に言った。

「容疑者が隠れているのは、この『迎え鐘』の裏だ」

「何だって?」

政岡は丈二の言葉に極度の違和感を覚えた。

政岡の考え方はこうだった。

逃亡する場所として、珍皇寺は適していたかもしれないが、例え一時的にしろ、柱を朱色に塗られた『迎え鐘』は、身を隠すには余りにも派手な場所だと感じたからだ。

丈二は目前の「迎え鐘」に銃口を向け、大声で叫んだ。

「矢沢―――ッ!」

「拳銃を捨てて、出てこい―――ッ!」

―――

逃亡場所に落胆していた矢沢は、突然の丈二の大声に度肝を抜かれた。

「だ、誰や?」

サッと拳銃を手にした矢沢は素早く起き上り、表の「迎え鐘」の気配を伺った。

「何で知ってるんや。俺がここにいることを……」

―――

驚いたのは政岡も同様だった。

銃口を「迎え鐘」に向けながら、政岡は同じことを丈二に聞いた。

「な、なぜだ!」

「なぜお前は知っているンだ。容疑者の名を……」

丈二は政岡の耳元に口を近づけ、囁くようにして言った。

「三途の川の小舟の上で聞いた」

「教えてくれた相手は、矢沢に殺された六道会の組長だ」

政岡は心配顔で丈二に聞いた。

「お、お前……」

「マジで言っているのか? それを……」

丈二は苦笑しながら応えた。

「冗談だよと言いたいが、実は……実話だ」

呆れ返った政岡は、「迎え鐘」に向けていた銃口を下に向けた。

「お前を信じた俺がバカだった」

「やってられねーよ。お前とは、これ以上……」

とその時、「迎え鐘」の裏から大きな声がした。

「誰や!お前は?……」

「何で俺の名前を知っとんのや―ッ!」

政岡の開いた口が塞がらなかった。

「おい?」

「マジかよ?」

「だから言ったじゃないか。この裏に容疑者がいると……」

政岡の表情が切り変わり、真剣な顔つきで「迎え鐘」に銃口を向けた。

丈二は銃口を「迎え鐘」に向けながら、アゴで政岡に指示を下した。

「右側から裏に回ってくれ」

丈二の指示に従い、政岡は静かに「迎え鐘」の右側へ回り込んだ。

政岡が「迎え鐘」の右側に移動したのを見定めた丈二は、銃口を「迎え鐘」の左側の方に向けた状態で警告を発した。

「お前は完全包囲されている!」

「無駄な抵抗は止めて銃を捨てて出てこい!」

「大人しく出てこなければなければ、お前の身体は特殊部隊のSATサットによってハチの巣になるぞ!」

「出てこいッ!」

「矢沢―――ッ!」

―――

目の色を変えた矢沢は、銃口を前方の三方に次々と向け、特殊部隊のSATの姿を必死になって捜した。

「ど、どこや?」

「どこにおるねん、特殊部隊の連中は?……」

矢沢はSATの姿を捜し続けたが、誰一人として見つけ出すことができなかった。

「……京都府警ちゅうのは、おっそろしいトコや」

「俺の名前はすでにしっとるし、特殊部隊がどこに隠れとんのか、ナンボ捜しても全然わからへん」

観念した矢沢は、銃口を下に向けた。

「こないなったら、しゃあない」

「……諦めるとするかぁ?」

表の丈二に見えるように所持している拳銃の片腕だけを「迎え鐘」の裏から差し出した矢沢は、「迎え鐘」の土台となっている幅広の石の上にそっと拳銃を置いた。

すっかり観念した矢沢は、上げた両手を頭の後ろで組んで「迎え鐘」の裏側から大人しくスゴスゴと出てきた。

御堂の中程でピタリと足を止め、怪訝な顔で銃を構えている丈二を見た。

「……一人かい?」

「誰やねん。お前は?……」

銃口を矢沢に向けた状態で丈二は叫んだ。

「動くなッ!」

「それ以上動くと、撃つぞッ!」

矢沢は不敵な笑いを浮かべながら、両手を下した。

「撃ったらええがな」

「こっちは丸腰や。撃てるもんなら好きなだけ撃ったらええがな」

クルッと素早く丈二に背を向けた矢沢は、「迎え鐘」の石の上に置いていた拳銃に向かって飛び込んだ。

ガシッと銃口を掴み取った矢沢の顔がほころんだ。

そのままの態勢で銃を持ち直して喜んだ矢沢の笑顔も束の間で、「迎え鐘」の裏を回り込んできた政岡が、革靴の靴先で矢沢の顔面を、下から上に鼻先が潰れるほどに勢いよくドガッと蹴り上げた。

拳銃を持った矢沢は、万歳をした格好で大きく仰け反りながら、「迎え鐘」の石台から下の小さな石畳に倒れていった。

「ぐわあ―――ッ!」

丈二はその時、黒塗りの背の低い柵を飛び越え矢沢逮捕に向かっていた。

仰向けに倒れながら丈二の方に向けられていた銃口が、矢沢が激しく石畳に叩きつけられたと同時に火を吹いた。

一発の乾いた拳銃の音が、静寂な珍皇寺の境内に鳴り響くと、矢沢を蹴り上げた政岡の表情が凍り付いた。

「!」

「丈二……」

―――

黒い大海に見える「三途の川」の水面は、コールタールのようにドス黒く、ゆっくりと下流に流れゆく黒い水は波一つとして立たず、「三途の川」とは名前ばかりであって緩急の差は無く、実に穏やかな川であった。

しかしながら「三途の川」の上空は、無風であるにも関わらず、鉛色をした暗雲が大渦を巻き、渦は不気味に形を変化させながら急激に動いていた。

三途の川の岸辺の「賽の河原」には大小の石が無数に転がり、その石コロばかりの中に「衣領樹」と呼ばれていた巨木の切株を模した洋館の「衣領樹館」が建っていた。

広い面積の「衣領樹館」の外壁はグレーに統一され、羅獄殿のように暗闇の中で映えることは無く、シンプルなデザインの外観は「三途の川」にはピッタリだと感じられる建物になっていた。

地表から80㌢ほどの高さの所に、木の枝のように見えるモノが「衣領樹館」の外壁から水平に10㍍ほどの長さで伸びていた。

木の枝のようなモノは、根元から先端までの縦幅が10㌢、横幅は30㌢ほどに統一されて伸びていて、ブランコの腰かけ用に使用されている板が横にグンと10㍍ほど伸びたように見えた。

長身で肩幅の広い男性がこちらに背を向けながら、衣領樹のやかたに一人で近づいていった。

黒いスーツ姿の男はクルリと振り返り、館の外壁から横に突き出ていた木に片手を付くと、ヒョイと軽く足を浮かせて腰を掛けた。

男は精悍な顔立ちのイケメンで、年齢は35歳前後に見えた。

エバが男に近づき、男と同様にして木に腰を掛けた。

男はエバに語り掛けるでもなく、前方を見ながら呟くようにして言った。

「白と黒のモノトーンだけの味気ない世界だが……」

「こうして久々に「三途の川」と「賽の河原」を目の当たりにすると、嬉しさと懐かしさがぜになって、グッと込み上げてくるぜ」

エバは男に言い聞かせるようにして言った。

「あなたは感謝することね」

「自爆してくれた快炎鬼に対して……」

男の正体は、奪衣婆の夫の懸衣翁であった。

「言われるまでもねぇ。俺は大いに感謝してるぜ」

「だが、快炎鬼はどうだろう? 感謝しているのだろうか、閻魔さんに?……」

アララが二人に近づき、怪訝な顔で木に腰掛けてエバに聞いた。

「理由を教えて欲しいわね」

「なぜ快炎鬼は閻魔さんに感謝しなければいけないのかしら?」

リュウが近づき、アララの横に腰をかけた。

「俺も知りてぇ。教えてくれ」

エバは優しく三人を諭すような口調で応えた。

「……それはね」

「閻魔さんは快炎鬼に『二つの約束』をしたからなの」

リュウは不満顔で言った。

「聞いてねーな」

「閻魔さんが快炎鬼と二つも約束を交わしてしていたなんて……」

エバはリュウの呟きを無視して話を続けた。

「一つ目の約束は、同僚の刑事に自分の姿形すがたかたちが見えること。そして二つ目の約束は『悪いようにはしない』ってことだったの」

アララは呆れた顔でエバに聞いた。

「そんな曖昧あいまいな口約束だけで、快炎鬼は現世へ行ったって言うの?」

「曖昧な約束って言うよりも、一つ目の約束が自分の姿が同僚に見える程度の軽い約束だったから、快炎鬼としては『悪いようにはしない』なんて言葉はもうどうでもよくて、魔餓鬼に復讐できるチャンスが来たってことだけを重要視したのね」

「でも、閻魔さんが悪いようにしなかったからこそ、私たちはその恩恵にあずかり、こんな風にして4人がここに集まれたってことなのよ」

エバから真相を聞かされた懸衣翁は、快炎鬼が取った行動に納得をした。

「もっとも愛する女性を、魔餓鬼によって地獄に通じる穴に投げ込まれたんだ」

「快炎鬼にしてみれば、現世で魔餓鬼にリベンジできるのであれば、閻魔さんが一つ目の約束を実行してくれたことだけでも、それで充分だったってことなんだろうな?」  

エバは笑顔で言った。

「私は思っているの」

「時が過ぎ去れば、快炎鬼だって閻魔さんが『二つ目の約束』を果たしてくれたってことにいずれは気付き、そして大きく感謝するだろう……ってね?」

何事にも反対をしたがる天邪鬼のアララであったが、エバの言葉に同意した。

「そうよね」

「きっと気付いてくれるわよね?」

アララはニッコリ笑って大きな声で言った。

「そんな話を聞かされると、もう一度、快炎鬼に会いたくなってきたじゃん?」

懸衣翁はアララを一喝した。

「不吉なことを言うもんじゃねぇッ!」

「俺たちが快炎鬼と再会するってことは、氷室丈二って刑事が殉職して、鬼籍きせきに入るってことの同意語だ!」

アララは悪びれた素振りも見せずに不貞腐れた顔で、腰かけていた木からスッと地に降りた。

「悪かったわねぇ。不吉なことを言っちゃって……」

「じゃあ、あたしはこれでおさらばするわ。大勢のおチビちゃんが『賽の河原』で首を長くして、あたしが来るの待っていてくれてるから……」

アララに次いで、リュウも木から降りた。

「俺も裏鬼門に戻り、久し振りに『五欲の縄』を編むことにするぜ」

アララとリュウの二人は懸衣翁に背を向け、サッサとその場から立ち去った。

黙って二人を見送っていた懸衣翁を、横で腰かけていたエバが急かせた。

「部長のあんたも『浄玻璃の鏡の部屋』に早く戻って、セキュリティ強化に努めたらどうよ?」

懸衣翁は木から降りた。

「言われなくてもそうするぜ」

エバは笑いながら、衣領樹館に戻っていく懸衣翁に声をかけた。

「魔餓鬼には気を付けるのよォ~」

「今度カラスにされたら頭だけでなく、『尾も白~い』カラスにして貰うのよォ~」振り返ることもなく、懸衣翁は怒りながら言った。

「ウッセーッ!」

「クソ面白くもねぇ話をするんじゃねぇッ!」

エバも木から降りた。

「……さてと?」

「私は羅獄殿に戻って、赤鬼青鬼を相手にカブか花札でもしましょうかね?」

―――

敷地内進入禁止の「迎え鐘」の両サイドは、背の低い黒塗りの柵が設置されていた。

矢沢の身柄を確保するために柵を飛び越えた丈二は、一発の銃声と共にバタリと前に倒れ込んだ。

本堂の大屋根でなく、近くの樹々に止まっていた野鳥たちが銃声音に驚き、大きく羽をバタつかせて飛び去っていった。

倒れていた丈二がサッと顔を上げた。

目前では、起き上がりかけの矢沢の背中越しに、銃口を矢沢に向けたままで凍り付いている政岡の姿が見えた。

「ヤッベーッ!」

「危うく閻魔さんと再会するとこだ」

素早く立ち上った丈二は、起き上がろうとしている矢沢の背後に近づき、右のこめかみに銃口を突き付けた。

「丸腰とは言わせねー」

「これ以上、抵抗すればどうなるか、判ってるんだろうな?」

慌てて走り寄ってきた政岡が、矢沢の前に立ち塞がり、ピタリと眉間に銃口を突き付けた。

「銃を捨てるか。命を捨てるか。どちらか一つに決めろ!」

上目使いで政岡を見上げ、恨めし気に矢沢は言った。

「……こんな殺し方、あんのかい?」

政岡は力強い口調でハッキリと応えた。

「ありだ!」

「お前はすでに射殺しての逃亡だ。俺を撃てばいい。正当防衛ってのが成立するぜ」矢沢は手にしていた拳銃を、大人しく地に置いた。

政岡が拳銃を拾い上げるのを見届けた丈二は、すっかり観念してしまった矢沢を地に伏せさせて後ろ手にすると、ズボンの後ろポケットから取り出した手錠を矢沢の両手首に次々と掛けていった。

矢沢の片腕と腰を掴んで起き上がらせようとしている丈二の横で、スマホを取り出した政岡は冷静な口調で課長の遠藤に報告をした。

「政岡です」

「現在、逃走中の男の身柄を確保しました。場所は珍皇寺です。緊急配備キンパイの解除は課長から指令室に連絡をお願いします」

容疑者逮捕の報告を受け、興奮気味の課長の声がスマホから漏れた。

『よ、よっしゃ、分った!』

『気ィ付けて、戻ってこい!』

―――

矢沢は後ろ手の手錠から、前の両手首に手錠を掛け替えられていた。

丈二と政岡の二人に両サイドからガッチリと腕を掴まれながら、朱色に塗られた山門に向かって矢沢は参道を連行された。

矢沢は周囲の様子をキョロキョロと見渡しながら、怪訝顔で丈二に聞いた。

「……どないなってんねん? 誰もおれへんがな」

「完全に包囲されてるて、言うたんとちゃうんかい?」

「言った」

「どこやねん? 特殊部隊は……」

政岡が笑いながら言った。

「ここにいるじゃないか」

「な、なんやてぇ?」

「横が『迎え鐘』の壁で、前後には特殊なキャラの俺たち二人がいた。逃げ場のないお前に二人もいれば、それを完全なる包囲って言うんだ」

矢沢は再度、丈二に聞いた。

「どこで知ったんや? 俺の名を……」

「お前に射殺された、組長の緒方さんから教えて貰った」

「何を寝ぼけたことを言うとんねん」

「アホちゃうか? お前は……」

矢沢が魔餓鬼にマインドコントロールされ、カタツムリ状態になったことを思い浮かべた丈二は笑顔で応えた。

「アホと言うよりもバカみたいに闘ったねぇ。あの時の俺たちは……」

矢沢は怒った。

「何をスカタン言うとんねん!」

「もうええわい! お前とはもう話さんわい!」

丈二は笑顔で矢沢をなだめた。

「そう怒るな」

「出所したら詳しいことを説明しながら、エスカルゴ料理をご馳走するから……」

「……何やねん。それ?」

「カタツムリ料理だ」

青筋立てて、矢沢は完全に怒った。

「いらんわい! そんなもん!」

―――

珍皇寺の前の通りを心配げに一人で佇みながら、真央はあでやかな朱色に塗られている山門の方を見つめていた。

「銃声のような音がしたわ?」

「大丈夫なのかしら? 私は何もせずにここで待っていても……」

見知らぬ男が丈二と政岡に両腕をガッチリと掴まれながら、山門を潜り抜け、敷地内の石畳を連行されてくる姿に、真央はホッと安堵の表情を浮かべた。

矢沢を引き連れた丈二が強引気味に真央の方に近づいてきた。

開口一番、丈二は笑顔で嬉しそうに言った。

「キミは知っているか?『邯鄲かんたんの夢』の話を?……」

「はい。一応は……」

「だったら話は早い」

「信じられないだろうけど、俺は『邯鄲の夢』ってのを体験してきたんだ」

突拍子もない丈二の言葉に、真央は戸惑いながら聞いた。

「―――カンタンの夢って」

「中国の故事で有名な『邯鄲の夢』のことですか?」

丈二は楽しそうに応えた。

「そうだ、それだよ!」

「その『邯鄲の夢』ってのを、俺は実体験したんだ!」

気味悪がった矢沢は、政岡に身を擦り寄せ小声で急かせた。

「女を相手に夢の話をしてまっせ。気色悪いですわ」

「早よ、連れてって下さいよ」

矢沢の意見に同意した政岡は、二人の会話を寸断するようにして矢沢を引き戻した。「続きは後だ。行くぞ!」

―――

松原通りの路肩に白いセダンの覆面パトが停まっていた。

現場に急行してきた同僚刑事と政岡は、矢沢を間にして後部座席に乗り込むと、別の同僚刑事が助手席に乗り込んだ。

セダンを回り込むようにして運転席に乗り込んだ丈二は、シートベルトを着用しながら、バックミラーに写る矢沢を見て心の中で呟いた。

『この体験を文字にして貰おうかなぁ。文才のある真央に……』

『小説のジャンルは一滴の血も見ないファンタジー・ロマンだ。タイトルだって浮かんでいる。『我ぞ知る 君は知らずや 快炎鬼』ってのは、どうだ?』

丈二は、運転席の窓から腕を伸ばして赤色回転灯を車の屋根にポンと乗せると、覆面パトはけたたましくサイレンの音を鳴らして、東方面に向かう一方通行の松原通りを颯爽と通り過ぎていった。

―――

珍皇寺の前の小さな通りを西方面に向かって歩いていた真央は、その場にふと立ち止まり、楽し気に話しかけてくれた丈二の笑顔を思い出した。

「簡単に『邯鄲の夢』と言ってるけど、人の世の浮き沈みは激しく、人生のはかなさを例える時によく出てくる話が『邯鄲の夢』なのに……」

「……でも、丈二さんは何だかとても楽しそうで、そして嬉しそうで、何だかウキウキと弾むようにして話しかけてくれたような気がしたわ」

真央の表情は緩やかに綻び、丈二のように楽し気であった。

「早く知りたいわ。どんな『邯鄲の夢』を体験したと言うのかしら?」

真央は少し顔を赤らめた。

「あら、イヤだ」

「さっき別れたばかりなのに、もう会いたくなってきているじゃない」

真央は再び歩き始めた。

「早く聞かせて欲しいな。夢のような体験だった『邯鄲の夢』を……」

空を見上げると、青空に夏の雲と痛いほどの強い日射しがあったのだが、真央の足取りは軽やかだった。

軽くステップを踏みながら、真央はルンルン気分で四条河原町駅へと向かった。

                                    完


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