破棄された婚約は糾える縄の如し(後)
それから三日、エミリーはレレイの研究室に泊まり込んだ。今日も空振りに終わるかと思いながら、二人でチェリーパイを食べていた夕方、それは訪れた。
「レレイ。おいでなすったよ」
エミリーはブラックコーヒーをすすりながら、中央のデスクに向かう。
「準備は済んだ」
レレイはデスクに広がる見取り図……正確にはエミリーの部屋を再現したジオラマだ。その上に、ターゲットに見立てたチェスの駒を置く。壁面のスクリーンには、リアルタイムで映像が映っている。
「『火消し屋』の召喚には300秒必要」
「あら、ずいぶん早いのね。だったら、もう少し眺めましょうよ」
「待機させている。でも、遺憾」
レレイはものすごく不満げに頬を膨らませている。エミリーも最初知った時は驚いたのだから、当然といえば当然かもしれない。何というか、一見ではあまりにも『似ていない』
「やっぱり、最初は一人で来たみたいね」
「撮影はあと数枚で問題ない」
エミリーの部屋に仕掛けた監視カメラの数は六十四台。ドアの前から、部屋の片隅まで、あらゆる角度から侵入者は丸見えだった。
「これだけカメラがあったら、アップルパイのつまみ食いもできないでしょうね」
「当然。証拠を押さえる」
侵入者はそんなこととも露知らず、エミリーの洋服タンスをがさごそと漁っている。上着を羽織って、サングラスをつけると背丈体形が似ているのでエミリーそっくりだった。
「これで確定ね」
犯人は大家の娘であるペリィ。おそらく、マスターキーを使っているのだろう。エミリーの部屋は二階で大家は一階に住んでいる。特に音を立てる生活をしているわけではないが、長期不在時はことさら静かになる。ゆえに、鉢合わせることもなく侵入されていたと言う訳だ。
「外に出るので、追跡する」
レレイはヘッドマウントディスプレイを被る。ドローンを用いて空中から追跡するつもりだった。
「これでケヴィンと帰ってきたら突入準備ね」
「そうなる」
ダニエルが目撃して、エミリーの不貞を疑った全容はこんなところだろうか。
エミリーの不在時を狙って、大家の娘『ペリィ』はマスターキーでエミリー宅へ侵入。衣服を勝手に使った上で、ケヴィンと合流。再びエミリーの部屋へ……。
中で何をしていたのか、だとか、そういうのは、もう想像もしたくない。だからレレイに頼んで泊まらせてもらっていた。どうしても捨てたくない家財以外は捨てて、引っ越すことになるだろう。
もちろん、新しく家財道具を買う必要もあるし、引っ越し費用もかかる。不法侵入されていたことの謝罪や誠意を見せてもらわなければならないし、ダニエルの誤解をといてもらわないといけない。
(やってもらうことが山積みね……)
だからこそ、完璧な証拠と現場を押さえて、一気に片付けるつもりだった。しかし、それはただ償ってもらうだけの話で、『仕返し』ではない。
「帰ってきた」
「よし、じゃあいこうか」
待っていましたとばかり、エミリーもヘッドマウントディスプレイを被る。
「エミリー」
「ん?」
レレイが拳を差し出してくる。微かに目を細めて、気遣いを浮かべている。
まったく、こういうところが可愛い。抱きしめてやりたい衝動と溢れそうになる涙を堪えて、笑いかける。
「大丈夫」
「じゃあ」
「うん。完膚なきまで」
「恨み、晴らすべし」
◇◆◇
「ペリィ、会いたかったよ」
「私もですわ、ケヴィン様……」
僕は、ペティの招きに応じて部屋へと入る。見慣れた彼女の部屋は調度品の趣味も、その配置もとても居心地がいい。この部屋に入ると、僕のことを何度も振ったあの女……なぜか彼女のことを思いだすけれど、それが不快だ。
間接照明で淡く彩られる廊下。灯りに揺られて見える床とは対照的に、リビングと廊下を隔てる扉は、まるで封印されて見えた。薄い緊迫を抱えた僕の腕には、ペリィが絡みついている。何かをねだるような上目。僕がゆっくりとその柔らかい髪を撫でると、ペリィは目を糸のようにして微笑む。愛おしい。
「今日はどうするんだい? ペリィ」
「ふふふ。そうですね。ひとまずお茶でもどうかしら」
僕はペリィがキッチンに向うのを見送りながら、どこか違和感を覚える。じっとりと、何かがちりちりと刺してくるような感覚。まるで、あちこちから睨まれているような。僕はその正体を探ろうと立ち上がった。
ぐるりと部屋を見渡す。カレンダーが目に入った。今日を示す数字。そこに太く、いや、何度も何度も書き殴ったように印がつけられていた。普段の明るいペリィからは想像もできない禍々しさ。赤い絵の具でも使ったのだろうか。滴るような跡が嫌でも眼に残る。
その時僕は、がしゃん、という音を聞いた。キッチンの方から。
「大丈夫? ペリィ」
「うん、大丈夫。 でも、何だろう? 何かが……変なの、ここ」
僕はペリィに近づくと、思わず鼻を押さえた。ペリィもしきりに顔の前を払っている。何かが腐ったような、そんな臭いだ。鼻にツンと刺さる刺激臭。
プラスチックコップが床に転がっていた。さっきの音はこれだろう。僕はそっと腰を落とし、そのコップを掴んだ。べっとりとした感触に、思わずコップを落とす。
何やら、透明な粘液のようなものがコップに詰まっていた。僕は手についた何かを払おうとして気づく。生臭い。どうやら、キッチンに漂う臭いの正体はこれみたいだった。
「ペリィ……このコップは?」
「し、知らない……。何これ……」
僕もペリィも固まっていた。冷蔵庫から、ごおんごおんと低い音が響く。
「と、とりあえず座ろうか」
「そうだね」
続けざま起こった嫌な感じに、僕の肌は粟立っていた。この部屋で、何かが起ころうとしている。いや、起こっているのだろうか。ペリィも同じ感覚を持っているのかもしれない。彼女の白い肌からは、常にも増して血の気がなかった。
「平気かい?」
僕がペリィの肩に手を置いた時、異変が起こった。ちかちかと部屋のライトが瞬く。そして、目の前が、いや、部屋中が、突然闇に包まれた。
「きゃあ!」
「な、なんだ? ブレーカーが落ちたのか?」
僕はペリィを抱き寄せ、壁に手をつく。
『べちゃり』
硬いはず壁からは、何とも言えない感触がした。柔らかいくせに、べとべとするような不快感が、手を伝ってくる。僕は息を飲んで壁から手を離す。粘着質な気持ちの悪い音が耳に障った。
僕は何とか持ち直して、ペリィを探す。こんな暗闇の中で一人にはおけなかった。すぐ近くにいるはずと視線を泳がせて、気が付いた。
「うわぁ!」
壁、廊下、天井に、足跡や手の跡がびっしりとついていた。ぼんやりと紫色に光るその跡は、部屋中を這いまわったかのように、一面に付着していた。
ばぁん、何かが爆ぜる音がした。もう、僕には何が起こっているのかわからなかった。息は上がり、背中が凍り付いていた。名状しがたい恐怖と同時に、僕は誰かがしがみ付いてきたのに気づいた。ペリィだろう。
「ペリィ! 僕から離れないで」
声をかけたその時、僕は気づく。部屋中を覆っている足跡はどこかへ向かっている。玄関からキッチン、そして、天井。壁面を通って……ベッド。そこで、足跡は途切れていた。
どくん、心臓がさらに激しく波打っていく。
(……ベッドに何かが……いる?)
一歩、また一歩とペリィを庇いながら進む。ペリィは泣いているのか、ひっひっと荒い息遣いが聞こえた。彼女を守らないといけない。そのためにも、ベッドを確認しないと。もしかしたら、ペリィの可愛さを妬んだ、誰かの嫌がらせかもしれない。
(ペリィの部屋に嫌がらせなんて……許さないッ!)
不思議な物で、怒りが恐怖を上回っていった。ベッドの前まで来て、ブランケットをめくる。何もない。ほっとして、愛しいペリィの方を振り返る。悪戯だよ、何でもない。そうやって、優しく頭を撫でてあげる。そう思った僕は、固まった。
『ぎゃははははははははははは』
目の前にいて、僕の腰にしがみ付いていたのは、ペリィじゃなかった。
ぼさぼさの髪、赤い目、そして、左右にゆっくり揺れる頭。耳まで裂けたような、真っ赤な口。人間とは思えない女。女が、絶叫の様な笑いを上げていた。
「うわああああ! ペリィ! 大丈夫か? ペリィ!」
後ろから、足首を掴まれる。後ろにはベッドしかない。そして、ブランケットの下にも何もなかった。いま確認した。では、なぜ。僕は恐る恐る足元を見る。
『ナオシテ、ナオシテ。モット、キレイニ』
欠けたように見える歪な手。肉のそげた頬。赤く光ってふらふらと揺れる目。割れた頭蓋。吐き気がした。足元にも女がいる。
急に目の前が白くなり、立っていることもできなくなった僕の意識は、目の前に向かってくる女の囁きを聞きながら、ぷっつりと途切れた。
『ユルシテ、ユルシテ、オネガイ。ケヴィン。ユルシテ……』
◇◆◇
その後のことを話そう。
『助けてくれ』と泣き叫ぶ男女のいる地獄絵図と化した部屋は、主にレレイによって入り口を厳重に施錠された。目を血走らせノリノリで扉に釘を打ち付けるレレイとは対照的に、エミリーは正直やりすぎたと反省している。
(レレイに本気を出させるのは、控えないと……)
もちろん、『仕返しに、ちょっと脅してやりましょう』そんな発案をしたのはエミリーだった。しかし、ここまで大掛かりな物になったのは、レレイが全力で計画を練った結果だと弁明したい。
蛍光ジェルを使うやら、試作アンドロイドをリモートで操作するやら、クリスマス定番の泥棒撃退映画くらいにすればいいのに、気づけば、エイリアンとゾンビがクロスオーバーするような計画になっていた。
(ペリィはすぐ気絶しちゃったし)
ペリィの所業には天罰が下っても仕方ないが、彼女の自白を聞く限り、ケヴィンは完全に巻き込まれたと言ってよかった。まあそれでも、クォーターくらいは有責だろう。
ちなみに、なぜ忍び込んだと言えば、『彼の好みにぴったりの部屋だったから』らしい。仮にも大家の娘なのだから、その辺の意識はキチンとして欲しい。大家にも、後日報告するつもりだ。
「……『事情』はわかったが、これはやりすぎだろレレイ」
ダリエルは眉間にしわを寄せて、やりすぎのレレイへ苦言を呈す。
『事情』つまり、ペリィの悪行はもうダニエルへ伝えている。エミリーの服を着ようとする現場を押さえた写真、勝手に潜入したことの自白音声、その他……。
「脳筋の『火消し屋』が調べないから、私がやった」
「お前な……頭がいいのは凄いことだが、もう少し常識を弁えろよ」
「……『兄貴』に言われたくない」
レレイとダニエルは兄妹だ。肉体派の兄と頭脳派の妹。正反対にも関わらず、エミリーとは妙に気が合う二人。口には出さないが、エミリーは知っている。この兄弟は、やると決めたら全力投球の似た者同士な上に、お互いをライバル視しているのだ。
憎まれ口を叩いているレレイも、兄であるダニエルと親友であるエミリーの関係を、本気で心配してくれていた。だからこそ、やりすぎと思えるくらい、全力を出してくれた。
ダニエルとレレイ。エミリーにとっては二人とも、愛すべき兄妹で、家族だ。
「まあまあ、二人とも。それより、ダニエル。これで疑惑は解けたかしら?」
「あぁ……そうだな。俺の勘違いだったみたいだ。すまない」
言いながら、ダニエルは汗の光る頭へ手をやっている。綺麗なスキンヘッドをかきあげる様な仕草だ。この仕草は、照れ隠しなことを、エミリーはよく知っている。
「じゃ、婚約は?」
「解消は……なしだ!」
ダニエルは笑顔でエミリーを抱きかかえ、くるくると回る。世界は目まぐるしく回転し、中心には愛を叫ぼうとする婚約者がいる。色々あったが、夢のような光景だ。
レレイが半眼でこちらを見ているのが目に入る。
「レレイ!」
「なに?」
「義姉さんの愚痴をこれからも聞くように!」
『アイアイ・マム』
レレイがびしっと敬礼をするのを見て、エミリーは思う。
(どうせ引っ越すんだし、新しい家では三人暮らしじゃ、ダメなのかしら)
ダニエルとレレイの笑顔に挟まれて、エミリーの地味なホワイトのシャツは、まるで純白のドレスの様に輝くのだった。