第223話 副局長アドラス
長いです。かなり頑張った回。
◆副局長アドラス◆
一体どこで、何を間違えたのだろうか。
――いや、きっと、初めからだ。
ヴァリアーに入隊した後、気を緩め過ぎていた。金竜ドールに軽率に気を許してはならなかったのだ。ピーアを奴のそばに置いておくべきではなかった。
その結果が、このザマだ。
かつて焚火を囲み、放浪の魔人ニルドリルと共に抱いた野望を追うことも叶わず。金竜の意のままに、私は働かされた。反旗を翻すことは不可能だった。
あの日の誓いは果たせなくなった。アルフレートにも申し訳が立たない。紅蓮の炎が吸血鬼とアニマの街を埋め尽くす中、私が半ば無理やりヴァリアーに引き入れたというのに。
――腹心の部下を作り、奴の支配に抗おうと考えたこともあった。しかし、頓挫した。
奴の目を掻い潜り続けることは難しい。それだけではない。常に私の指示を受けずとも私の意思を推し量り、自ら行動できる……そのような優秀な人材が、そう簡単に見つかるだろうか。
見つかるはずがない。よしんばそれだけの能力を身に付けている人物がいたとして、何故その人物が私に心酔する。
本代ダクトという少年に、私は夢を見ていた。彼には能力がある。輝かしい才を持ち、そして夢を持っていた。夢を持つ若者は、須らく我も強い。私はすぐに彼が自分に御し切れる人物では無いと悟った。
――彼をヴァリアーに所属させ続ける為には、厳しく縛り付けることは不可能だった。彼の中に本代家への未練が残っていることに気付いてしまってからは、余計に。
ヴァレンティーナという女性にもまた、私は夢を見ていた。途方もない目標を持つ人物だった。自分にはそれが不可能だろうということは理解した上で、それでも考えることをやめなかった。一歩一歩努力を積み重ね、まずはヴァリアーでの地位を確立しようとしていた。それは殆ど成功していた。
――だが、彼女は親しい人物を守るために、5年の歳月を掛けて得たばかりの地位を捨て、共に逃亡することを選んだ。私はそれを眩しく思い、金竜の目を盗んで協力した。
そして、何の打開策も見つからぬまま、今日。
ヴァリアー地下30階にて、私は夢破れようとしている。
背後には高くそびえたつ扉。金竜の竜門がある。
その扉の奥にどんな空間があるのか、私は知らない。私はここを通ることを許されたことがない。
地下30階には他に何もない。ただ、竜門へと続く長い一本道の通路があるだけだ。
遠く、向かいの階段から姿を現した人物。
蛍光灯の光を受けて尚、闇を吸ったように暗い髪と衣服。
だらりと垂らされた右手には何も握っていない。
左腕は……根元から黒い? 生身の腕は失っているのか。代わりに緋翼を操作して、腕を生成している……?
炎竜ルノード。距離が近づけば、その顔がレンドウに瓜二つであることが分かる。
それが分かるだけの距離で、なぜ今だに攻撃を仕掛けて来ない……?
奴が龍であるのなら、失った左腕など簡単に生やせるのではないのか。何故治療しない。いや、既に血が流れていないということは、治療自体は済んでいるのか。腕を生やさない理由はなんだ。
左斜め後方にはピーアがいる。いや、ピーアの身体を動かす、奴が。
ピーアを護ることが私の役目だ。役目だった。今までずっと。それはピーアを動かしているのが奴だからではない。
私が、私の意思で。両親に誓ったからだ。彼女を護ると。守り続けると。
一歩前に足を踏み出す。炎竜が今だに私に攻撃を仕掛けて来ない理由があるのだとすれば。万に一つでも、話し合いが可能な相手であるとするならば。
賭けてみる価値は――、
「――何を悠長にしている? まさか、炎竜と話し合いでもしようと考えているのではあるまいな? だとすれば……その芽は摘ませてもらおうか」
後ろでピーアの身体を動かすドールが、ピーアの口で言葉を紡いだ。
空間が裂けるような音と共に、私の横を何かが掠めた。十中八九、金竜の操る“創造する力”……黄翼によるものだろう。
――この……クズ龍がッ!!
私の行動を縛るために、先手を取って炎竜に攻撃を仕掛けたのだ。炎竜を激昂させるために。私が戦いを選ぶしかなくなるように。
「この身体を守りたければ、君の人生で培った全てを燃やせ! あの傷ついた炎竜であれば、君の頭脳で突破口が開けるかもしれんぞ」
いけしゃあしゃあと、心にもないことを。お前はそんな可能性を欠片ほども考慮していない!
私が炎竜を止められる訳が無い。竜門の奥で、今も最後の戦いのための準備をしているお前が、よくもそんなことを。
私とピーアを捨て石にして、少しでもルノードを消耗させ、自分が勝利することだけを考えているのだろう。その薄汚い思考から生み出された、私を煽るような口調を、その声で吐き出すな。
「さぁ、炎竜ルノード! 我が最大の配下の力をとくと見るがいい!!」
だめ押しに炎竜をけしかけるような言葉を吐きつつ、黄翼による弾丸を飛ばし続けるドール。
だが、その射撃が炎竜にダメージを与えられているとは思えない。
通路を埋めるように、漆黒の闇が広がっていた。炎竜の操る緋翼だろう。
炎竜……そしてその眷属であるアニマが操る緋翼には、複数の形態がある。
一つ、大きな質量を持ち、敵を拘束したり、攻撃を受け止めることに秀でた黒い形態。
二つ、大きな熱量を持ち、あらゆるものを焼き切り飲み込む、紅蓮の炎としての形態。
赤き炎で全てを焼き尽くすこともまた、防御足り得る。しかし多くのアニマがそれを選ばないということは、恐らくは炎形態の方が大きく力を消耗するのだ。
今、ドールが放ち続けている黄翼を容易く防いでいるようにも見える炎竜だが……即座に赤い緋翼で攻勢に出てこないということは、既に大部分の力を消費した後だということは確かなのか。
弾かれた黄翼は、空気に溶けるように消え、炎竜に取り込まれるようなことにはならなかった。ドールのことだ、当然対策を考えていたのだろうが……。
床に転がり、少しずつ堆積していくそれは……黄金色をした結晶……?
人間の頭部ほどもある結晶を撃ちだしているのか。ものの30秒ほどで黄翼のストックが切れたのか、ピーアの身体が荒い息をつく。
効いているようにも見えない攻撃を、考え無しに撃ち尽くしたのか……? いや、そんなはずは。金竜にも何か考えがあるはずでは。
いや、しかし、考えている暇はない。
「――金竜ドール。己は、今からお前を殺す」
通路を埋め尽くす闇の内より聴こえた声。
万感の込められた声、そう表現すればいいのだろうか。
激しい怒りに我を忘れた様子ではなかった。様々な感情が入り乱れた中で。
ただ、自分は今からお前を殺めると。自分がそう思い至ったということは、それは確実に現実となるのだと宣告した。
腰を落とし、左手で居合刀の鞘を持ち、右手で柄をぎゅっと握りしめる。
刃の長さを相手に見せないことに、何の意味があるのだろう。そう思いつつも、身体は染みついた動作を捨てようとしなかった。
これは人や獣を相手にするための技術だ。龍を狩るための剣ではない。そんな剣は存在しない。
……そうして居合の構えに入った私は、一切その先の戦闘に対応することができないまま終わる。
闇が裂ける。その内から、炎竜ルノードの人間体が飛び出して来る。
刀を抜こうと思った時には――既に柄頭を抑えられていた? 違う、直接手で抑えつけられた訳ではない。
私の腕と足に、黒い緋翼が巻き付いているのか。全く動くことができない。まだ、炎竜との間には距離が――ない。一瞬前まではあったはずなのに。
距離を詰められた。刀が抜けない。手が、足が動かない。拘束。だが、今の私には金竜から与えられた黄翼がある。
今までずっと捨て続けてきた、私の“創造する力”。私に流れるオーロスの血を証明する、龍に連なるものの才能。
「ふうっ!!」
気合いと共に、全身から黄翼の放出を試みる。それが手足を蝕んでいた緋翼をわずかに撥ね退けた、と思った時には既に、私の身体に直接炎竜の振るう漆黒の左腕が迫っていた。
それは、一瞬にして巨大化していた。レイスが報告してくれたことがある。レンドウが“無慈悲なる熊の爪”と名付けた技があると。
それが頭をよぎった時には、私の身体は壁に叩きつけられていた。
「がはっ……もっ……!?」
――だが、おかしい。壁に叩きつけられたにしては、衝撃が小さい。骨も折れていない。
私の両手足と胴体を包むように黒い緋翼が広がり、壁に押し付けるように拘束している。背中側まで包まなければ、私は大きなダメージを受けていたはずなのに。
視界は確保できているが、口だけを狙いすましたように緋翼が纏わりつき、声を出すことを許さない。
――どういうことだ。まるで、捕虜にでもするかのような……。
金竜が私の身を案じることなど、あるはずがないというのに。私に人質としての価値があると考えたのか、この炎竜が?
「……? ふっ――後ろだ、炎竜!」
金竜も私の命があることに驚いた様子だったが、すぐに切り替えた。
人間の限界を超えた速度でピーアの身体を無理やりに動かし、バックステップ。竜門に背中をつけるようにしながら、炎竜の背後を指差した。
本当に不意打ちをするつもりがあるなら、わざわざ敵に背後の脅威を伝えないはずだ。何かを企んでいる。
先ほど放った黄翼の結晶。ルノードの背後、通路に堆積したそれらが弾け、また凝縮され、巨大な異形へと変貌していた。
金鎧兵か……!
しかし、ルノードは背後で屹立した金鎧兵を振り返りすらしなかった。一瞬でピーアに接近し、左のベアクロウを振り上げていた。
「――――――――ッ!!」
ピーアが殺されてしまう! ピーアの身体が! ピーア……!!
声にならない叫びを上げ、もがくも、身体を拘束する緋翼はびくともしない。
「――――――――ァ!!」
無力感に激情を覚え、私は声にならない叫びを上げ続けた。
結論から言えば、その一撃ではピーアは絶命しなかった。だが、危機が去った訳ではない。
早鐘のように打ち続ける心臓を苛め抜くように、状況は動き続ける。
膝を曲げ、ぐにゃりと身体を屈折させるようにベアクロウを潜り抜けたピーア。
それを予想していたように伸びるルノードの右手。何も手にしていないそれだが、触れればただでは済まないだろうと確信できる。
ピーアは後ろ手に竜門に触れさせていた左手を引き戻すように前へと突き出した。それが、嘘のようにルノードの右手を弾いた。
はじけ飛ぶ、赤と金の飛沫。ルノードはピーアを直接焼き殺すつもりだったのだろう。それを、ドールは黄翼で相殺した。
ピーアの身体にあった黄翼は、さきほど撃ち尽くしたはず。竜門に触れていたのは、新たな力を体内に取り込むためだったのか。
なら、竜門に触れていれば、ドールにも勝ち目が……?
右横に飛び退り、次なる攻撃を前もって回避したピーア。ルノードから視線を逸らさぬまま、すぐに竜門へ左手を当てたことを鑑みるに、やはり竜門からは力を吸い出せると見て間違いない。
ルノードはそれを妨害しようとし……一旦、中断を余儀なくされた。背後より迫っていた金鎧兵のせいだ。
下半身はまるで液体……古の時代に生まれ、現代では薄暗いダンジョンの中にのみ残るという、スライムというモンスターのようだ。
相手の攻撃を通り抜けさせたり、衝撃を受け止めないことでダメージを抑える性質を備えているように見える。
対して上半身は、通常の金鎧兵と同じように硬質だ。ぎらりと輝くブレードのような両腕を振り回し、黄金の巨体がルノードに覆いかぶさる。
金鎧兵が両腕を交差させるように振り下ろすと、しかし、既にそこにルノードの姿は無かった。
――金鎧兵の体内に……侵入……している……!?
そのような印象を抱いたのは、一瞬だった。
金鎧兵の黄金色で、かつ半透明な下半身の中にルノードの姿を認めたと思った次の瞬間には、半透明のスライム体が弾け飛び、ありのままのルノードだけがその空間を埋めていた。
「側近である憑依体を使っても、この程度か」
淡々とした声と共に、ルノードが軽く持ち上げた右手の先が、赤に染まる。
下半身を失って崩れ落ちるところだった金鎧兵の全てが、じゅっという音と共に掻き消えた。熱が頬を撫でると、刺すような臭いが鼻についた。
跡形もなくなった金鎧兵。欠片も結晶を残せなかったあの様子では、再び同じ場所に金鎧兵が復活することはないだろう。
それを形作っていた“創造する力”も、今度こそルノードに取り込まれたはずだ。
「……なぜだッ……金鎧兵の設計を知らない貴様が、そう簡単に分解し、取り込めるはずが……!?」
信じられないものを見たように、ピーアの口が驚愕の呟きを漏らす。
「疑問を口に出すことに意味はない。敵はお前に答えを与えないのだから」
にべもなくぴしゃりと言い放つと、ルノードは転身、ピーアに肉薄した。
――ピーアッ!!
「――――――――ッッッ!!」
声にならない叫びと共に、あり得ないことを期待するように……呪い殺すような視線をルノードに向けることしかできなかった。
だが、不思議なことに……ピーアに向かうルノードと、目が合ったような気がした。わからない。勘違いなのかもしれない。余りにも一瞬すぎた。
普通に考えれば、奴の力に拘束され、既に何もできなくなっている私を、気に掛ける意味がないはずだ……。
ルノードが伸ばしたベアクロウ。それを躱すために再度大きく飛び退ったピーア。しかし、ルノードの狙いはピーアの身体では無かった。
竜門だ。ルノードのベアクロウが竜門に叩きつけられると、瞬く間にそれが扉の表面を這い、広がり、覆い尽くしていく!
「……まさか、貴様…………!?」
ピーアの口が驚愕の音を紡ぐ。恐らく、私などには理解できないほど、常識はずれなことをルノードはやってのけているのだろう。
金竜の竜門。先程から金竜がピーアの手を当てることで力を引き出し続けていたそれが、とてつもない量の黄翼の源泉であることは疑い様がない。
なのに、部外者である炎竜が、あろうことかそれを打ち消し、上書きしている……そういうことなのか。
「ガアアアアアアアアッッッ!!」
咆哮したルノードの髪が真っ赤に染まり、光を放つ。温存していた力を吐き出した。そんな風にも見えた。
「まさか、私の力が……外界に出せない……出せなくしたのか。一体なんなんだ、その技術は。千年竜のみが知り得る秘儀という訳か? はは、ふははは……」
怒りの中に呆れの色を滲ませながら、ピーアはふらふらと竜門を離れて歩き出した。少しずつ、こちらに近づいてきている。
あれ以上竜門に触れていても、意味が無いのだろう。むしろ、漆黒に染め上げられた今の竜門に触れることは、金竜にとって毒なのかもしれない。
ピーアの口を動かすドールは、既に平静を失っている。何を考えている。私に近づいているのは……私を安全地帯にでもしようと考えているのか。
浅はかな。何を思ってルノードが私を殺さずにいたのかは不明だが、攻撃に私を巻き込むことを嫌ってドールへの攻撃を躊躇するとはとても思えない……。
しかし、どこまでも生き汚い金竜ドールのことだ。全ての可能性を模索して、本体が生き残る確率を少しでも上げようとしている。そういうことなのか。
だが、緋翼が私を拘束した時と同じように。
何もない空気中に突如として緋翼が生成されたようにしか見えなかった。
ドールが操るピーアは四肢を四方から伸びる緋翼に拘束され、僅かに足が地を離れる。宙吊りにされた形だ。
離れた場所にも“創造する力”を生成できるというのは、実際に見てみれば解る、反則とも言える強さだった。
龍であるルノードに限らず、高位のアニマは似たような芸当を可能とするという。
……一体、炎竜とそれが率いるアニマとは、どれだけの戦闘種族なのだろう。
こんなものを真っ向から相手にして、人類が勝てるとは到底思えない……。
いや、だからこそ。
実際に、人類は表立ってはアニマと戦おうとしてこなかった。
相互不可侵の密約を結び、その裏で密かにアニマを下す方法を研究していた。
魔人をも打ち砕くだけの力を秘める、ザツギシュという兵器を作り出したエクリプスも。
地竜ガイアの力を人間のものとしようと画策しているサンスタードも。
……それらの国は必ずしもアニマを仮想敵としている訳では無かっただろう。だが、魔人を制して人類の発展を望んでいるという点では変わりない。
そして、人間に恭順する姿勢を見せた魔人を取り込み、戦力としようとした我らがヴァリアー……それを有するアラロマフ・ドール。
それらの国を知り、怒りを覚えたからこそ、炎竜ルノードは今日ここにいる。
全てを焼き尽くす為に。
人間という種族とアニマという種族による、生存競争。
今、それが決しようとしている。
――――だが、そんなことはもう、どうでもいい。
すぐに、全てがどうでもよくなる。
「……ふ、ふははっ。この身体が負けようとも、まだ私は終わりではない。その傷ついた身体で、竜門の中で私に勝てると思うのなら、入ってくるがいい……」
そんな負け惜しみのような言葉を吐いたかと思えば、ピーアの瞳から黄金の輝きが失われ、虹彩が瑠璃色を取り戻した。そのまま首ががくりと垂れ下がる。意識を失ったのか。
金竜が……むざむざ死の苦痛を味わう理由も無いからと、ピーアの身体から意識を撤退させたのか。
ずっと望んでいた状況だったはずだ。ようやく金竜の支配が無くなったピーアに。本心で話しかけることができる。
そのはずなのに。彼女に意識はなく、そして炎竜ルノードが……これから彼女を殺す。
殺めてしまう。
消える。私が生きる意味が。
「――――――――っ」
叫ぶ気力すらも枯れ果て、ゆっくりと……気絶したピーアに歩み寄っていくルノードを見ていた。
炎竜がピーアを見逃す理由が無い。一度憑依体に選ばれた彼女が、もう一度憑依されない保証はない。
あの生き汚い金竜のことだ、憑依体が一人でも生き残っていれば、もしかすると本体が殺されても、そこから復活することすらできるのかもしれない。
だからこそ、予めルノードはエイリア中に散らばった憑依体を潰して回ることを余儀なくされていたのだろう。ドールによる分かりやすい時間稼ぎにも、付き合わざると得なかった。
同時に緋翼の残量も大きく消耗させられたルノードは、果たしてこの竜門を超えた先で、金竜ドールの本体に勝つことができるのか。
――ああ、心底どうでもいい。どうでもいいな……。
最愛の妹を失ったあとの生に、意味など無い。私もすぐに後を追おう。
何のために生まれたのだろう。私とピーアは。何のために。
祖国に捨てられ、新たに居場所としたはずのこの国には、命尽きるまで利用され尽くして。
くやしい。
くやしいな……。
せめて、妹の最期からは目を逸らさずにいたかった。
なんとなく、先ほど視線を交わしたこともあり、炎竜ルノードが血も涙もない人物でないことは察しがついていた。
――恐らく、無駄に苦しませるような殺し方はしないはずだ。
妹は今、意識を失っている。
それを取り戻す前に、一思いにやってほしい。
苦痛なく、この世を去れるように……。
だが、しかし。
「終わったぞ」
炎竜がぽつりと呟いたのは、そんな時だった。
全てを諦めていた私は、その意味を理解することができなかった。
「――お前の言う通りに、己はした。この身体にドールの支配はない。……今はな。竜門は己が完全に封殺している。奴もここで何が起きているのか知ることはできないだろう」
その言葉は……まるで、少し距離が空いた場所にいる何者かに、掛けているみたいじゃないか……。
「…………?」
項垂れたピーアの前まで歩き、その顔を覗き込んでいたルノード。彼がいつまでもピーアを手に掛けるそぶりがなかったため、いつしか私の視線は、地下30階の入り口の方へと向けられていた……。
そこに、いたのは……。
「……っ……がっ! だ……ダクト、君……!?」
突然、身体を拘束していた緋翼が弾けるように消え、地面に顔面から倒れ込むところだった。寸前で腕を挟み、なんとか身体を支える。
倒れる前に視界に映っていたのは、隠密性の欠片もない金髪を晒した少年。
確かに……本代ダクトその人だった。
「ようっ、アドラス。状況が分からなくて混乱してんな? そりゃまぁ、さすがのあんたでもそうなるか……くくっ」
そして、その傍らには、もう一人の人物の姿もあった。
ダクトと同年代に見える少年。青みがかった灰色の髪。額からは小さく、氷のような一対の角が生えている。間違いなく魔人だ。
その肌は蛍光灯の光を受け、一部が奇妙な光の反射をしている。何かが皮膚を薄く覆っているのか。どうやら角度によって見えなくなるらしい……。
いや、上手く働かない頭でも分かるほどには、その外見は特徴的だった。
レイスの報告で知っている。
「氷竜の民……でしょうか、あなたは…………」
「……はい。おれは、ナージアって言います」
確認の意味を持って問いかけると、少年は少したどたどしい言葉で応じた。だが、その瞳は言葉とは裏腹に、強い意志をたたえて輝いている。
「――さっさとしろ。金竜の竜門を封印している今だって、己は力を消耗しているんだぞ」
一体何が起こっているのか。解らない。解らないが、何故か炎竜はダクトとナージア少年を攻撃する様子を見せない。
そればかりか、平然とした様子で会話を続けている……!
「あぁ、そうだな。わざわざ時間を引き延ばすような真似、あんたに対して不誠実だ。……ナージア、思いっきりやってやれ。全部お前に掛かってる。でも、お前ならできる。そう思うぜ」
ダクトに背中を押され前に出たナージア。宙吊りになり、意識を失っているピーアの前で立ち止まると、ゆっくりと両手を挙げ、ピーアの頭部を包むように抱えた。
「起きて……起きてくれ、ピーアさん……。おれの名前はナージア。きみを……助けるために来たんだ……」
何を……?
だが、他ならぬダクトが噛んでいる行いだ。信じてもいいのか。いいはずだ。
「安心して見てろ、アドラス。きっとピーアは助かる。お前らは本当の意味で自由になれる」
「自由に…………?」
呆けたように呟くと、少し離れた位置で竜門に背中を預けるように立っていたルノードが、「ふんっ」と鼻を鳴らした。
「全てそこの本代ダクトの計画だ。己が副局長アドラスと、その大切な存在であるらしいピーアという最後の憑依体を殺さずに済む。そんな方法が、一つだけあると……」
なに……?
「――そこにいるナージアは、ついさっき氷竜アイルバトスから龍の位を引き継いだばかりの、新しい氷の龍なんだ。まだ“創造する力”の量は心もとねぇし、全ての力を意のままに振るえる訳じゃねぇ。だけど、こればっかりは気合でやってもらわなきゃなんねぇって話だ」
「これ……とは……?」
「憑依体を作るってことさ。知ってるか? 憑依ってのは上書きできるんだ。この場合はピーアの同意が必要だから、今ああやって話しかけて、意識の覚醒を促してる訳だが……」
「まさか……」
「そうだ。ナージアが憑依を上書きすれば、もうピーアは金竜ドールに憑依されることは無くなる。こいつが底なしのバカ女で、もっかい金竜ドールの憑依を受け入れちまわない限りはな」
そんな方法が……まさか。信じてもいいのか。
信じてしまうぞ。本代ダクト。
「私の妹が……そこまで愚鈍であるはずがないでしょう」
ピーアが金竜の憑依を受けたのは、当時の彼女がまだ若く、相手を疑うことを知らなかったためだ。
「怒んなよ。いや、別にいいか。お前はもうちょっと感情を表に出してもいいと思ってたしな。てか……あぁ、そういうことか……お前ら、兄妹だったのか……道理で……は~……」
得心がいったという風に、後ろ頭をガリガリと搔きながらダクトは頷いた。
……いや、しかし……そんな方法があるとしても、だ。
――炎竜ルノードがそれに乗る意味が分からない。
何故? 私とも、ピーアとも面識がないはずなのに。
両者共に、一息に焼き殺せる程度の存在でしかない筈なのに。わざわざ要らぬ苦労を背負ってまで、何万人もの人間を殺してきた龍が今更。
取るに足りない人間二人を。
「見逃そうとする理由は…………?」
「あん?」
どちらかと言えば炎竜に対しての質問となるが、私の呟きに反応したのはダクトだった。
ナージアはピーアに対して集中し、ルノードは少し離れた竜門を抑え続けているため、すぐ近くにいるダクトが私の言葉に答えるのはある意味では必然か。そもそも、炎竜が私と気軽に会話したがるとも思えない……。
が、炎竜の耳であれば、恐らく軽く呟いただけの私の言葉までも逃していないのだろうとも思う。
「炎竜が……わざわざ苦労してまで、私とピーアを生かそうとする理由は……何なのでしょう」
「そりゃあ……俺が提案したからさ」
「提案……」
敵対関係にある人間の言葉を、“焦土の魔王”が受け入れただと。にわかには信じがたい。だが、本代ダクトの言葉を疑うということは、酷く不誠実なことに思えた。
「そうさ、ルノードは上で、」ダクトは天井を指差した。「俺達のことも見逃す姿勢を見せたんだ。それを見て、ピンと来てな。言ってやったんだよ」
そう得意げに語るダクトに対し、その内容が聴こえているはずのルノードは素知らぬ顔で腕を組んで瞑目していた。恥じることなど、何もないという風に。
「お前、人を殺すことに疲れてきてるんじゃねぇか……ってな。特に、ルノードが情を感じる相手……アルフレートとレンドウに嫌われたくねぇから、そいつらが懇意にしてる連中は極力殺したくないだろうって」
そうして、地下で待ち構えているであろう副局長アドラスとピーアを殺さずに済むプランを立案し、それに同意させた。
ダクトはそれを流れるように語り終えた。
なんという……荒唐無稽な、話だろうか。
何万人もの人間を殺してきた龍の内に迷いを見つけ、人間に対するように交渉してのけたというのか。
本代ダクト。なんという男だ。
……本当の意味で魔人に向き合うとは、こういうことなのだろうか。
大罪を犯し続けている魔王の中にも、人としての情が残っているという可能性を……捨て去れずに考え続けられる人間が、この世にどれだけいるだろうか。
私には、気づけなかっただろう。長く鳥籠に捕らわれ、鈍った今の私では、確実に。
だけど、それでも。
――アルフレート。本代ダクト。レンドウ。
君たちをヴァリアーに引き入れたことだけは、間違いではなかった。これだけは分かる。
少なくともそれらだけは、半生を金竜に隷属させられてきた私にできる中で、最善の行動だったのだと。
今、はっきりとそう思えた。
「……………………ありがとう…………ダクト君…………」
溢れ出す涙を止める方法を、私は知らない。今までずっと、この身体は感情によって涙が流れるという機能を、捨て去っていたようだったから。
やがて、最愛の妹が目を覚ます。炎竜は不機嫌そうな顔で、しかしあれ以来は文句を言わず、黙々と金竜の竜門を背中で封印し続けてくれていた。
妹が金竜の支配より解放され、氷竜の憑依体となったことを本人の口から確認すると、私は喜びのあまり崩れ落ち、そして同時に新たな誓いを立てていた。
――かつてのニルドリルとの約束を果たすことはもうできない。彼は亡くなってしまったのだから。ロウバーネもまた、最早同じ夢は追っていないのだろうから。
だから、それは脇に置こう。いつか再び手が届きそうだと思える時が来れば、その時に考えればいい。
今はただ、この無限にも思える恩を返す為に生きよう。
私の下につき、ヴァリアーを支えてくれた皆のために。
我が最愛の妹を生き永らえさせてくれた、親愛なる友たちのために。
――私はこれから、君たちのために生きよう。
……よかったね、副局長アドラス。
10年前に書いていたグロニクルの初版では、序盤に志半ばで死亡するはずでした。
沢山の秘密を抱えているキャラなため、今まであまり内面を描けていませんでしたね。アルフレート、ダクト、ヴァレンティーナ、ニルドリル、ロウバーネなど、沢山のキャラと関わりがあるため、本編終了後の番外編にて少しでも回収できればと思います。回収できなかった部分は続編に持ち越します。……いや、そんなキャラを死亡退場させようとしてたってマジ?