第221話 ナージア
◆ナージア◆
本代ダクトには、一切の油断が存在しなかったらしい。
アミカゼが操っていた剣槍の全てが地に落ちても、いや、地に落ちたからこそ。彼はすぐさまそれに気づいた。
「ナージアッ!! アミカゼはまだ意識を失ってねぇッ!!」
――そうか。剣槍が消えていないってことは。
ラ・アニマの時もそうだったという。アミカゼは気絶させられたフリをして、反撃の機会を窺っていたのだと。
腹部からの出血を抑えるため、不得意ながらも左手は治療に当てていた。右手の氷剣を前方で横に構えると、丁度衝撃が襲い来るところだった。
「ぐうっ!?」
弾き飛ばされながらも前方を注視する。アミカゼ。
気絶したフリをしていたのか……いや、本当に一瞬は気絶していたのか。わからない。関係ない。今はそんなこと。
アミカゼは眼球と髪以外の全身を黒く染めていた。“先行する治癒”と呼ばれる技術か。だが、その技は部分的に使った場合であっても、膨大な量の力を消費するはず。
全身を覆うなど、捨て身の特攻をかけるつもりか、それとも。
アミカゼの後ろで、唐突にダクトの全身が露わになった。それは、同時におれの外見からも幻術が解けたことを意味しているに違いない。ロッテという名の少女が掛けてくれた、幻惑の魔法が切れたんだ。
爛々と輝くアニマの目が、直接おれを見据えている。その事実を認識すると、おれの心は一歩引いてしまった。
情けない。龍なのに。長から龍の座を引き継いだのに、おれは。
アミカゼの右足が地面を深く蹴り込み、おれに目掛けて、
――来なかった。
屈折した。アミカゼの身体は唐突に軌道を左へと逸らす。逸らしたかと思えば、一直線に登り階段へと向かっている……。
「なっ…………え…………?」
「――逃げるつもりだッ!! ナージアッ!!」
ダクトが叫ぶ。彼は既に追いついていた。いや、殆ど追い越しかけている。身体能力でアミカゼに勝っている訳じゃない。
アミカゼが左へと方向転換するより前に、既にそちらに向けて走り出していた。この状況まで可能性の一つとして考えて。
地下2階への階段を塞ぐように立ちはだかり、氷を纏わせた黒銀のナイフを振るうダクト。
その場に立ち止まったまま武器を振るうことはできない。そうしてしまえば、たとえアミカゼにダメージを与えることができたとしても、同時に致命傷をもらってしまうだろうから。
だからこそダクトは、アミカゼの横を通り抜けるよう、その身と刃を滑らせた。
それは間違いなく、アミカゼにダメージを与えていた。“先行する治癒”により、アミカゼが受けるダメージは緋翼のストックが代わりに引き受ける。本来なら。
しかし、黒銀のナイフを包んだ氷翼はそれを貫通し、本体へとダメージを与えることに成功していた。
――勝てる。
勝てるはずなんだ。負けはない。やはり氷翼は緋翼に強い。それでも、足りなかった。
脇腹を刃が通り抜けた衝撃により上方へと飛び跳ねたアミカゼの身体は、一回転し、地面へと叩きつけられた。……否、四つ足の獣のような格好で、漆黒の影となって地面を走る。
どこまでも生き汚く、しかしそれ故に合理的だったのかもしれない。剣術は、あれほどまでに姿勢の低い獣を狩るために生み出されたものではないから……。
――端から戦うつもりがない。逃げることに専念した翼の力を持つ者は、一体どうすれば止められる?
「チッ!」
即座に身体に掛かっていた勢いを殺し、振り返ろうとするダクト。
その横を通り抜け、おれはアミカゼに追い縋っていた。
右手の氷剣を投擲する。それは幸か不幸か、アミカゼの右腕に突き刺さった。
四足歩行の形が阻害され、速度の落ちた対敵。おれは即座に左手に氷翼を纏わせ、振り下ろした。
「がァァァァ――――ッ!!」
衝撃。爆発したように水蒸気が散っている。
……高音の緋翼で、低温の氷翼を防がれたせい……?
形を失い、飛び散る“創造する力”。おれが疲労に膝をつくと、脇を通り抜けたダクトが水蒸気の中へと斬り込んだ。
剣戟の音が響いたかと思うと、水蒸気が晴れる。
おかしい。氷翼を纏ったダクトの黒銀のナイフはともかく、アミカゼが操る緋翼の剣槍は、金属同士がぶつかり合ったような音を立てるはずがない……。
「うっ……」
ダクトが呻いた。
そこにいたのは……アミカゼを模した、偽物……だったのか。
全身を緋翼によって造られた、人型の影。アミカゼによって遠隔操作されたそれの内部には、刀剣が何本も混じっていた。この階で力尽きたヴァリアー隊員の武器か。
ダクトはそれに思い切りナイフを当ててしまったのだ。人型の緋翼が砕け、5本以上の刀剣が音を立てて床に転がる。ダクトはナイフを取り落としたりしなかったが、右腕に激痛が走っていることは想像に難くない。ヒビが入っているかもしれない。
そして、本物のアミカゼは。既に階段の入り口に足を掛けていた。寸前でこちらを振り返り、口元に笑みを浮かべたのか。
その右腕にはおれが投げた氷剣が突き刺さったままだ。水蒸気による爆発が起きるまでは、確かにアミカゼは本物だった。あの一瞬で入れ替わったのか。
四足歩行が出来なくなったため、再び二足歩行になったのか……いや、もしかすると。
その左腕にモノを抱えるために、二足歩行に戻ったのかもしれなかった。
「あ……」
階段を上り、アミカゼの姿が上階へと消えるのを呆然と眺めながら。おれは今目にしたものの意味を考えていた。
人間の足を……千切れた膝から下を抱えていた……のか? そうにしか見えなかった。だが、なんのために。
わからない。ただ一つ分かることは。
――絶対に逃がしてはならない脅威を、この世界に解き放ってしまった。
「…………うッ……うああああああああッ……」
項垂れて、力なく床を叩く。
「おれの……おれが……竜体に変化していれば……ッ!!」
おれが竜体になっていれば。距離なんて物ともせず、階段目掛けて破壊光線を吐き、あいつを消し去ることが出来たかもしれないのに!
「…………いや、お前のせいじゃねぇ。元はと言えば俺が言ったことだ。ロッテの魔法で黒く染められた人型の二人で攻め入ることで、相手を混乱させられるだろうってな。お前に人間体でいるように言ったのは、この俺だ」
俺の右肩に置かれる手。それはダクトの左手だった。
「だから、お前のせいじゃねぇよ。誰にも分かんなかったんだ。この地下がどういう状況にあったかなんて」
全部俺の責任だ。そう零したダクトの声から、驚くほどの速さで悲観さが薄れていく。
「――ま、切り替えて行こうぜ。アミカゼを逃がしちまったことで、確かに後の世の中に不幸が待ち受けてるのかもしれねぇ。だけどよ、そもそも今日を乗り切らなけりゃ、不幸な後の世すらなくなっちまうんだぜ? 今はルノードをどうにかするってことだけに集中しねぇと……」
言っていることは分かる。ダクトの言うことは今回も正しい。今は絶望に打ちひしがれている場合じゃない。
だけど、急に切り替えられるほどこちとら達観できていないんだ……。
愚痴を零したい気持ちを抑えつつ、身体を起こして振り返る。
「……そうだ。仲間たちの治療を……しないと」
もたもたと気落ちしている間に仲間の命が失われてしまったとあれば、更に自分を責めたくなってしまうだろう。そんな負の連鎖だけは起こしちゃいけない。行動……しなければ。
「あの白い繭が誰だか分かるか?」
「レイネ姉さんだ……と、思う」
ダクトの問いに答えつつ、共に白い繭の方へと向かう。すると繭の裏側から、気怠そうなクラウディオが自ら這い出てきた。
「クラウディオ、大丈夫か?」
「俺は……体力と黒翼を消耗しただけだ、命に別状はない。それより……サイバが死にかけていた。あいつは……どうなったんだ」
力なく伸ばした腕が、ある方向を指し示す。
クラウディオに身体の調子を尋ねたダクトだったが、その返答に目を見開く。
「……確かに妙な位置に倒れてやがるなとは思ってたけどよ。あの……サイバ? ってアニマ、いつの間にか味方になってたのか」
「あぁ、そうだ……」
クラウディオの肯定を待つより早く、既にダクトはサイバというアニマに歩み寄っていた。全身が穴だらけとなり、とても生きているとは思えないような有様だが……。
「……驚いたな。この状況でも、首と心臓さえ無事なら、生きていられんのか」
「いや、それでも長く持つはずがない……。早く、治療を……」
焦ったクラウディオの声を受け、白い繭へと氷翼を注ごうとしていたおれも振り返る。
少なくとも、この白い繭の内部にいるはずのレイネ姉さんは無事なはずだ。無事だからこそ、こうして自己再生に特化した形態になっている……。
なら、アニマではあっても、新たな仲間だという死に掛けのサイバとやらを優先するべきか。
「……でも、おれ達氷竜は元々傷の治癒が得意では無いんです。他人への治療となれば、余計に……。あまり期待はしないでください」
「そういうことなら……ナージアは治療を意識するよりも、サイバの周りにとにかく氷翼を撒いて、それを手放す方がいいかもしれん。そうすれば、サイバがそれを取り込んで、自己修復するかもしれない……」
……なるほど、確かに。
言わんとしていることは分かる。そもそも、死に掛けのサイバが生きながらえているのがその身に宿した緋翼のおかげだというなら、緋翼の働きを阻害する効果を持つ氷翼で包んでしまえば、むしろ結果的に殺してしまいかねない。
なら、おれが氷翼を捨てることで誰のものでもない“創造する力”とし、それをサイバ自身が自然に吸収する形にした方が良さそうだ。
意識の無い状態で余すところなく取り込むことができるものなのかは疑問が残るが、回復効率としてとんでもなく燃費が悪そうではある。
それでもおれ自身、氷翼の多くを無駄に消費することになるとしても、サイバというアニマを見捨てたいとは思わなかった。
――生きてくれ。生き残ってくれ。一人でも多く。
そう念じながらサイバの傍らに立ち、空間を埋めるように、伸ばした両手から氷翼を噴出させる。ある程度放出した後、すぐにその力とおれの間にあるリンクを断ち切り、数歩後ろへと下がる。
そうすると、空気に溶けるように消えていく氷翼から、一部がサイバの中へと吸い込まれていくのが分かった。
サイバの身体がびくんと大きく跳ね、咳と共に口の端から血液が流れ出た。痛ましいが、仮死状態にあった生命活動が再開した……ってことでいいんだろう。いいんだよな……?
これを繰り返していけば、きっと回復させられるはずだ。
「よし……よし!」
手ごたえを感じ、奥歯を噛みしめる。
すると、後ろの方で氷翼の気配が動いた。
首だけで振り返ると、白い繭が解け、その中から仲間たちの姿が現れたところだった。
「――――状況は……どうなっているのかな……?」
最低限の治療だけを終えた、というところなのだろう。右目が抉られたままの顔面は半分以上が真っ赤に染まっていて、思わず目を逸らしそうになる。
レイネ姉さん……。酷い怪我だ。アニマにやられたのか。もしかして、アミカゼに?
……だけど、それでも。生きていてくれて良かった。
おれ達は氷竜アイルバトスの遺志を継いで、この世界を生き続けなければならないのだから。
ダクトとクラウディオが中心になって、レイネ姉さんに状況を説明していく。それを背中で感じつつ、おれは一心不乱にサイバを治療した。
治療しながら、気づけば頬には安堵から来る涙が流れていた。
ボロボロになりながらも、なんとか一つの局面を乗り越えたダクトたち。
しかし、トップクラスに危険なアニマであるアミカゼには逃げられてしまうことに。
これも全部、次回作にアミカゼを出したいと思っている作者のせいなんだ。ひどいやつだ。