第216話 ジェット
◆アミカゼ◆
ウサギ肉……ウサギの耳肉については、特段美味しいと感じるようなものではなかった。
しかし、その内に含まれていた血が重要だった。
「ふ…………ふふ…………」
身体中に活力が漲る。緋翼が止めどなく湧き出し、全身の傷が見る見るうちに癒える。
「あは…………あははははははははっ…………!!」
――これは、王子様の。レンドウの血だ。
そうか、あのウサギ獣人。王子様の女だったのか。それで、体内にこの血が混じっていた訳だ。
それが巡り巡って……と言うほどでもないか。
巡って、私の力になってしまうなんて。
「あなた、この戦場に来るべきじゃなかったわね……。そのせいで、大勢死ぬことになるのよ……ふふっ」
氷竜の女が作った繭のような防護壁。それを一瞥し、その中にいるウサギ獣人に対して侮蔑の言葉を投げかける。
ラ・アニマでは手に入らなかった、王子様の血肉。これで私は、更なる高みに到達した。
「…………ひとしきり笑い終わったなら、そろそろいいか?」
そこに、後ろから声を掛けられる。音の発生源まではそこそこの距離がある。
勿論、新たな人物がこの空間に飛び降りてきたいたことは気配で察知していた。しかし、それ以上に高揚感を解放することを優先してしまっていた。
今の私はそれほどまでに強い。いかなる相手に背後から仕掛けられようと、まるで負ける気がしなかった。
「あら……私が振り返るまで待ってくれていたのかしら?」
「いや、別に。状況を把握するだけの時間があって助かったけどな」
闖入者は、一部を金に染めた黄緑色の髪を持つ、年若い少年だった。
名前は確か……そう、ジェット。魔王軍……聖レムリア十字騎士団の一員だ。
かつてヴァリアーに大損害を与えたという戦士。
世界中の戦士を集めて平均を求めれば、間違いなく上位に位置する魔人ではある。
――だが、しかし。
「……ふふっ。あなたじゃ私には勝てないわよ? すぐに立ち去るというなら……見逃してもいいのだけれど」
今の私の相手になれるとは思えない。
挑発でしかない言葉を放つと、しかし存外に少年は冷静さを保っていた。
「まァ、そうかもな。氷竜の戦士隊でも相手にならず、ヴァリアーの隊員も全滅……いや、あの繭の中に生き残りがいるのか? ……そんでオマエのその背中から生えてるバカデケェ翼は……レンドウの血を取り込んだ影響、ってとこか?」
意外に状況を正しく把握できている。年若い癖に、中々やる。
この戦争を生き残ることができれば、いつか更に優秀な戦士になるだろう。その時に、是非戦ってみたい。
今日ここで摘み取るには惜しい。
そう思うのだが、少年は構えを取ってしまう。
「格上程度にビビッて逃げ出してたら、もうそれはオレじゃねェんだよ」
「……ああ、それはとても残念ね……」
ならば仕方ない。新しい力のコンディションチェックを手伝ってもらうことにしよう。
後ろ髪を一束もぎ取り、緋翼を纏わせ、一本の強靭な剣槍を形作る。それを右手に。
そして背中から際限なく湧き出し続けていた緋翼に指向性を持たせ、芯を持たない剣槍を大量に作り、周囲に浮かべる。その全ての穂先を少年に向けると、私は左手で指を鳴らした。
「――あなたの血は、私を成長させられるかしら……?」
剣槍が宙を駆ける。
◆ジェット◆
――なんでオレは、格上の相手ばかりさせられるんだ?
ここの所、大きな戦いでは負けた記憶しかない。生き残っているんだ、その程度でへこたれたりはしない。だが、苛立たないわけじゃねェ。
オレは強者のはずだったんだ。それなのに、レンドウに負けてからというもの、オレの人生はおかしくなっちまったみたいだ。
「くそっ……たれがァ……ッ!!」
僅かに間隔をあけて飛来する剣槍の群れを、両腕をスピアーに変形させて打ち払っていく。
弾き飛ばした剣槍が、ほどけて緋翼に戻ることはない。オレの攻撃では“創造する力”の結合を破壊できない。
それらはアミカゼから距離が出来ると動きが鈍くなるのか、完全に地面に落ちるより先に、奴が回収しているようだ。
さすがに後ろ側からアミカゼの方へ戻る際にはオレを貫くほどの威力は出せないのか、大きく迂回するように浮遊していく剣槍。
右腕のスピアーを二又に分け、疑似的な三本腕を実現する。この“分裂細胞”を利用した攻撃なら相手の意表を突けるかもしれない。
格上の相手に勝つには、隠し玉に限る。逆に言えば、あまり序盤から無策に手の内を晒すのはよくない……それは分かっているが。
帰還途中の剣槍の一本を撃ち落とす。その後を観察したかった。そのまま、少し距離を詰める。
横目で確認すると……やはり、撃ち落とした剣槍はもう浮かばない!
これを繰り返せば、奴の操る剣槍の本数を削っていけるか。
いや、ダメだ。
アミカゼが右手に持つ剣槍と左のスピアーを打ち合わせ、左足で蹴りを入れ、防がれ、伸びてきた左手を後ろ向きに倒れることで躱す。
飛び退りながら地面を右手で叩いて一回転。その際に見えた。背後で叩き落していた剣槍は、既に黒いもやへと形を変えている。
それが空気に溶けて消えればよかった。だが、アミカゼに向かって風が吹いているかのように、少しずつ黒いもやは奴の中へと吸収されていく……。
――クソッ、運動性能だけでも高ェのに、緋翼の性能がクソすぎるッ……!!
このままじゃ一生かかってもアミカゼの緋翼の残量を削れねェ!!
オレにはどうしようもないことだ。逆立ちしても、オレ一人では勝利はない。高位の“創造する力”の使い手がいないとダメなんだ。
奴の緋翼を掠め取れる人材が。部屋の隅にある繭。ダメだ、あの氷竜は深い怪我を負っているんだろう。
「――ふふっ、意外に楽しめそうね?」
アミカゼが突っ込んで来る。スキップするような動作から、左の膝が突き出される。
何で武器を使わない。自分の肉体で優先して攻撃を仕掛けてくる理由はなんだ。違う、考えても無駄だ、こいつは戦闘狂なんだ。理屈より他のものを優先してきても不思議じゃない。
アミカゼの左の膝を右手で鷲掴みにし、爪を尖らせることで肉を抉る。そのまま体内をグチャグチャにしてやりたいところだが、ダメだ、違う、こいつを殺そうなどと夢を見てはいけなかった――。
右腕が振るわれる。オレの左腕が斬り飛ばされた。いや、斬り飛ばされると感じた時には既に収縮が間に合っていた。左腕はゴムのように変質し、殆ど体内に埋まっていた。
だから、斬り飛ばされたのはほんの先っちょだけだ。だが、アミカゼの周囲に浮いていた剣槍たちから意識を離したのがまずかった。
至近距離の戦闘では、奴はより高度な軌道を描かせることができるらしい。
「――ブガッ……げボっげばっご…………ッ!!」
斜め後方、そして真後ろから立て続けに衝撃。熱した金属を押し当てられたような感覚。
よく痛みを熱に例える表現があるが、これは実際に高熱を伴っている。
オレの腹から飛び出した穂先は、オレンジ色を越え、黄色みがかった白に光り輝いている。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!?」
まるで熱した鉄だ。優に1000度は超えているだろうと思える。ジュウジュウと音を立て、俺という存在が焼き尽くされていく。
高位のアニマが使うっつゥ、炎の力だ。手元から離した状態でも、黒い煙のような状態から灼熱の炎に変化させられるのか。こいつだからなのか。
「――まだ耐えられるわよね?」
「ガアアアッ……ゴッ!? …………ボ…………」
蹴り上げられたのか、地面が遠ざかる。身動きの取れない空中で、更に剣槍がオレの身体を霞める。頭部の横をすり抜けた一本が、俺の左側の髪をごっそりと持っていった。
左脇腹の肉が吹き飛ばされ、右肩が腕ごと吹き飛び、空中で無様に一回転させられた後、成すすべなく床へと叩きつけられた。
「ガボッ…………」
空いた口から止めどなく血が吐き出される。もう、声を出すこともままならない。
――痛覚を切っていなけりゃ、今頃発狂してるとこだぞ……これ……。
痛覚を切れば、無理して戦うことはできる。しかし、肉体の死を先送りにできる訳じゃない。普通に動けているつもりだったのが、いつか唐突に死ぬ、に変わるだけだ。
だが、そのおかげで思考だけは回し続けられる。
――やはりオレじゃ、こいつの相手にはなれねェ。
氷竜……はもう一人も残ってないのか。
なら、クラウディオだ。もしくは、レンドウ。
クラウディオはあの後、地上でサイバとやらと戦い始めたはずだ。俺が戦い始めたばかりだってのに、向こうに早々の決着を求めるのは無理がある。
“創造する力”の使い手がいなければ、こいつには勝てない。だが、全ての使い手がこの場所にいない。間に合わない。
あァ、もう死ぬしかねェんじゃん…………?
ジュウ、と音を立て、俺の身体に突き立っていた剣槍どもが掻き消える。否、黒い靄へと戻って、アミカゼに回収されていく。
そうして、右腕を失い、全身穴だらけとなったオレが横たわっている状況が作られる。
それを事も無げに成した女、当のアミカゼは息すら上がらず、涼しい顔でオレを見下ろしている。
「中々面白そうな能力を持っているのね。食べるに値するわ……」
奴が左手に持っているのは、俺の右腕だ。千切れた部分から滴る血を、女は舐めとった。
「あなた、種族は何なのかしら? こうやって斬り飛ばされた部分の肉は、もう動かせないのね?」
――それができたら今頃、オマエの頭に穴を空けてるに決まってんだろ。
そう吐き捨ててやりたくとも、コヒュー、コヒューと空気の抜けていくような音しかひり出すことができない。
「うん、悪くない味だわ……」
――吐き気のする光景だ。
俺はオマエに血を飲ませるために生まれた訳じゃねェ。
消え去れ。死に晒せ。腐れアニマ。
怒りと嫌悪感に煮えたぎる思考の裏で、いや、脳内で呪詛をあらかた吐き終えたからこそか。
冷静な部分で考える。
――アミカゼというこのアニマの女、やはり規格外だ。
他のアニマから、ここまでの脅威を感じたことは無い。
特に貴族の血統だなどという話を聞いた覚えはないが……市井から生まれた英雄の卵、というところだろうか。……いや、実態としては凶戦士の類だが。
だが、その英雄の相手をさせられる側としては、堪ったものではない。
理由は分からないが、この女は既にラ・アニマで新たな力を得る以前のレンドウよりは強い。
……いや、その新たな力を得たレンドウの血液を、カーリーの血を通じて摂取した……んだよな。
だとすれば、レンドウと同じレベルの力を手にしていてもおかしくないのか。それで、コイツの方が戦闘のセンスがあるのだとすれば。
――既に、魔王を名乗っても遜色ない域に達している。
こいつは、やばい。
今は身一つで戦っているから、まだ勝ちの目はある。
オレには無理でも、仲間たちならあるいは。そう信じられる。
しかし、もしもコイツが千の軍勢を従え、魔法剣を手にするようなことがあれば。
それはいかなる国も存在を軽視することのできない、新たな魔王軍の出現に等しい……。
……レンドウ……クラウディオ。…………モトシロ。
誰でもいい。
コイツを止めてくれ。
……瞼が重い。
血を流し過ぎたのか。
意識が……急激に薄れていく。
ネル。……お前がこの戦場にいなくてよかった。
――その一点だけには安心して、死ねる。