第182話 氷王の潜入
◆アイルバトス◆
――私は今まで、私を脅かす存在に相対したことが無い。
いや、先代魔王ルヴェリスに会ったことはあるが。
あの方は病床に伏す以前、各地の魔人に挨拶回りをしていて、それは氷竜の里も例外ではなかった。
勿論、全盛期のあの方が私を遥かに凌駕する力の持ち主だったことは疑いようがない。
しかし、あの方は私に対してその力を誇示したことがなかった。
あの方と対話する際は、いつも不思議な安心感があった。
それ自体は何も悪いことではないのだが。
だが、私という存在を終わらせる可能性を持つ相手に会いに行くというこの状況。
この世に生を受けて200年余り。
生まれて初めての状況に、ある種の興奮を覚えるというのは、ある意味仕方ないことなのではないだろうか。
「まぁ、死ぬつもりなど毛頭ないが」
武者震い、というものだろうと推察している。
……油断している、とは違う。
私の心には一切の曇りが無く、ルノードの結界の内にありながらも、周囲の様子は良く見えている。
仲間たちとのパスこそ無効化されているものの、身体は問題なく動く。
少し、平常時より身体を動かす際に必要なエネルギー量が多いことにはすぐに気づいた……有り体に言えば“身体が重い”という状況なのだろう。
恐らくは結界の中心に向かう程、この影響は濃くなると思われるが……問題ない。
私の前に立った者は、私よりもずっと、普段通りには動けなくなるのだから。
結界の影響か、“創造する力”の波長を感知できない。
が、それも問題ない。
集中すれば、熱源を感知することなど容易い。
「向こうか」
多くの熱源が密集する方向へ10分も歩かないうちに、針葉樹の隙間より、唐突に建造物が現れた。
街全体に隠密の魔法が掛けられており、近づくまでは私にも見えなかったということだろう。
隠密魔法。当然と言えば当然か。
それだけにとどまる筈も無い。同時に害意を持つ者への警戒として、警報装置の類も設置されていて然るべきだ。
だが、それはこちらの隠密魔法により効果を発揮しない。
「ふむ」
右手を持ち上げ、空気をつまむように大気中のマナを読む。
この位置から結界を破壊することも可能だが、それでは自ら侵入したことを喧伝するようなものだ。このまま潜入しよう。
目の前に現れた建造物を観察する。
全体的に背の高い建物が多い。
セメントに砂と砂利を混ぜ合わせたものを利用し、大小様々な石を重ね合わせて壁にしているのが、基本的な建築様式だろうか。
レンドウ君の話だと、裏山の麓で発掘できる石を利用してセメントを確保しているのだったか。
その石とは、記憶が正しければ凝灰岩と呼ばれるものだったはずだ。いや、今はそれはどうでもいいか。
――街はそう広くない。しかし、どの建物も中々の文明レベルだ。
雪山に穴を掘って暮らしている私たち氷竜に評価されるのは、アニマ側としては甚だ不本意かもしれないが。
一つ一つの建物に、十数人は暮らせそうだが……確か、アニマの総人口は200人余りだったか。
我々氷竜に比べれば多いが、それでも一つの種族としては少ない方だろう。
他の種族との関りも乏しく、人間に敵視されている現状を鑑みれば、民の不安は推して知るべしだ。
街の中央、二つの尖塔を備えた立派な建物がテュラン城。族長の居城であり、同時にレンドウ君の生家だったはずだ。
最も奥に見える、屋根の西端に鐘楼を備えた厳かな建物が、シュレラム聖堂だろう。
あの色とりどりな窓の意匠は、ステンドグラスというのだったか?
「なかなか趣があるじゃないか」
その背後には、再び鬱蒼とした針葉樹林が連なっている。
――恐らく、あの聖堂の地下に道があり、竜門が隠されているのだろうと推察できる。
重要人物に会えそうなのはその二つの建物だが、興味を引かれるものは他にもあった。
その建物はあまり背が高く無く、その分横に広い。
鋭角でもない屋根の造りからは、それが本来住居として造られたものではないことが推察できる。
周囲の他の建物とは明確に区別された……恐らくは、倉庫として造られたものだ。
だとすれば、むしろあの中にこそ生体反応が多く感じられるのは……何故だろうか。
周囲の住居から感じるより、強い熱源反応が多い。あの建物の中にだけ、平均体温の高いアニマが住んでいる?
……いや、それはおかしいだろう。
「人間、か?」
周囲の住居の熱源が一般的なアニマなのは間違いないだろう。
同じような反応は、あの倉庫にもある。
ならば……。
倉庫の入り口にいる薄い熱源は監視役のアニマ。
そして、その奥に密集している濃い熱源は…………捕らわれた人間たち。
アニマは来るべき戦争に備え、備蓄食料として人間を拉致・監禁していた。
そう考えるのが自然ではないか?
……まぁ、だからといって私が感情を荒立てる理由にはならないのだが。そんなことをしても得は無い。
別段助ける義理もないが、見捨てるのも忍びない。
せっかくナージアと仲良くしてくれている、レンドウ君を悲しませるのは本意ではない。
「ならば、まずはあの建物から片づけていくとしようか」
私は割と損得勘定で動く性質だ。
不可能だと思えば、優先順位の低いものから切り捨てていくことだろう。
だが。
アニマの里を制圧するついでに、捕らわれていた人間たちを救出することくらいは造作もないな、と。
この土地から受ける余りのプレッシャーの無さに、小さく息をついた。
脳内で攻略順を設定し終わると、さっそく早歩きで倉庫の入口へと向かう。
氷翼を伸ばし、音が立たないように、両開きの引き戸らしい扉をそれでそっと包む。
ゆっくりと手前に引き、空いた隙間へと身を滑り込ませる。
その内部、入り口に控えていた歩哨は二人。
「――っ!」
どちらも反応は悪くない。
「――ッ!?」
だが、動けない。声も出せない。
私の姿を見て、椅子から立ち上がろうとしたまだ年若い二人の少年。
だが、立ち上がって行動に移る前に関節が固まり、前のめりに倒れる。
傷つける意思はない。床には既に柔らかい氷翼を撒いている。
ふわりと受け止められた二人の少年に、既に意識はない。
「数時間ほど眠らせておけばいいか」
さて。それで、奥の部屋に捕らえられているだろう人間たちだが。
……果たして、人間たちは私の姿を見て安心するだろうか?
いや、そんなはずは無いだろう。恐ろしいアニマ……いや、吸血鬼の代わりに、謎の魔人が現れても安心すまい。
ならば、顔を見せる必要はないな。
この場はこれでいい。人間たちの開放は、レンドウ君のチームにいる人間に任せるとしよう。
倉庫から出て、遠くに見えるシュレラム聖堂を見据える。
間違いなく本命はあそこにいるのだろうし……人質になり得る人間たちの安全も確保した。
いや、まだ完全に確保したとは言えないかもしれない。
「なら、こうだな」
指をぱちんと鳴らす。
特に意味はない。意味はないが、力は発動させる。
地面が足元から凍り付き、それが街全体へと伝播していく。
倉庫の周囲は特に氷で入念に覆い、近付く者がいれば分かる様に結界を施す。
――この時点で、ルノードに気付かれた可能性は高い。
自らの結界の内に、自らのあずかり知らぬ領域が生まれたのだから。
なので、このまま速攻で終わらせる。
全ての民家の入り口を分厚い氷の壁で塞ぐ。テュラン城も例外ではない。
シュレラム聖堂は遠いし、これからお邪魔する場所なので省いていいだろう。
そうして、氷に包まれた街の真ん中を歩く。
決して急ぎ過ぎず、しかし無駄なく、周囲を警戒できる速度で。
例え今までに一度も命の危機を感じたことが無くとも、警戒は怠らない。
命を大切にしてほしいと念を押している仲間たち、彼らへの指導としての姿勢が活きたか。
その違和感に気付くことができた。
「よく考えてみれば、初めからおかしかったのか」
現在の時刻は、深夜の2時過ぎ。
――夜の眷属たるアニマ。健常な個体なら、寝静まっている時刻ではない。
この街に足を踏み入れてからの静寂は、付け入る隙では無く。
「罠だった、という訳か」
返答は、背後より首へと向かう刃だった。
その場から動かずに対応することは余裕だ。
果たして、いや、確実に。何の対処もせずその刃を首に受けたとしても、私という存在は揺らがない確信がある。
だが、それでは武人としてあまりにも相手に失礼だろう。別に武人でもないが。
右手を首の後ろで振る。それだけで、襲撃者の剣は粉々に砕けた。
「ぐぁっ――っ!?」
衝撃で腕を痛めたのか。苦悶の声を上げて飛び退る気配。
突如として、周囲には20を超えるアニマが出現していた。
いままで私が気づけなかったのだ。
ルノードによって、余程上位の隠密魔法を施されていたのだろう。
だが、そんな彼らも、ルノードもまた、私の隠密魔法を見破れていた訳でも無かった。
それ故に、私は倉庫への襲撃までは問題なく遂行出来た。
氷の結界を展開するまでは、気づかれていなかったと考えていいだろう。
我らは、お互いに相手の存在を認知できていなかったのだ。
だが、民家の中にある熱源たちは……紛れもなくアニマの一般市民のはず。
一般市民であってもアニマなのだから、それなりに戦える可能性は高いだろうが。
とすると、周囲を取り囲むこのアニマ達は、アニマの精鋭か。
いや、ルノードの方針に賛同するアニマ……といったところだろうか?
「オルト、裏に回れ!」
「――ソフィア、チル、狙撃に徹しろ!」
だが、悲しいかな、力の総量が違い過ぎる。
彼らを憐れだとは思わない。だが、ある種の虚しさは感じる。
そもそも君たちは、私が広げた氷の上に立っているのだから。
「――うぐっ!?」
「動けなッ……」
一人、また一人とその場に突っ伏していくアニマたち。
「サラ! ルイ! ……ネドアっ!!」
今まで、どれだけの敵をそのコンビネーションで屠って来たのかは分からない。
だが、格上の相手と相対した経験がそもそもないのだろう。
こういう時に、どうすればいいか分からないのだ。
ちなみに、私も分からないので教えられそうにない。すまないね。
遠方より飛来した黒い炎。それを宙に氷を生成することで受け止める。
テュラン城の屋根から狙撃しているのか。確かに、屋根の上までは氷を広げていなかった。
遠方の狙撃者たちには、直接足元へと氷を張ることで対処した。
――私の作る氷を踏んだ者は、例外なく私の影響下に入る。
翼を遠隔操作し、屋根から滑落した少女を優しく受け止めると、正面に残った人物に意識を向ける。
「ふ……ざけ……やがって…………!!」
燃え滾る闘志を滲ませる黄玉の瞳。
私はレンドウ君が怒った姿を直接見たことはないが、こんな感じなのだろうか。
多くのアニマの例外に漏れない黒い髪を肩甲骨ほどまで伸ばし、後ろで三つ編みにした少年。
幼くも見える顔立ちは、ともすればレンドウ君より年下だろうか。
「手加減……してるつ……もり……かッ……」
他の戦士たちが倒れる中、最後まで意識を保っているとは、かなりの有望株なのだろう。
「お前……なんか……!」
だが、私が近づけばより影響は強まる。まもなく意識を手放すだろう。
「……劫火……様……が…………っ」
倒れる直前で、少年がそう漏らした言葉。
それが契機となったかのように、突如として前方で強大な熱源が発生した。
いや、爆発したと表現した方がいいだろう。
シュレラム聖堂だ。
遠くに見える聖堂の扉が内側から爆発し、大きな破片となって飛び散った。
そこから湧き出した轟炎が、一直線にこちらへと向かってくる。
――いや、もう既に到達しかけていた。
不意打ちとも言えるそれを、私は真正面から受けることになった。
周囲の氷が溶け、私のローブが焼け焦げ、胸が、腹が黒く染められていく。
肉が裂け、骨が露出しかかり、久方ぶりに私の血が肌を伝う。
この里で、最も強い熱源。
私の命をガリガリと削るそれを、氷と化した両腕で挟み込みながら。
「――この程度か、炎竜ルノード」
私はもう一度嘆息した。
氷竜アイルバトスのターン。
あと、ようやくのレンドウの故郷、ラ・アニマ。レンドウ不在だけど。