第33話:それぞれの復讐
「やっ…… やめろ! てめぇ! 殺すぞ! そんなことしやがってみろ! 殺す! 絶対ぇ殺す!」
「……日辻川さん」
ハンマーをゆっくりと振り上げながら、松本清は幽鬼のような顔で叫喚する翔子を見下ろした。
「どうして貴女は、ハルくんの拳を…… 壊したの?」
「調子に乗ってんじゃねぇぞ! 中坊の手ぇ借りて仕返しして嬉しいのかよ! だからテメェらはダセぇんだよ! 自分じゃ何にもできねぇザコのクセに、イキっ……」
べきっ、と。
ハンマーが、翔子の右手めがけて振り下ろされた。
「ああああぁあああぁぁぁああああぁぁぁああっ!!」
激痛。骨の髄まで響く激痛。良太に骨を折られた時のことを思い出す。
せっかく治ったのに。半月以上もかかったのに。なんでまた壊すの? 壊させるために治したの?
「ねぇ、どうして? どうして貴女は、ハルくんの拳を壊したの?」
「ごっ…… ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! アタシが悪かったの! アタシがバカだったの! お願い、もうやめて! 反省したから! 凄く反省してるから!」
べきっ。
「どうして貴女は、ハルくんの拳を壊したの?」
「反省じでるっでいっでるじゃないぃい!!」
べきっ。
「どうして貴女は、ハルくんの拳を壊したの?」
「ぎあああああああ! ぎぃああああぁああ!!」
べきっ。
「どうして貴女は……」
「松本さん、そこまでにしときなよ。あんた、蛇人間に成りかけてるぜ」
良太が翔子を取り押さえたまま、静かな声で言った。
「悪を憎んで人を憎まないのがあんたの性分だろ? 一時の感情に任せて慣れないことするもんじゃねーよ。そんな復讐はさすがに不毛だぜ」
「……あ……」
ごと、と。
ハンマーを取り落として、松本清は、呆然と自分の手を見つめた。
静寂の中、翔子の苦悶だけが響き続ける。気が抜けたように膝から崩れそうになった松本の体を、ずっと隣にいた井上が支えた。
良太は微笑んで、井上に声をかけた。
「後はあんたがやりな。井上さん」
「え?」
「あんたは悪人を憎む質だろ。ずっと諦めずに爪を研いでたみたいだけど、卑怯者と真面に遣り合うのは割に合わねーぞ? 今、此処で分からせてやればいいさ。思う存分」
「なっ……」
いつか、清を自由にしてやりたかった。
いつか、ヘシ折られたプライドを取り戻したかった。
左手を鍛えた。蹴りを学んだ。まだ頭突きも出来る。右腕だって肘打ちに使える。
バイトの合間に血反吐を吐いて技を磨いた臥薪嘗胆の日々を、こんな、無抵抗の相手を一方的に、武器で殴るような形で、終わらせていいのか?
逡巡する陽水に、清が落ちていたハンマーを拾って、その左手にそっと託した。
「私は、席を外してるから」
「………………」
「ごめんね」
「いや、サヤカはそれでいいんだと思う」
「ありがとう…… ハルくんも、それでいいんだと思うよ」
「そう、だな」
あの日より一回り太くなった左手で、力強くハンマーを握りしめる。
そうだ。終わらせていいんだ。さっさと終わらせなくちゃいけないんだ。こんな日々は。
つまらないプライドなんて、この女にヘシ折られたままで構わない。清を自由にするのが最優先。
清の姿がドアの向こうに消えると、陽水は怒りで真っ赤に血走った目を翔子に向けた。
お前を、サヤカより弱くしてやる。二度とサヤカを傷つけられないようにしてやる。
憎いに決まってる。恨めしいに決まってる。許せないに決まってる。
この女を痛めつけて、報いを受けさせずにはいられない。自分を、清を、傷つけたことを……罵声と嘲笑と暴力で金も尊厳も笑顔も奪ったことを、苦痛と恐怖で泣くほど後悔させてやらなければ、この心に溜まったドス黒い霧はいつまでも晴れやしない。その先が見えない。
「この、人間のクズがっっ!!!!」
グシャアッ! と、乾いた音と水音が混じった壮絶な音がした。
陽水が左手で振り下ろしたハンマーは、正確に翔子の左手を強打して、歪に変形させた。
「ぅごぇェッ!?」
翔子はもはやまともな悲鳴を上げることもできず、涙と鼻水と嘔吐物を撒き散らして悶絶した。
「なぁ、良太サンよ。こいつを働かせるって言ってたけど、それは車椅子でも勤まるのか?」
「ああ、時間だけはたっぷりある仕事だ。多少不自由だろうが、やらせるよ」
「ははっ、そりゃいいや。じゃあ、遠慮なく!」
グシャアッ!!
右足、左足。翔子の四肢が破壊されていく。骨と肉と血と皮が叩き潰されて混ざっていく。
悲鳴、絶叫、号泣、嗚咽、呻吟。
「二度とサヤカに手を出せないようにしてやる! 未来永劫誰にも暴力を振るえない体にしてやるからな! 何が反省してるだ! お前みたいなクズの言うことなんざ誰が信じるんだよッ!!」
グシャアッ! グシャアッ! グチャアッ!
さすがの翔子も、理解した。
自分が永遠の勝ち組であると、勘違いしていた愚かさを。
状況が変わることも考えずに、必要以上に人の恨みを買ったことの恐ろしさを。
自分が調子に乗っていた大馬鹿者だと言うことを、骨の髄まで理解した。
嗚呼…… だから良太は、こんなことをしているんだ。
もし状況が変わっても、恨みなんて晴らせないように、アタシを壊しているんだ。
良太は、アタシを甘く見ていない。
恐ろしい。自分の弟が、弟の姿をした化物が、心底恐ろしい。
自分はもう終わりなのだと、翔子は理解した。
ぷつり、と心の中の何かが切れて、崩れ去った。
罵声と暴力による膨大なストレスでの人格破壊。
軍隊だの道場だのに送り込まれた悪タレどもを更生させてきた、昔ながらの手法と同じ現象。
今まで16年生きて来た翔子という人間が、ここで終わった。
「……井上さん、もう十分だよ。後始末は俺がやっとくから」
「えっ? あ、あぁ…… そうか。そうだな。世話になった」
「いいってことよ。本当に大事なのはこれからの事だろ? 早く松本さんのとこへ行ってあげなよ」
「……ありがとう」
復讐を終え、晴れ晴れとした顔で、陽水は血と肉片に塗れたハンマーを良太に返す。
その瞳の暗い影は、すでに消え失せていた。
清を追って翔子に背を向ける陽水。その背中に、堂々たる鷹の翼が力強く広がっていく。
扉の向こう、美しい白い羽が、それを迎えた。
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恋人たちを微笑んで見送った良太は、もう床に這いつくばったまま呻き声を上げることもなくなった翔子を、優しく抱き上げた。
「ははっ、姉ちゃん、人間に戻ったんだな。赤ん坊だけど」
潰れて腫れて原型を失い、青痣と赤血に染まった足にそっと手を触れると、傷口を高くして姉を寝かせ直した良太は、スマホを取り出す。
「救急車…… いや、四方木の好々爺を呼んだ方がいいか。あの闇医者、腕だけは確かだから」
苦笑いを浮かべながら祖父の友人にメッセージを送った良太は、お気に入りのサバイバルキットから新品の救急ポーチを取り出し、姉の応急処置を始めるのだった。




