ちに繕う野花 十九
仁の区画、漆黒町の天紅家にて。
「俺に『雪芒』しろ」
「………」
自室の寝台の上で眠っていた氷月がやおら目を開けると、傍らに座っていたトキから何の前置きもなくそう言われたが、ぼんやりとしていたのでその言葉が飲み込めず、じっとトキを見続けた。トキは眠気眼の氷月を直視したまま、後頭部に両の手を添えては、四本脚椅子の内の二本を浮かしたり床に着けたりを繰り返しながら、ゆったりと話し始めた。
「通常、参の区画、黄檗町から加治宅まで早馬専用の道を使ってほぼ九時間で到着できる。はずだった。が、手配した早馬が何故か悉く病やら怪我やら失踪やらで乗馬する事ができず。何とかかんとか、遠方から到着した早馬に乗ったものの、次には盗賊に襲われ。結果。ほぼ二日と半日も時間がかかってしまった。旅の疲れもあるだろうに、休息を取らずそのまま加治宅に直行。『雪芒』を実行。ああ。そうだな。ほぼ一日眠り続けたとしても、疲労は解消しないまま。覚醒しろと言うのも無理な話だったな。悪い、悪い。ほら。眠れ。ああ。その前に何か食べるか?未空に疲労回復する食べ物を用意してもらおう。おまえの部屋の外で風早が護衛の任に就いているから、安心しろ」
「………では。言葉に甘えます。お休みなさい」
「ああ。食べ物はいいのか?」
「はい。今はまだ眠っていたいです」
「そうか。わかった。眠れ」
氷月は目を瞑った。トキは座っていた椅子を動かす事を止めて氷月を見続けた。トキの圧を感じた氷月はゆっくり目を開けた。
「あの。トキ様。早く『扇晶城』に戻ってお休みください。お疲れでしょう?」
「おまえが加治に『雪芒』を実行している時とおまえが眠っている間に十分休息は取ったから安心しろ」
「ずっと見られていると眠れません」
「今迄眠っていられたから眠れるはずだ。気にするな」
「………もしかして、私がトキ様に『雪芒』を実行するまで、ずっと傍におられるつもりでしょうか?」
「ああ」
「………分かりました」
思った以上に疲労しているようだ。思考がぐにゃぐにゃしている氷月はトキに悪いと思いながら、放置する事にしてまた目を瞑った。
「悪いな。紅凪。氷月を独占させてもらう」
「………」
暫くして氷月が静かな寝息を立て始めた頃だった。控えめに扉を開けた紅凪はなるべく音を立てないように部屋の中に入って、トキの隣に立って氷月を見下ろした。
「よっぽど疲れたんだな。仙弥から早馬とか盗賊とか話は聞いた。おまえも大変だったな」
「俺はただ見ていただけだ。氷月と仙弥が率先して、杏梨はまあ、ほどほどに動いていたな」
「早く依頼を果たしたかったんだな」
「褒めてやりたいだろうが。その言葉はまだ取っておけ。俺の『雪芒』が終わるまではな」
「………おまえ。疲れただろ。その椅子を速やかに俺に明け渡して、『扇晶城』に帰れ。氷月が十分に休息を取れるまで時間がかかるだろう。まさかそれまでずっとここに居座るつもりか?」
「そのまさかだが?」
「………」
じっとりねっとりねちっこい責め立てるような視線を受けたトキは、鼻で笑い吹き飛ばしては、ニヤニヤと笑い続けた。
「安心しろ。恋だ愛だのが目覚めたと戯言を抜かすつもりはない。ただし、氷月がどう想っているかは。分からんがな?」
「………そうだな」
「おやおや。動揺する力もないほど疲れたのか?慰労会開催を任されたってな。ここに来たって事は無事に終わらせる事ができたんだな。お~よしよし。よく頑張ったな~。えらいえらいぞ~」
「………おう」
氷月に負けず劣らず、よほど疲れたのだろう。生返事し始めた紅凪に、つまらんと思いながら、トキはおまえこそ帰れと言った。
「それとも?天紅家の客間で寝かせてもらうか?俺と一緒に」
「いや。俺と一緒に帰るぞ。トキ」
「ッハ。つまらん。そこは。そうだな俺とめくるめき夜を過ごそうってキメ顔で言う処だろうが」
「はいはい。分かりました~。行きますよ~」
「………はあ。分かった分かった」
トキはすんなりと椅子から立ち上がると扉へとすたこらさっさと向かった。
もう少しごねると思っていた紅凪は不思議に思いながらも、氷月の頭にエアポンポンしてのち、トキの後に続いたのであった。
(2024.10.29)




