意思
会話には物語では表せないことがあると思うんだ。互いの価値観がぶつかり合う現象ってとっても会話なんだよね、その形はたくさんあるしあってほしい、そして相手を理解するのではなく何者かもわからないまま交わされるものでもあるんだ。
物語って、どうしても登場人物の内面を描いたり、出来事に意味を与えたりするでしょう。でも、現実の会話は必ずしもそうじゃない。
自分の考えを伝えたつもりでも、相手がどう受け取ったのかはわからない。相手の言葉に納得できなくても、なぜ納得できないのか、自分でも説明できないことがある。
それでも、言葉を交わしたという現象は確かに起きている。
僕たちは、相手を理解できたから会話が成立するわけじゃない。むしろ、理解できないもの同士が、それでも何かを交わしていること自体が会話なのかもしれない。
価値観というものは、その人の経験や知識、知恵、言語、性格、環境、立場、年齢、横にいる人、たまたますれ違った人……無数にある「今の」その人を形作っているものだと考えているんだ。
だからこそ、ぶつかり合うという表現をしたんだ。揺さぶられもするし、変化もする。影響を受けないかもしれない。そこが面白いんだけどね。
昨日の自分と今日の自分では、同じ言葉を聞いても受け取り方が違うかもしれない。反対に、どれだけ強い言葉をぶつけられても、何ひとつ変わらないことだってある。
同じ人でも、出会う時期や場所、隣にいる人が違えば、まったく異なる会話が生まれる。そして、その交わりが何を生むのかは、交わっている当人たちにさえ、わからないことがある。
意味がないことなんてないとも考えているよ。
何も生まなかったことと、意味がないことはイコールではないんだ。すでにそこには価値観同士がぶつかったんだからね。
それで何も生まれなかったのなら、彼らが選んだ会話が彼らの価値観に合っていなかったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
会話をしたという結果は残ったから、何も生まれなかったというのは違うと言う人もいるかもしれない。
会話というのはそういうものなのかもしれないね。
でも、そもそも僕たちは、何を会話と呼んでいるんだろう。
僕が考える会話は、息をすること、空気との会話。外を歩くこと、地面や木々との会話。誰かと話すこと、言葉での会話。
このように、何を相手として扱うかはその時々で異なるんだ。
会話の方法も種類も異なる。でも、意識があるかどうかだってどうだっていい。なんでもいい。
何かの交換や、与えるだけ、受け取るだけ。どれをとっても、必ずお互いがいないと起こり得ないもの。これを会話だと考えているよ。
空気がこちらを認識している必要はないし、地面や木々が何かを伝えようとしている必要もない。こちらが何かを与え、何かを受け取る。あるいは、一方的に与えるだけ、受け取るだけでもいい。
ただ、そこには自分だけでは成立しない、何かとの関わりがある。
そう考えると、会話は必ずしも目的を必要としないのかもしれない。
何かを伝えるためでも、理解するためでも、変化するためでもない。ただ、何かと何かが関わっている。
人間同士の会話も、その広い関わりのなかにあるのかもしれない。
価値観がぶつかり合うことも、必ずしも相手を理解するために起きるわけじゃない。理解する意思がなくても、影響を与えなくても、何かを生み出さなくても、互いが関わることで会話は成立し得る。
そして、何かが生まれたかどうかも、意味があったかどうかも、誰もが同じように考えるとは限らない。
会話の形はたくさんあるし、たくさんあってほしい。
相手が何者なのかもわからないまま交わされるものがあってもいい。互いを理解できなくてもいい。何かが変わっても、変わらなくてもいい。
会話とは何なのか。
それは、何かを伝えるためのものなのか。それとも、何かと何かが関わり合う、その現象そのものなのだろうか。




