1はじめての魔法
# 第一話 小さな才能
王都から少し離れた場所に、その貴族の領地はあった。
王都へ向かう街道はよく整備され、領内を流れる川には頑丈な橋が架かっている。少し前までは雨が続くたびに川が氾濫し、周辺の畑や家屋に被害が出ていたらしいが、今ではそうした話も昔のことになりつつあった。
その変化に携わった人物の一人が、領主の長男として生まれてくる少年の父親だった。
彼は中流貴族の出身でありながら、魔法の才覚と地道な研究によって名を上げた人物だった。とりわけ大地属性の魔法を専門とし、研究者たちと現場の技術者たちをまとめ上げ、領地の橋や堤防の整備に力を注いでいた。
そんな父親のもとに、待望の第一子が生まれた。
母子ともに健康。
それだけで十分な祝い事だった。
父親は生まれたばかりの息子を腕に抱き、しばらくのあいだ何も言わずに顔を眺めていたという。
やがて、ようやく口を開いた。
「……小さいな」
「生まれたばかりなのですから、当たり前でしょう?」
妻に笑われ、父親もまた笑った。
その日、屋敷にはいつもより多くの人が集まり、厨房では料理人たちが忙しく立ち働いた。使用人たちも祝いの言葉を口にし、領地にはささやかな祝宴の知らせが広がった。
少年は、そんな人々に囲まれて人生を始めた。
彼自身は、もちろん何も覚えていない。
ただ、泣いて、眠って、腹が減れば泣き、抱き上げられれば泣き止む。周囲の大人たちにとっては一大事でも、本人にしてみれば、それが世界のすべてだった。
季節が巡り、少年は少しずつ成長していった。
寝返りを打ち、這い回り、やがて自分の足で立つようになった。転んでは泣き、また立ち上がる。食事の仕方を覚え、言葉を覚え、屋敷の中を歩き回っては、目に入るものすべてに興味を示した。
特別なことは何もなかった。
少なくとも、周囲の大人たちがそう思っているあいだは。
最初に変化に気づいたのは、母親だった。
少年は言葉を覚えるのが早かった。
一度教えた言葉を、何度も繰り返すことなく覚えてしまう。もちろん、発音はたどたどしいし、意味を正確に理解しているとは限らない。それでも、同じ年頃の子供たちと比べれば、ずいぶんと物覚えがよかった。
「この子、もうそんな言葉まで覚えたの?」
母親が驚くたび、周囲の大人たちは嬉しそうに笑った。
父親も息子の成長を喜んだ。
「覚えが早いのはいいことだ。だが、焦らせる必要はない。子供のうちは、子供らしく過ごさせてやろう」
そう言いながらも、息子が新しいことを覚えるたびに、父親の顔には隠しきれない喜びが浮かんだ。
やがて少年は、父親の仕事にも興味を持つようになった。
父親が屋敷に持ち帰る書類や図面。ときおり研究者たちが訪ねてきて交わす難しい話。そして、父親が庭先で見せる魔法。
少年にとって、それらは何よりも面白いものだった。
父親が地面に手をかざすと、土が盛り上がり、平らな地面が小さな丘に変わる。別の日には、崩れかけた石の縁が魔法によって整えられ、まるで最初からそうであったかのように形を変えた。
少年は目を輝かせた。
「とうさま、それ、どうやるの?」
「魔法だよ」
「まほう?」
「ああ。土や石に働きかけて、形を変えたり、支えたりする。何でもできるわけではないが、使い方を知っていれば、ずいぶんと便利なものだ」
「ぼくにもできる?」
父親は少し考えてから、息子の頭を撫でた。
「大きくなったら教えてやろう」
少年は、その言葉を忘れなかった。
それからというもの、父親が魔法を使うたびに、少年はそばへ寄っていった。
どうすれば土が動くのか。
なぜ、同じ場所に手をかざしても、父親が魔法を使わなければ何も起こらないのか。
質問は尽きなかったが、幼い子供に説明するには難しいことばかりだった。
父親はその都度、できる限り簡単な言葉で答えた。
わからないことは、わからないままでも構わない。いつか自分で確かめればいい。
それが、父親の教え方だった。
そして、少年が五歳になった頃。
ついに、魔法を学ぶ日がやってきた。
*
最初に教わったのは、魔法を使うための基本だった。
魔法とは何か。どのように力を集め、どのように意識を向け、どのような手順で現象を起こすのか。
父親は息子の前に小さな石を置いた。
「まずは、これを少しだけ動かしてみよう」
「うん!」
「ただし、力任せにやるものではない。何をしたいのかを考えて、必要な分だけ力を使うんだ」
少年は真剣な顔で頷いた。
父親が手本を見せる。
石が、ほんの少しだけ地面から浮いた。
「今のを覚えているか?」
「うん。こう?」
少年は父親の真似をした。
もちろん、最初からうまくはいかなかった。
石は動かない。
少年は首を傾げた。
「……あれ?」
「最初はそんなものだ。もう一度やってみなさい」
少年は再び挑戦した。
そして、何度目かの挑戦で。
石が、わずかに揺れた。
「おっ」
父親が声を上げた。
少年は気づいていなかったが、父親にはわかった。今の揺れは、偶然に石を蹴ったわけでも、地面が傾いていたわけでもない。
魔法が働いたのだ。
ほんのわずか。それでも、確かな一歩だった。
「すごいぞ。今、魔法が使えたな」
「ほんとう?」
「ああ。もう一度やってみよう」
少年は嬉しそうに笑った。
今度は、さっきよりも早く石が揺れた。
父親は目を細めた。
教えたばかりの手順を、もう一度再現できている。もちろん、まだ安定してはいないし、できることも限られている。しかし、五歳の子供が初めて魔法を学んだことを考えれば、十分に驚くべきことだった。
その日、少年は何度も石を動かそうとした。
成功することもあれば、失敗することもある。うまくいかずに首を傾げることもあったが、少し休んでから再び挑戦すると、さっきまでできなかったことができるようになっていた。
父親は息子を褒めた。
母親も喜んだ。
屋敷の者たちは、主人の息子には魔法の才能があるのかもしれない、と噂し始めた。
少年は、ただ嬉しかった。
自分が何かをできるようになること。
それを父親が喜んでくれること。
その二つが、何よりも嬉しかった。
*
それからしばらくのあいだ、少年は魔法の練習を続けた。
石を動かす。
小さな土の塊を持ち上げる。
形を整える。
どれも簡単なことばかりだったが、少年は新しいことを覚えるたびに、できることを増やしていった。
もちろん、すべてが一度でできるわけではない。
うまくいかない日もあった。
それでも、翌日にはできるようになっていることが多かった。
父親は、息子の成長を見守りながら、少しずつ教える内容を増やしていった。
そして、ある日。
父親が用事で屋敷を離れていたため、少年はいつものように魔法の練習をしていた。
教わった手順を思い出し、目の前の小石に意識を向ける。
小石が浮いた。
次に、もう少し大きな石を試してみる。
少し時間はかかったが、それも浮かせることができた。
少年は得意げに笑った。
もっと大きなものなら、どうだろう。
庭の隅に置かれた、拳ほどの大きさの石に目を向ける。
集中する。
教わった手順を思い出す。
すると、石が地面から離れた。
ほんの少しだけ浮き上がり、すぐに落ちた。それでも、少年は驚いて目を丸くした。
できた。
昨日まで、こんなに大きな石は動かせなかったのに。
少年はもう一度試した。
今度は、さっきよりも長く浮かせることができた。
胸の奥が熱くなった。
自分にも、魔法が使える。
それだけではない。
昨日できなかったことが、今日はできる。
教わったことを覚えれば、次のことができるようになる。
それが、たまらなく楽しかった。
そのとき、庭を通りかかった使用人が足を止めた。
「あら、坊ちゃま。そんなことまでできるようになったのですか?」
少年は振り返った。
「うん! 昨日はできなかったんだよ!」
「まあ。ずいぶんとお上手ですね」
使用人は目を細めて笑った。
その言葉を聞いて、少年は少しだけ胸を張った。
褒められたことが嬉しかった。
そして、ふと考えた。
自分は、ほかの子供たちよりも魔法を覚えるのが早いのだろうか。
同じ年頃の子供たちがどれくらい魔法を使えるのか、少年はまだ知らなかった。比べたこともなかった。
けれど、父親に教わったことは、少し練習すればできるようになる。
昨日できなかったことが、今日はできる。
父親も、母親も、屋敷の人々も、自分が新しいことを覚えるたびに喜んでくれる。
ならば、自分には魔法の才能があるのかもしれない。
少年は、そんなふうに思った。
それは、まだ確信と呼べるほど強いものではなかった。
自分がどこまでできるのかも、ほかの人がどれほど苦労するのかも知らない。
ただ、自分には得意なことがある。
そのことを、初めて自分自身の実感として理解したのだった。
少年は、庭の小石をもう一度浮かせた。
石は、先ほどと同じように宙へ浮かび、地面へ落ちた。
それを見つめながら、少年は笑った。
明日は、もう少し大きな石を浮かせてみよう。
今の自分には、それができる気がした。




