一章『赤の島』-2
最初に耳に届いたのは、水の音だった。
周囲は全く見えない。それこそ、一寸の光すらも。ただ、ざざん、ざざんと、波が打ち付けるような音が聞こえる。
それに、緩やかな揺れ。まるで、揺り籠の上に腰を下ろしたかのように、頼りなく、体が揺れる。
体が揺れる?
僕は死んだんじゃなかったのか?
暗闇の中、自分の体を触り、確かめる。腕も足もある。頭は割れていない。どころか、傷のひとつも見当たらない。
生きて、いるのだろうか?
或いは、もう死んでいて、これは死後の世界に向かう船――?
頭をいくつもの考えが過る。しかし、小さく折り畳んだ体は、すぐに関節の軋みのような音と共に、不調を訴えた。
ペタペタと周囲を探る。どうやら、僕は狭い木箱か何かの中に閉じ込められているようだ。
いつまでも、ここでこうしているわけにもいかない。耐えかねた僕は、思い切り、木箱の蓋を蹴り開けた。
「ぷ、はあ……なんなんだよ、ここ……」
呟きつつ、周囲に視線を這わせる。
そこは、一見すれば木造の建物の一室のようだった。僕の部屋より一回り広いくらいだろうか。
見れば、すぐ横合いに窓があった、僕は木箱から抜け出し、それを覗き込む。
覗き込んで、気がついた。
ここは単なる木造の小屋ではない。
だって、その証左に、窓の外には見渡す限りの海原が拡がっていたのだから――。
「――どういうことだよ」
僕は混乱する頭を必死に冷やすため、虚空に問いかける。
けれど、答えなんてない。答えるはずもない。ただ、波に煽られた船室が、ギシギシと軋むばかり。
船室。
そう、ここは恐らく、船の中なのだ。
僕は確か、英と一緒に屋上から落ちた……はずだ。
それからのことは、よく覚えていない。ただ、真下はコンクリートだった。まかり間違っても、助かることはないはずだが。
「……いや、そもそも、無傷で船に乗ってるのがおかしいか」
深呼吸。酸素が体に行き渡れば、少しずつ思考もクリアになっていく。
まずは、この船室から外に出てみよう。もしかすると、甲板に出れば何か見えるものがあるかもしれない。
そう考えた僕は、出口に向かおうとして。
「……か、無理を……ても」
「……です、このくら……ますから」
「そうか? もし……なら、すぐに……」
扉の向こうから、声が聞こえてくることに気が付いた。
僕は思わず、身を跳ねさせる。
この船には、僕以外の誰かも乗船しているようだ。
声を聞く限り、女性が二人、それに、男性が一人。乗組員の方だろうか?
話を聞けば、このトンチキな状況にも、少しくらい説明がつくようになるかもしれない。
僕は少しだけ扉から距離を取り、その人物が入室してくるのを待った。
扉が開いたのは、それから数分ほどの時間を置いてからだった。ゆっくりと開け放たれたその向こうには、一人の少女が立っていた。
まず目に入ったのは、燃えるような赤い髪だった。けれど、それを覆い隠すように被ったエナン帽とローブは、ありきたりだが闇夜のように真っ黒だ。
コスプレだろうか? どこかで見たことがあるような、まさしく魔法使い、とでも言いたげな風貌をしている。
彼女はガラス玉のように澄んだ瞳を、僕に向ける。薄い唇が、驚きのせいか少しだけ開かれたところで、ぴたりと固まっている。
「――っ」絶句している少女に、僕は一歩歩み寄った。
「な、なあ、あんた。ここは、どこで――」
僕は、ほんの少しだけ突っかかりながらも、どうにか、その程度のコミュニケーションは取ろうとした。
しかし、それは無駄に終わってしまう。
――凄まじい悲鳴に、言葉のほとんどがかき消されてしまったからだ。
「き、きゃあああああああ!!」
半泣きになって叫ぶ彼女に、僕は思わず手を伸ばす。
一体、何故悲鳴を上げられなければいけないのか。
「ちょ、ちょっと待てって、僕は――」
「――おい、大丈夫か!」
勢いよく、扉の向こうから飛び出してきたのは、大柄な男だった。白髪混じりの髪に、意志の強そうな瞳。それに何より、丸太のように太い腕。
彼は叫びながらしゃがみ込む少女と、そこに腕を伸ばす僕――見方によっては、襲いかかろうとしているように見えたかもしれない――にそれぞれ視線を投げると、そのまま鋭く、僕の方に踏み込んでくる。
「いや、ちょ、待っ……」
弁解は無用。男の大きな手のひらが、僕の首元に巻きついたかと思うと、そのまま恐ろしい力で引き倒された。
後頭部に強い衝撃と、鼻の奥に血の味がする。目の前でちらつく星は、錯覚ではないだろう。
僕を押さえつけた男は、そのまま、背後に首を向ける。
「モネ、怪我はねえか! 全く、こいつめ……一体、どこに潜んでたんだ」
彼は後ろ襟を掴み上げると、そのまま、僕を視線が合う高さまで、持ち上げた。それも、片手でだ。
服が首に、体のあちこちに絡まり、強く締め付けられるような痛みが走り、僕は思わず、顔をしかめた。
「は、はい……その人が、急に出てきて、ビックリしただけで……」
「そうかよ、なら良かったが……おい、お前。密航とはいい度胸じゃねえか。自分が誰の船に乗り込んだのか、わかってるんだろうな?」
男は酒に焼けた声で、僕にそう詰め寄った。
そんなことを言われても、僕にはわけがわからない。とにかく今は、舞った砂埃と締め付けられている苦しさに、咳き込むことしかできない。
「げほっ、ごほっ……な、なんだよ、僕はただ、気付いたらここに……」
「気付いたら、で密航はしねえだろ。一体何が目的だ? 金か、それとも、姫様の命か?」
姫様?
一体、こいつは何を言っているのか。
ともあれ、このままでは非常にマズい。このまま落とされてしまったり、船から投げ出されてしまえば一巻の終わりだ。
あの世で溺れ死ぬなんて、冗談にもなっちゃいない。
「知らないって、お前らのことも、姫様とやらも。本当に、僕は――」
と、口にしようとして。
目の前の彼の姿が、何か、引っかかった。
向こうの少女もそうだ。どこかで、見たことがあるような……。
「……まさか」僕は、頭に浮かんだ名前を口にする。「あんた、戦士アキレアか……?」
その言葉に、男は驚いたように目を剥いた。そして、僕を掴む手指に、さらに力が入る。
「何だ、お前、俺たちのこと知ってるのか。じゃあ、やっぱり刺客か?」
「ち、違う、そうじゃなくて」
「そうじゃないなら何なんだ、ええ?」
ぐらぐらと揺さぶられながら、僕は必死に言葉を探していた。
だって。
だって、彼らは。
「アキレア、何かあったのか?」
扉の向こうから、呼びかける声がする。凛とした、女性の声だ。
アキレアは僕から視線を逸らすことなく、その声に応えた。
「いや、倉庫にネズミが紛れ込んでたみてえでな、今、捕まえたところだ」
「そうか、それならいい――」
そんなやり取りをしながら、さらに誰かが部屋に入ってくる。
それと同時に、僕の視線はそちらに奪われる。
入ってきたのは、先程の魔法使いよりも頭一つ背の高い、美しい女性だった。
さらりと宙を流れる黄金の髪は、腰ほどまでの長さ。体にフィットするような軽装の鎧には、どこか優美さを感じさせるような装飾があしらわれている。
「そいつか、賊は。一体、どうしてこの船に――」
彼女はそう口にするが、僕の耳には、ほとんど入ってこない。
「……あんた、は」
「賊に名乗る名前などないが、今は国を失った身だ。惜しむこともあるまい」
彼女は僕を見据えると、堂々とした様子で、名乗りを上げる。
けれど、そんなことをしなくても。
僕は。
この女性のことを知っている。
だって。
「私の名はエーデル、フロス王国の第一王女……だった女だ」
彼女は、祖父の書いた絵本の、主人公なのだから。