第五十話 南海に潜む影
相良城の評定は、朝から重苦しい空気に包まれていた。
広間の中央には大きな海図が広げられ、その上には赤い墨で幾筋もの線が引かれている。相良港からアルフェイド王国へ至る交易路。その途中、南海諸島北方の狭い海峡には幾つもの赤い印が記されていた。
それは、消息を絶った船が最後に目撃された場所だった。
悠真は腕を組み、黙ったまま海図を見つめる。
戦に勝ち、港を整え、交易を広げた。その成果がようやく形になり始めた矢先に起きた異変だった。
「現在までに消息を絶った船は十一隻。」
源蔵が静かに報告を始める。
「相良商船四隻、アルフェイド王国商船三隻、西方商会所属二隻、その他二隻。いずれも同じ海域で消息を絶っております。」
「積荷は。」
「鉄、塩、米、織物、陶器。どれも利益の大きい品ばかりです。」
宗春が海図へ目を落としたまま呟く。
「偶然とは思えませぬな。」
「ああ。」
悠真も頷いた。
襲われた船には共通点がある。
高価な積荷を積み、利益の大きい航路を通っていたこと。
つまり敵は積荷の内容も出航日も把握している。
無差別ではない。
明確な意図を持った襲撃だった。
◇◇◇
「内通者の可能性はどうだ。」
岩倉の問いに、源蔵は苦い表情で首を横へ振った。
「港役人、荷役人、商会の帳簿まで調べました。怪しい者は何人かおりますが、決め手になる証拠はありません。」
「情報が漏れる場所は港だけではありませぬ。」
宗春が静かに続ける。
「商会、船乗り、各地の市、あるいは異国の商人。交易が盛んになるほど、人の出入りも増えます。」
「情報は金になりますからな。」
悠真は深く息を吐いた。
港を育てれば人が集まる。
人が集まれば金も情報も集まる。
そして、その情報を売る者も現れる。
港が発展したからこそ生まれた、新たな問題だった。
◇◇◇
しばらく沈黙が続いた後、悠真は海図の南海諸島へ指を置いた。
「まずは敵を知る。」
「宗春、この海について教えてくれ。」
宗春は別の海図を広げた。
そこには大小百を超える島々が点在し、複雑な海流と暗礁が細かく描き込まれている。
「南海諸島は大小百余りの島からなる群島です。古くから交易船の補給地であり、同時に海賊の根城でもあります。」
「島ごとに有力者がおり、どこか一つの勢力が支配しているわけではありません。」
「つまり海には国境がない。」
悠真の言葉に宗春は静かに頷く。
「ええ。海を支配するのは領地ではなく船です。」
◇◇◇
その時、広間の障子が勢いよく開いた。
「その通りだ。」
豪快な声と共に姿を現したのはガロンだった。
肩には巨大な斧を担ぎ、いつものように遠慮なく評定の間へ入ってくる。
「陸の理屈で海を考えると痛い目を見る。」
そう言って海図を覗き込み、太い指で例の海峡を叩いた。
「ここは襲うには最高の場所だ。」
「左右は断崖、潮は速い。船は速度を落とさなきゃ通れねぇ。」
「待ち伏せするならここしかねぇな。」
悠真は腕を組んだ。
「やっぱり待ち伏せか。」
「間違いねぇ。」
ガロンは断言する。
「しかも相手は素人じゃねぇ。」
「海流も風も全部知り尽くしてる。」
海を生きてきた男だからこそ、その言葉には重みがあった。
◇◇◇
評定は昼を過ぎても続いた。
失踪した船の種類。
潮の流れ。
風向き。
航海日誌。
過去十年分の航路まで調べ上げたが、敵の正体だけは見えてこない。
結局、全員が同じ結論へ辿り着いた。
「情報が足りませぬ。」
宗春が静かに言う。
敵の姿が見えない。
だから対策も立てられない。
見えない敵ほど恐ろしいものはない。
◇◇◇
悠真はゆっくり立ち上がった。
「なら見に行こう。」
一同が顔を上げる。
「若様。」
「俺自身が海を見る。」
源蔵が慌てて制止する。
「危険です!」
「危険だから行く。」
悠真は穏やかに笑った。
「机の上だけじゃ分からない。」
「敵がいるなら、敵の海を見ないと勝てない。」
◇◇◇
その日の夕刻。
港では黒牙丸の出航準備が進められていた。
船底の点検。
帆の張り替え。
水樽と保存食の積み込み。
大型弩や火矢の整備。
久しぶりの本格航海に、黒牙海賊団の船員たちの表情にも自然と緊張が浮かんでいる。
ガロンは船首に立ち、静かな海を見つめていた。
「戻ってきたな……。」
かつて己が縄張りとして駆け回った海。
だが今、その海には別の支配者がいる。
それが妙に気に入らなかった。
◇◇◇
夜。
月明かりが港を白く照らしていた。
悠真もまた黒牙丸を見上げている。
そこへ楓が音もなく姿を現した。
「若様。」
「忍びを四人同行させます。」
「海でも役に立つか。」
「陸ほど自由には動けません。」
楓は小さく笑う。
「ですが、見張りくらいならできます。」
悠真は静かに頷いた。
今必要なのは武力ではない。
敵の正体を知ることだった。
◇◇◇
出航を翌朝に控えた、その時だった。
一羽の伝書鳩が夜空を切り裂き、港へ舞い降りる。
源蔵が急いで書状を受け取る。
封を切り、目を通した瞬間、その顔色が変わった。
「若様……。」
悠真は書状を受け取り、ゆっくりと読み進めた。
文は短い。
だが十分だった。
『本日未明、アルフェイド王国護衛艦一隻、消息不明。』
『失踪海域、南海諸島北方。』
『敵勢力、依然不明。』
悠真は静かに書状を畳む。
敵は商船だけを狙っているのではない。
護衛艦すら消える。
つまり相手は、想像以上の力を持っている。
「急ぐしかないな……。」
静かな港へ夜風が吹き抜ける。
その風は潮の香りだけではない。
海の向こうから、新たな戦乱の気配を運んできていた。




