第17話:運命の乗車。起死回生の名付け
パチ、と音がするほど、急激に視界が広がった。
「何やってんだ! しっかりしろっ!」
振り返ると、拓海がバスの乗車口から乗り出して叫んでいる。
「先客、……っ、無事かっ!?」
「ぼーっとしてんじゃねぇ! 正気に戻ったなら、早く乗れっ!」
言われるまま、バスへ駆ける。
さっきまであったはずの壁は、もう消えていた。
「旅人っ! 怪我はないか!?」
乗車口のステップに足を掛けた途端、拓海に引っ張り上げられた。
あまりの勢いに転びそうになりながらも、手すりを掴んで耐えると、拓海が体中を確かめるように触れてくる。
「大丈夫。どこも痛くない」
それより、怪異のことが気になって、バスの窓から外を見る。
巫女はその場に立ち尽くしていた。もう、黒い靄をまとってはいない。
「いきなり靄に覆われて見えなくなったんだ……何も聞こえてこねーし。バスからは降りらんねーし……もう、焦った……」
拓海がへなへなと座席に座り込む。
心配を掛けて悪かった。
でも、あれは、必要なことだった。
「……たぶん、もう大丈夫だ」
再び巫女へと視線を送ると――
さっきまで立っていた巫女は膝をつき、末端から砂になりつつあった。
靄は巫女の周囲をグルグルと漂っている。
不気味なのは変わらないが、オロオロと戸惑っているように見え、もうこちらに何かをするとは思えない。
ガッシャン!
重い音を立てて、バスの扉が閉まる。
『ご乗車ありがとうございます。このバスは新宿駅行です。――発車します』
いつの間にか運転席に戻っていた運転手がアナウンスを終えると、バスはゆっくりと発車した。
ゴゴゴ、プシュ、ゴゴゴ、プシュ、と古いバス特有のうるさい音を立てながら、バスは進行していく。
カーブを曲がると、霧守村停留所は見えなくなった。
「……はあーーー……、ようやっと、って感じだな……本当にこれで帰れんのかな」
「そうじゃないと困るよ」
二人で顔を見合わせて苦笑する。
もうあとはバス任せだ。どこに着くのかは、俺たちにはわからない。
『おい』
運転手がマイクを使って、俺たちを呼んだ。
「どうかしました?」
悪路のせいで、やけに揺れる車内でバランスを取りながら、運転席へ向かう。
「前の方に座ってろ。しっかり捕まってろよ」
「え……はい?」
その理由を尋ねようと思った瞬間、ガタンと激しく車体が揺れた。
「――来るぞ……!」
運転手の声をともに、ガシャン!と音を立て、拓海が開けた窓が一斉に閉まった。
それに驚いていると、遠くで何かが軋む音がした。
最初は小さかったその音が、脈動するように段々と大きくなり――
ドォンッ!!!!
「うわあああっっっ!?」
車体に、巨大な何かがぶつかった。
反射的に拓海を庇い、握った手すりにしがみついたが、背中をしたたかにぶつけてしまった。
「ぐっ!」
「だ、大丈夫かっ!」
ゴリゴリゴリゴリッ!!
メキメキメキメキッ!!
しかし痛がっている暇はない。
薄く開けた視界の端で、車体後部がへしゃげているのが見えた。
――――キュリィィィィィッ!!!
空間を引き裂くような、鋭く、高い音が鼓膜を刺した。
「ちょっ、マジかよ……!」
「舌噛むぞ、黙ってろ……!」
バキッ、メキッ、バキバキバキッ!
車体が歪む。
ガチャン! ゴリゴリッ!
お互いの声がやっと聞こえる騒音の中、地の底から響くような音が押し寄せてきた。
オオオオオオオォォォォ………オオオオオォォォォ…………
ビシッ! ビシビシッ! パァンッ!
バスの窓ガラスが一斉にひび割れ、吹き飛んだ。
――――キュリッ、キュリキュリッ!
バスの中を舞うガラスの破片とともに、あの不気味な鳴き声が、すぐ耳元で弾けた。
「うわぁっ!」
周囲から生暖かい風が車内に吹き込んでくる。
息苦しい。普通の空気じゃない。
同時に揺れ方が変わった。
ぐらんぐらん、とまるで激しい波に揺れる船のようだ。
内臓が浮くような感覚に酔いそうになるが、それでも反動の大きい衝撃に比べれば、耐えようもある。
「しっかり握ってろよっ」
運転席に近い手すりに拓海をしがみつかせ、背中を覆うようにして脇にある手すりを強く掴んだ。腰を低くして、揺れに耐える体勢を取る。
「こ、ここ、どこだ……?」
拓海が怯えを含んだ声で呟いた。
ガラスがなくなった窓は大きな穴のようだ。そこからは道も木々も見えない。渦巻く闇が広がっている。
「怪異に飲み込まれたかも……さっきまで、俺がいた場所と似てる……っ」
ぐわんぐわんとバスが揺れる。段々と揺れが大きくなってきた。
外からの空気が妙に生暖かくて、かび臭い。息まで苦しくなってきた。
ゴキッ、バキッ!
鈍い音が一度鳴った。
次の瞬間、骨が軋むような連続音に変わる。
ドォンッ!!
ひと際大きな音が響き、車体がガタガタ激しく揺れた。
握った手すりが汗で滑るのを、腕を回して耐える。
「……後ろがっ!」
拓海の声で後ろを見ると、後部座席は無残にも潰され……今まさに、破壊されている最中だった。
天井と床が、音を立てながら近づいてくる。
その間に挟まれたシートが、押し出されるようにこちらへせり出してきた。
あと数列。
それだけで、ここまで届く。
――――キュリ……キュリ、キュリ……
逃がさない、と言わんばかりの湿った音が、たわんだ床板の隙間から這い上がってきた。
鈍く、何かが限界を迎える音がした。
「運転手さんっ!!」
思わず叫ぶと、運転手は前方を睨み、真剣な顔でハンドルを握っている。
「正直、分が悪い」
破壊音の中、不思議と通る声が聞こえた。
この状況では暢気とも言えるほどの、感情のこもらない声だ。
「うわ、あ……っ!?」
足元の床がたわんだ。
そのまま持ち上がるような感覚がして、このまま潰されるのか、と目を瞑った。
「さて、どうするか」
まるで、昼食のメニューでも考えるような声だった。
ハッと気付くと、いつの間にか、座席に座っていた。
車は壊れていない。
だが、座席の距離がやけに近い。
さっきまで背後にあった空間が、ごっそり削り取られている。
「これは……」
目の前で中腰になった運転手が、涼しい顔で外を見ている。
窓のガラスもひび一つ入っていないが、外はやはり幾層にも重なった闇が渦巻いている。
怪異の声は聞こえているが、どこか遠い。それに揺れも衝撃も全くない。
ただ、バスは完全に停止しているようだ。
「ナリを削って締めた。しばらくは保つだろう」
運転手は前の席に横座りになり、恒一と拓海に目線を合わせてきた。
「だが、このままだと動けない。あれは、縛り手を失った。怒りの行き場がない」
「あなたは?」
恒一は問いかけた。
「あなたも怒ってるんじゃないんですか?」
運転手は首を僅かに傾けた。
「あの怪異に協力してたんでしょう?」
「……ああ、俺も守宮の巫女は気に入ってたからな。だから役目も引き受けた。だが、怒っちゃあいない。――お前を呼んだのは巫女だったんだろう?」
恒一は頷いた。
「巫女の望みだったんなら、問題ない。俺もお前たちを送ったら、役目は終わり。……のはずだったんだがな」
運転手は窓の外に目を向けた。
オオォォォォ………オオオォォォォ…………
恒一たちには真っ暗な闇が渦巻いているようにしか見えないが、運転手は違うのだろうか。一点を凝視してため息を吐いた。
「このままじゃ無理だ。収まるまで、動けん」
「収まるんですか?」
「無尽蔵ではない。いずれは尽きる。……まあ、10年も暴れりゃあ、少しは」
「そんなに待てないって!」
黙って聞いていた拓海が大声で割り込んできた。
「あのクソみたいな村で、もうずっと待ってたんだ! もうこれ以上、足止めなんかされてたまるかよっ!」
「クソみたいな村か」
運転手が目を細める。
「あいつも甲斐ない話だな。まあ、靄にヒトの心がわかるはずもないが」
「悪気がないのは感じてましたよ」
俺の言葉に、拓海と運転手がこちらを向く。
「俺を攻撃したのだって、巫女を手放したくなかったからだと思うと、腑に落ちます」
あそこは生きている人間が住める場所じゃなかった。
だけど、現実世界に戻れない人たちに取っては、大事な過去に包まれた暖かい居場所だったんだろう。もちろん成仏したい人たちもいただろうけど、それでも。
俺は、最後まで壊していいのか決断できなかった。
結局は自分の我を通して、巫女を解放してしまったけれど。
「手はある」
唐突に運転手が話し出した。
「俺はこのままじゃ動けない。だが、役目を変えれば別だ」
「俺たちを見捨てるのか?」
「――どうだ?」
運転手は恒一に目線を向けた。
「…………具体的には?」
「仮でいい。呼び名を付けろ」
「呼び名?」
“名前”に特別な意味があるのはわかっている。
拓海や巫女に取っては、記憶のトリガーだった。
では、怪異に取っては?
「呼び名は性質だ。役目になることもある」
「バス……から変えるとなると。スポーツカーとか、特急列車とか?」
拓海の意見に運転手が首を振る。
「乗り物では、変わらん」
「それって、俺たちが考えなくちゃなんないの? 自分で付けるのが一番いいじゃんか」
「お前たちの名前だって、自分で付けたものじゃないだろう」
「そう言われたら、……そうか?」
拓海が腕を組んで考え始める。
「巫女と会う前は、なんて呼ばれてたんすか?」
「風だ」
「風さん?」
「……名前じゃない。ただの風だ」
「風じゃダメなんですか?」
「悪くはないが、弱いな」
ふと、恒一はあることを思い付いた。
「例えば『北風の寒太郎』とかにしたら?」
「……はぁあ?」
ずん、と声のトーンが落ちた。
「忌々しいことを思い付くんじゃねえ」
無表情が崩れ、瞳孔の開いた目が吊り上がる。
ビリっとした緊張が車内を満たして、拓海が思わず服の裾を掴んできた。
「わかりました。固有名詞はダメなんですね」
恒一は降参のポーズでアピールした。
運転手は警戒しているのか、無言で睨んでいる。
風という言葉に、懐かしい童謡を思い出して言ってみただけなんだけど。
(やっぱり人外にも“名前”には特別な意味があるみたいだな。そして呼び名は役割か。なるほど)
「んー、となると、風を強くした……強風とか、台風とか?」
「……いい」
拓海の言葉に運転手が顔を上げる。
「先客、待って」
「あ、うん」
拓海は素直に口を閉じた。
運転手は無表情ながらも、苛立っているのが見える。
(風、は元の性質……それだけじゃない、気がする)
言語にならない感覚が、運転手から伝わってくる。
それは、人間に対するものとあまり変わりない感覚だ。
俺は昔から、相手の性質を見抜く目があった。
どれだけ柔和な態度を取られても、周囲の評判が良くても『ヤバいやつ』を見抜けた。
逆もしかり。
「――道、だな」
恒一の言葉に、運転手が目だけを見開く。
「送迎やってるうちに、変わったんでしょうね。風の特性も残ってるっぽいから……呼び名は……」
考えながら、そのままを言葉にして吐き出す。
「――道渡る風」
「考えたな」
運転手が無表情に戻り、窓の外を見る。
「道の先へ、か。――いいだろう」
一瞬、空気が凪いだ。
次の瞬間――
ぶわっと車体が霧散した。




