そして日常へ_5 【第一章 了】
「おとなしくしろっての。動くと危ないぞ。じゃあカナ、行くよ」
「あれ、マリーはどうするの? 一人じゃ危ないんじゃ……」
ザックの両手は塞がっている。これ以上に抱えるのなら、背負うくらいしか方法はない。いくら七央がヒョロヒョロしていてマリーが細身だといっても、細身とは言い難い私も含めての成人二人を抱えたうえでもう一人というのは厳しいだろう。
でも彼女みたいなフェロモン系美女をここに一時的にでも置き去りにするとか、こんな薄暗い道を一人で歩かせる方が危険なんじゃないかしら。心配する私に艶やかに笑ったマリーは、ひらりと手を振った。
「私なら大丈夫よぉ。不審者くらい返り討ちにできるわ」
「でも」
「うふふ。私のことも心配してくれるのね。本当カナって良い子……おやすみなさい。またね」
そう言ってさらっと投げキッスをすると、私たちに背中を向けて迷わず歩き出す。もう一度、本当に大丈夫なの? とたずねた私にザックはニコリと笑って、なにも言わずに抱きかかえている腕に力をこめた。これは――と危機感を覚えて彼の首にもう一度強くしがみつく。
予告もなく強い風に巻き込まれ、風景が飛んでいく。落とされたら困る、と必死でしがみつけば
「ふふふっ、良いね、最ッ高」
ザックは何とも楽しげに笑ったのだった。
時間にしてほんの数分。あっという間にひとけのない路地に私たちを運んだザックはそっと地面に下ろしてくれる。いや、優しく下ろしてくれたのは私だけで、急停止すると同時に七央はポイっと投げ捨てられていた。汚れを払って立ち上がった七央はそれでも律儀に「ありがとう」なんて言うけれど、投げかけられた側は嫌そうな顔をして手を払っただけだった。
「カナ、俺はここまでしか送れないからさ、こんな時間だし気を付けてね。少年はちゃんと無事に連れて帰れよ」
「言われなくても」
「じゃあカナ」
ザックが耳元に顔を寄せてくる。聞き逃すまいと耳を澄ませば「おやすみ」と低く囁いて、ちゅっ、と軽いリップ音を立てられた。触れられてはいないものの、その音にぞわっと鳥肌が立つ。息をのんだ私に満足げに笑うと「じゃあ、ね」と彼は近くの屋根の上へと飛び上がり、その姿はすぐに見えなくなった。
「なにされたの?」
耳を押さえている私を見て、七央が険しい顔になる。このままではまた七央の中でのザックへの警戒心が増えてしまう。なにもされていない、と慌てて手を放して両手を握り合わせた。
「カナ姉。帰ろうか」
「うん」
はい、と出してきた七央の手を握る。ゆるく握り返してきた手は、私の後をついてきていたあの頃よりもずっと大きかった。
そんなこんなで七央の家にお邪魔して一晩過ごした。おばさんが使って、と言ってくれたのは七央の部屋で、部屋を追い出された彼はリビングのソファーで一晩を過ごしたようだった。
翌朝、まさか部屋の乗っ取りに会うなんて、と七央は寝不足気味な顔で呟いていた。本当にごめん。何日か居ても良いという言葉を丁寧に断って、自分の家に帰る。
誰もいない部屋。
達也への執着が消えたとたんに、この部屋も絶対に引っ越したくないというほどのものでもなくなってしまった。条件はいいけど、オバケも出たし、なによりあのベッド。もう使えない。
不動産屋に連絡をして、月末に退去したい旨を伝える。新居を探すのにも引っ越し準備をするにも、これだけあれば間に合うだろう。やらなければいけないことはたくさんある。落ち込んでいる時間はない。
まだこの家の鍵は達也が1個所持しているから近いうちに取り返さなくてはいけない。まだ彼の私物もいくつか置かれているから取りに来てもらわなければ。その時は、申し訳ないけどまた七央に立ち会ってもらうことになるだろう。
達也にメッセンジャーアプリを使って、鍵を返してほしいこと、荷物を取りに来る日程を決めてほしいという話をする。それから着替えてちょっと贅沢なランチをして、仕事までスマホで新居を探すことにした。
しかし、そう簡単にいい物件なんて見つからない。ああでもない、こうでもない、とスクロールを続けていた私に、思わぬところから救いの手が差し伸べられた。
「カナさん? 今度はどうしたんですか?」
ずっとスマホの画面を睨んでいた私に気付いたアンディが、少しだけ顔を覗き込むように身体を傾げさせる。
「実はね。彼氏と別れたから、心機一転引っ越そうと思って」
「……ええと、それは……」
突然そんなことを告げられたアンディは言葉に詰まる。まあ、そういう顔になるよね、と思うような表情になったアンディは口元を手で覆った。
「私、彼と一緒に住んでたから。あの家に住み続けるのもどうかなぁって。もう月末に出ますって連絡しちゃったんだけど、実はまだ次の家見つかってないのよね。家見つけてから出るって連絡すればよかったかなぁ。なかなか良い条件の部屋って見つからないものだねー」
心配させたくない一心で言葉が増える。できるだけ軽い口調で言えば、アンディはすぐにいつも通りの優しい笑みを浮かべてくれた。
「条件って、なんですか?」
そういえば、この人引っ越し好きみたいなことを言っていた気がする。いい物件とか検索サイトでも知ってるのかしら。ちょっとだけ期待しながら、最低限の条件をいくつか挙げていく。
「ここに通いやすくて――うーん、一人だからワンルームでも良いかな。部屋の大きさはそんなにこだわらない。出来ればユニットバスじゃない方が良くて、あっ! 洗濯機は室内置き! これ絶対ね。コンロは可能なら三口が良いけど贅沢は言わない。ワンルームに三口コンロなんてないだろうし。それで、家賃の予算は大体……」
いろいろ並べていくと「なるほど」と真面目な顔で頷いて、自分のスマホで何やら調べだす。そしてすぐに画面を私に向けてきた。
「ここはどうですか? カナさんの言っていた条件に近いのではないでしょうか」
見せてくれたのは、今と同じ駅が最寄りのマンション。でも方向は真逆だから町名は違う。あっち側が生活圏だったことはない。近所なのにあまり馴染みのない範囲だった。
予算ぎりぎりオーバーだけど、新築らしいし見た目もオシャレ。しかも、即入居可! 内覧とかできるのかしら、と思っていると「気に入りましたか?」とアンディは別の写真を見せてくれながら私の目を覗いた。
「素敵ね。今の家と最寄りが一緒だから引っ越した気にならないかもしれないけど」
「ああ、そうですよね。ごめんなさい。元カレさんと会う可能性があったりするでしょうか」
シュン、と落ち込んでしまうアンディに焦って、私は心持ち大きな声になってしまう。
「あ! そうじゃなくてね! 単純に近いなって思っただけで、近ければ荷物運ぶのも楽だし何より引っ越したい理由はあの部屋から出たいだけだから」
極端な話、同じ建物の別の部屋でもいいくらいなのだ。
「本当ですか?」
「うん」
ならば、と彼は爽やかな笑顔で言った。
「あしたの昼にでも見にいかれますか? 私の知人が持っている物件なので連絡しておきます」
「本当? 助かる! ありがとう、アンディ」
「いいえ、カナさんのお役に立てて嬉しいです」
引っ越して生活が落ち着いたら、また次の恋に踏み出す決心もつくだろう。この先は少し不安だけど、楽しみにもなってきた。
親の結婚しろコールをうまくかわしつつ、心から愛し合える恋人――しいては結婚相手を探したい! 今度こそいい人が見つかりますように……神様お願いしますっ!
私は心の中で祈るのだった。
第一章 終
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ここまで読んでくださってありがとうございました。
第二章も完結済みなので、ゆっくりUP指定校と思っています。
よろしくお願いいたします!




