二章-3
施設から出た後。
街中から住宅街へ移行するところまで、紫音と愛乃は歩いていた。プールからあがった後の気だるさが、体内で燻っている。街中の、賑やか過ぎず、静かすぎない雰囲気が、二人を歓迎している。
目の先にある小さな橋を渡ると、そこは住宅街だ。街中とは違う、整然とした空気が漂っている。秩序正しく並べられた家の屋根が、夕方の強い日差しに顔を向けていた。
角を曲がったところで、唐突に愛乃から話しかけられる。
「ねえ」
「は、はい・・・・・・?」
突然話しかけられ、驚いた紫音は、胸に手を置きながらも返答した。先程耳に、目にした愛乃の秘密に頭がいっぱいで反応が遅れてしまった。
それに構うことなく、愛乃は紫音に視線を向ける。
「自分がやらなきゃいけないこと、分かってる?」
思いがけないその言葉に、紫音は無言になるしかなかった。
『番号』についての説明を聞いた。だがしかしそれだけだった。自分が何をするべきなのか、これからどうすればいいのか、その部分について、考えないようにしていた。
紫音は歩み進めながら咄嗟に考える。
「ええと・・・・・・・・・・・・自分の身を守ること、ですか?」
「合ってるけど違う」
躊躇いもなく否定され、紫音は息を詰める。だが愛乃は紫音が構えるのを待たずに、続けて言った。
「あなたがやらなきゃいけないことは、自分の能力を知ること」
「自分の能力を・・・・・・知る?」
「そう。愛留の能力、〈絶対速度〉みたいに、攻撃性に優れているものだったら自分で自分の身を守れるけど、私みたいに攻撃性に優れていないと・・・・・・」
愛乃は腰に巻いた、拳銃の入った鞄を叩いて告げる。
「こういうものを使って、自分の身を守らなくちゃいけない」
だから自分の能力を知ることは重要だと、愛乃は再度言う。
紫音は愛乃の話を聞き、自分は流されてばかりだなと思いながらもそうするしか他に無いとも思った。彼女の話は、少なくとも自分にとって大切なことだ。彼女の言うとおり、自分は自分の能力を把握するべきだ。
否、言われたことしか自分はできないのだ。自分で気づくことができないから。昔からそうだった。自分自身で考えることが苦手で、よく人の言いなりになっていた。だからこそ、大切なものを失ってしまったのだろう。
ふと、紫音は昔のことを思い出した。思い出さないようにしている、封じた記憶。
再び角を曲がり、自分の家が見えたところで紫音は自分の思考を止めた。
「あれ・・・・・・?」
家の扉が開いていた。普段ならば、玄関が丸々見えるほど扉を開放していることはない。紫音は不穏な予感にとらわれ、愛乃と目を合わせた。
愛乃が鞄からスマートフォンを取り出し、紫音に先に行くよう顎で促す。紫音は頷いて玄関先へと向かった。
「もしもし。愛留。紫音の家の様子がおかしい。すぐ来て」
背後から緊迫した様子の愛乃の声が聞こえる。紫音は背中でそれを感じながら、玄関で靴を脱ぐ動作をする。おそるおそる声を出した。
「ただいま・・・・・・」
踵の部分を持ち、靴を揃えてから家の中に入る。玄関は念のため開けたままにしておいた。
立ち止まって愛乃が電話を終えるまで待つ。愛乃が来るまでの間、いつもよりも時間が長くなったように思えた。
速めに電話を切った愛乃が後から靴を脱いであがり、紫音よりも若干前に移動する。少しずつ歩を進めていく。
「お母さん、友達連れてきたよ・・・・・・?」
そう言った瞬間、台所あたりから複数の食器が割れる激しい音がした。
「お母さん!?」
突如として響いたその物音に、紫音の身体がすくんだ。
足が棒になり全く動かない。最悪だ。こんなときにいつもの癖が出てしまうなんて。
だが、愛乃が紫音の手首をとったことで、その呪縛はあっさりと解かれた。愛乃に引っ張られ、震える足が動く。
駆け足で抜けた廊下。台所と廊下を隔てる扉のドアノブに手をかけた愛乃は、勢いをつけて扉を開いた。
台所には、母親にバットを振りかざしている男がいた。
「お母さん!」
紫音が叫んだ瞬間、
きぃん、と遠い音が鳴り、星屑が舞った。
男がバットを振り下ろすと、薄い、透明な膜のようなものが現れ、母親を覆う。大仰な動作で振り下ろされたバットはその膜に弾かれた。
「え?」
一体何が起こったのか。
理解できない紫音は、思わず呆けた声を出した。
愛乃が厳しい目つきで紫音を見る。
「あなた、何をしたの?」
「え・・・・・・? 私・・・・・・?」
愛乃はそう言う合間にも、慣れた手つきで鞄から拳銃を出し、男に向けて発砲する。運が良かったのか悪かったのか、銃弾は男の右肩を掠めた。振り向き様に撃たれた男は、傷口をおさえながら顔を晒す。
その顔は、紫音がよく知っている人物だった。
「お、お兄ちゃん・・・・・・?」
「よお、久しぶりだな。紫音」
約六年ぶりに会った兄、青花の顔は、大人びていたが、狡猾に歪んでいた。
何故兄が自分の家にいるのか、何故母親にバットを向けているのか、紫音には分からない。兄は六年前、本当の家族を殺した。兄が少年院に入った以降、一度も会うことはなかったのだ。
当時よりも背丈が伸び、鼻筋も通ったその姿は、成人したばかりのものだった。髪も昔と比べると幾分か長くなっていて、手足も異様に細い。昔と違う点が幾つもあったが、それでも紫音は兄だと分かった。髪の色も、目の色も青花は黒く、一見似ているところは無いが、目のつくりも含め、全体的な顔立ちは非常によく似ていた。
そして、何よりも目を引いたのは、こめかみに浮かぶ【248】の番号だった。
・・・・・・お兄ちゃんも番号だった!?
そう言いたかったが、紫音の喉は渇ききり、ひゅー、という音しか鳴らなかった。
「元気にしてたか?」
変声期を終えた低い声で、紫音に言う。
バットを左手に持ちかえ、背筋に怖気が走るような気味の悪い笑みを浮かべた。その笑みと、昔の青花の、紫音に暴力を振るっていたときの笑顔が重なり、ど、と汗が噴き出る。
「あ・・・・・・・・・・・・」
「あなた、何」
思い出したくなかった記憶に身体を緊張させる紫音を、背で庇うように愛乃が前に立つ。
恐怖に身体を縛られる紫音。
紫音を前にして純粋な狂気を帯びた笑みを浮かべる兄。
その二人の間に立つ愛乃はどこまでも平然としていた。
暫しの間、沈黙が流れる。
張り詰めた糸のようなその沈黙は、いつ切れてもおかしくはなかった。
その糸を切ったのは、紫音でも兄でも愛乃でもなく、兄の後ろでしゃがみこんでいる育ての母親だった。
「逃げなさい・・・・・・! 紫音・・・・・・!」
その声に、兄の顔が怒りで真っ赤に燃えた。
「うるせえ女!」
再び母親へ振り向き、バットを上に持ち上げた。その様子に紫音は、ひ、という引きつった声しかあげられない。
行動に移したのは紫音ではなく、愛乃だった。
右手に持った拳銃を左手で支え、適確に撃つ。銃弾はバットに命中した。
「答えて。あなたは何者?」
問答無用な様子の愛乃に、兄は舌打ちを放つ。
「めんどくせえな・・・・・・おい、【99(ナインティナイン)】」
「承知」
突然、紫音達の背後から男の低い声が聞こえた。
「!」
紫音と愛乃が反射的に振り向くと、一人の男が開け放った台所のドアの向こうに立っていた。
涼しい目鼻立ちをした、短髪の青年だった。ワイシャツにネクタイをつけた、皺1つないその服装から、几帳面な性格が窺われる。左目を隠した黒い眼帯が、よく目立った。背筋を伸ばしたその姿に、紫音は見覚えがなかった。
「誰・・・・・・?」
「俺は【99】。よろず屋ギルドのマスターをしている」
「ギルド・・・・・・?」
几帳面に答える姿勢に悪い印象は無かったが、整然としている【99】に思うところがあるのか、厳しい口調で青花は言う。
「おい、【99】! 余裕ぶっこいてんじゃねえよ! 銃持った女どうにかしろ!」
それを聞いた愛乃が、翻り、【99】に向き合う。拳銃を片手で持ちながら長身である【99】を睨みあげた。
「【99】。あなた本当に仕事を選ばないのね」
「請け負った依頼は全力で務めさせてもらう。覚悟するんだな、神埼愛乃」
二人は知り合いなのだろう。気安い口調でやり取りをしているが、す、と【99】の手が眼帯に触れると、愛乃は視線を厳しくして銃を構えなおした。
「俺が受けた依頼は、『依頼人が妹と会う中で邪魔なものがいたら排除をする』というものだ。依頼人はお前を邪魔者とみなしたようだ」
「それはこっちの台詞・・・・・・あなた達二人共、邪魔」
【99】が眼帯を左から右へ変えた瞬間、愛乃が素早く引き金を引いた。しかし青花の時とは違い、弾丸は命中しなかった。反射だろうか、銃弾を避けたようだった。弾は虚しくドアの向こうの壁を傷つけた。愛乃は長い髪を振り乱し、【99】に接近する。家の中という狭い空間で銃撃するのは不利だと考えたのか。
そして、紫音はすっかり忘れていたのだ。
愛乃がいなくなったことで、兄との交流を阻むものが無くなったことに。
肩に不意に置かれた手に、紫音の心臓が止まった。
「久しぶりだなあ。紫音」
「・・・・・・・・・・・・」
恐怖なのか、緊張しているだけなのか、声が出ない。喉がからからに干乾びてしまったようだった。
どっ、どっ、
内に流れる血液が、そんな音を立てて紫音を蝕み始める。足が動かない。頭が働かない。目の前でやり取りをしている愛乃と【99】の姿がおぼろげだ。
背後にある恐怖の権現を、見る勇気すら出ない。思考が凝り固まり、身体が言うことを聞いてくれない。今すぐ逃げ出したい衝動に駆られているのに、動けない。紫音は何故身体が動かないのか理解していなかった。それに至るまでの思考回路は、完全に停止していた。
人形と化してしまった紫音を無理矢理振り向かせ、突き倒す兄。台所の床に転がった紫音は、ただぼんやりと兄を仰ぎ見るだけだった。
「なあ、紫音、どうしようか」
何故こんなにも石のようになってしまっているのだろうか。
紫音は頭の隅で虚ろに考えながら、兄を眺めた。
兄は感情を抑えた声で、しかし嬉々とした様子を隠しきれないで言う。
「お前をまた、壊したくて、壊したくて仕方無いんだ」
兄がバットを振り上げる様を見て、紫音は呆けた頭で思う。
ああ、私、また壊されるんだ。
壊れかけた兄に、また壊されるんだ。
目を開いたまま自分を守ることもせず、紫音は生々しい光沢を放った、振り下ろされるバットを眺めていた。
刹那――
黒い蝶が、突如として舞い上がった。
ひらり、ひらり。
黒い影を湛えたその姿は、紫音の前に現れ、
恐怖を纏ったバットを、打ち返した。
「な・・・・・・っ」
どこからともなく現れた黒影に、青花は驚愕の色を瞳に宿した。
紫音は恐怖から逃れられたことと、彼が目の前に現れてくれたことに安堵した。再び彼と近いうちに会うだろうと予測してはいたが、本当に再び会うことになると、彼の優美な存在感に圧倒される。
台所の狭い窓が開いている。母が鍵を閉め忘れていたのだろうか。そこから侵入してきたようだった。
「あんた・・・・・・何者だ?」
瞳孔の開いた青花が問う。
「・・・・・・・・・・・・」
黒影はその問いに答えることなく、紫音を抱きかかえ、開け放した窓から逃亡した。