二章-1
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この世界には、『番号』と呼ばれる人間がいる。
第二次世界大戦後、世界を嘆いた研究者、遠渡晴明によって生み出された『番号』は、世界中の空気に混じり、宿主を探して飛びまわった。数は【1】から【9999】まで。そのように言われている。
宿主を見つけた『番号』は、その主に人を超える能力を与えた。それは時に、口から炎を吐いたり、開いた傷が塞がったりする、不思議な能力だった。
はじめは純粋に恵まれた能力を楽しんでいた宿主達だったが、そのうち『番号』を巡り、争うようになった。
『番号』の宿主を自らの手で始末すれば、その宿主の『番号』、要するに違う能力も自らのものとすることができる。
その原理に皆が気づき始めたのはいつ頃だっただろうか。
『番号』によって得られる利益は、膨大だった。しかし『番号』を狙う者は多い。一人では危険だと考えた宿主達は、互いに力を合わせることを選んだ。意志を同じくする者達が手を組み、『ギルド』という組織を形成し、対立して『番号』を奪い合うようになった。
『番号』の宿主達は、一般人に危害を与えないことを暗黙のルールとし、現在も闘争を続けている。
そうして、『番号』はここにいる。
――
「・・・・・・・・・・・・」
「よっ」
下校時間、校門前に向かっていると、1人の少年が校門前で待機していた。
雲が浮かぶ灰色の空の下、紫音は深い溜め息を吐く。
今朝、男達に追われ、あまつさえ黒い蝶に刃を向けられた紫音は、あの後少年の助言により普通どおりに学校に行ったのだった。
一般人の多い学校ではそう手出しはしてこないだろうという考えのうちだった。そうだろうかと内心疑っていたが、実際紫音は学校内で襲われることなく、平穏な学校生活を送ったのだった。
もちろん、紫音の心境は平穏とはかけ離れていたが。
それにしても、中学校の校門にいると少年は目立つ。私服であることも理由のひとつだが、年齢も自分より幾らか上なのだろう。すらりと伸びた背格好が綺麗で、ふざけた雰囲気さえなければかなりの美人であることが窺えた。
「待ってたぜ。それじゃ、行こうか」
「・・・・・・・・・・・・」
「あ、俺のこと疑ってる? 大丈夫だって! 俺なんもしないし! まあ、あんなことがあったあとだと疑いたくなる気持ちも分かっちゃうけどさあ」
朝、少年は、視界にちらつくこの『番号』の正体や、男達のこと、そして黒い蝶のことについて話してくれると約束した。紫音を朝から悩ませている事象について教えてくれると。だが本当に信じてしまって良いのか、紫音は決めかねていた。
戸惑いを感じている紫音を説得しようとしているのか、少年はうーん、と首を傾げる。
「そうだな・・・・・・じゃあ、これはどうだろう?」
少年は自分のこめかみを指差し、霞がかっている箇所について話し始めた。
「俺の『番号』、見えるか?」
紫音はどのように言えばいいのか分からない。言葉を選び、たどたどしく伝える。
「見えない・・・・・・です。なんか、ぼやけてて」
「だろ? お前とおんなじでさ、なんかぼやけてて見えないんだよな。他の奴のは見えるのに」
少年は苦く笑うと、こめかみから指を離す。
「それについても教えてやるよ。何も分からないと、気持ち悪いだろ?」
「・・・・・・・・・・・・はい」
理由としては納得がいかないが、確かに自分のことであるのに何も分からないのは気味の悪いものがある。彼から話を聞いて、自分の中で納得するべきなのだろう。
もし何かされたら・・・・・・そのときはそのときで、腹を括るしかない。
「じゃ、行くか」
校門を出て、左に曲がる。登下校に使う道のりだ。店のある、大きな道路へ向かうのだろうか。
「ここら辺で話すのも危ないから、俺らのアジトに行こう」
どうやら安全な場所へ行くつもりのようだ。紫音は頷いて少年のあとについていく。少年は青い目を小動物のように動かし、横に並んだ紫音に、歩きながら話しかける。
「そういや自己紹介がまだだったな。俺の名前は神埼愛留。あんたは?」
「私、ですか?」
少年はきししと笑い、紫音にちょっかいをかけるような雰囲気で話す。
「そうそう。名前。今まであんた、あんま話してないけど、別に喋れないわけじゃないんだろ?」
「し、失礼ですね・・・・・・。お話くらい、できます!」
「はははっ! それだけ言えりゃ上等!」
人の良い笑みを浮かべ、少年、愛留はまた首を傾げ、問う。
「で、名前は?」
「し・・・・・・紫音です。霜端紫音」
「紫音、か。よろしくな、紫音!」
すると愛留が、紫音を笑顔のままじっと見つめる。紫音はたじろいで愛留に問いかけた。
「な、なんですか・・・・・・?」
「いや」
愛留は頬を人差し指で掻き、気負いせずに言う。
「結構変わった髪と目の色してんなあーって思ってさ」
その言葉に、紫音は返答せず、自分の髪を摘んだ。いつの間にか、不思議な色になっていた髪と目。一体いつからこうなったのだろう。上手く思い出せない。この色のせいで人から好奇の視線を浴びせられたり、心無い同級生にからかわれたりした。自分にとっては忌々しい色だ。
紫音は髪と目の色を指摘され、少し不貞腐れた。
「気にしないでください。あまり言われるの、好きじゃないので」
どうやら愛留は明るい性格だけではなく、話術も巧みであるようだった。趣味や好きな食べ物などについて訊ねられながら歩いていたら、いつの間にか目的地に着いていた。
とある建物の前に紫音と愛留は立っていた。
忙しなく店の並ぶ通りに、肩身狭く建てられた居酒屋。小さい建物であったが、看板に花などが飾りつけられていて、女性も気軽に入っていきやすい雰囲気があった。上に立てかけられた看板には、繊細な筆跡で、『つがひ』と書かれていた。
「ああ、そういや紫音の年齢だと正面から堂々と入れないな」
紫音はまだ十五にも満たない中学生だ。愛留は言うが早いか、飲み屋の横の細い道を通って紫音を誘導する。建物の背後にまわると、人一人が通ることができる小さなドアがあった。裏口なのだろう。そこまで案内されてからふと、紫音は疑問を感じる。
「あの・・・・・・愛留さん」
「愛留でいいぜ。どうした?」
「え、えっと、さっき、私は堂々と入れないということを言っていましたが、愛留さ・・・・・・愛留はいくつなんですか?」
愛留は少々曖昧に口元を緩めたかと思うと、胸を張って「十七」と答えた。
「それ、自分も堂々と入れないじゃないですか・・・・・・」と呟く紫音を気にせず、愛留はドアノブを捻り、開ける。
『つがひ』の内部に入り、愛留に続いて狭い通路を歩いた。コンクリートで固められた床に木を模した壁。和を主軸とした建物に、日本独特の、木の香りが充満している。
集団用なのだろう、畳の部屋が二つあり、それが向かい合うようにして造られている。その部屋の間を抜けると、十程度のカウンター席があった。カウンターでは、着物を着た綺麗な女性が包丁で魚をさばいていた。絹のような黒髪を下の方で一つにまとめ、すらりとした白い首筋を晒している。しかし夜の女性を思わせる艶やかさでは無く、清水のように透き通った清涼さを醸し出していた。薄い赤の口紅が印象に残る、和の香りの濃い女性だ。
そして、もう一人。
「あ・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
今朝方会った、もう片方の人物。
愛留のパートナーらしき少女が、鮮やかな黄緑色のエプロンを着け、箒で床を掃いていた。
あの時は突然のことで彼女の姿をしっかりと把握していなかったが、改めて見ると、非常に美しく鮮明な少女だ。愛留とお揃いの茶髪を背中の中あたりまで伸ばしている。今朝は下ろしていたが、掃除をするのに邪魔なのだろうか、ポニーテールにしている。愛留は青い目をしていたが、彼女は緑色の目だ。木漏れ日に反射した葉と同じ色だ。
少女と一瞬目が合ったが、彼女は紫音に興味無さげに視線を逸らす。
「あの・・・・・・」
「おい、紫音、こっちだ」
話しかけるべきか紫音が迷っていると、話しかける前に愛留が紫音をカウンター席へ誘導した。
カウンターで作業をしている女性の、目の前の席に座る。
愛留はそこで箒を持って掃除をしている少女の名を紫音に教えた。
「あいつは愛乃。俺の双子の妹だ」
親指で少女、愛乃を差す愛留と、紹介されても表情を変えずに黙々と床を掃いている愛乃を交互に見て、なるほど、似ているなと紫音は内心呟く。飄々とした雰囲気に見目麗しい姿。元気な少年である愛留と、表情が乏しい愛乃は一見すると正反対の印象がある二人だが、並ぶと血が通っていることがよく分かる。
感心して眺めていると、カウンターにいる女性が優しく微笑み、気軽に紫音に話しかけた。
「かわいらしいお嬢さんねえ。愛留のお友達?」
「あ、あの、えっと・・・・・・」
どう返すべきか困惑していると、愛留が紫音の左隣に座り、代わりに説明した。
「ほら、今日言っただろ? 今朝偶々会った『永劫回帰』の子だよ」
「ああ、なるほど・・・・・・」
女性は眉を寄せて、心配そうな表情を一瞬見せた後、再び柔和な笑みを浮かべる。
「『永劫回帰』の・・・・・・・・・・・・お名前はなんて言うの?」
「し、霜端紫音といいます」
「紫音ちゃんね・・・・・・私は神埼渚。これから長い付き合いになると思うわ。よろしくね」
「長い付き合い・・・・・・?」
不思議に思った紫音はオウム返しすると、渚と名乗った女性は視線を紫音から愛留に移動させた。愛留はその視線を感じたのか首を縦に振る。
長い付き合い・・・・・・? 一体どういうことなのだろう?
疑問に感じた紫音は、愛留に向き直り、訊ねる。
「長い付き合いになるって・・・・・・一体どういうことですか。愛留」
「ああ、それな」
愛留は紫音に視線を投げながら頬杖をついて言った。
「『番号』・・・・・・しかも『永劫回帰』となれば、嫌でも俺達と関わるだろうってこと。少なくとも、最初のほうはサポートするつもりだ」
「『番号』・・・・・・『永劫回帰』・・・・・・」
紫音は今朝から聞くその耳慣れない言葉を反芻し、頬杖をついて当たり前のように話す愛留を見据える。
「教えてください。どうして私は突然『番号』になったのですか? それに、『永劫回帰』って・・・・・・?」
「そうだな、そろそろ教えるとするか」
朝、目が覚めたらいきなり『番号』となっていたことを感じた紫音。狙われた命。男達も発していた『永劫回帰』という言葉。そしてあの黒い蝶――他にも自分の知らないことが多くあったが、まず愛留に聞かなければならないことはこれらだと紫音は思った。それは追々愛留が説明してくれるだろうが。
「じゃあ、まずは『番号』から説明しようか。紫音、あんたは『番号』についてどこまで知ってる?」
「え・・・・・・・・・・・・」
紫音は少々戸惑った後、静かに答える。
「『番号』の人は、普通の人とは違う、超能力みたいなものを使えるってことくらいしか・・・・・・」
「そうだな。それで大体合ってる。『番号』は超能力そのものを指す言葉で、超能力者自身のことも、番号者とかそういう風に呼ぶんじゃなくて、『番号』をそのまま呼んでるな、そういや」
「そんな感じでいいんですか?」
「そんな感じでいいんだよ。最初のうちはな」
愛留はふ、と穏やかに笑い、説明を続ける。
「でさ、『番号』って、突然見えるようになるし、突然超能力っぽいのを使えるようになるんだよな。びっくりするよなあれ。紫音もそうだったんだろ?」
「はい。なんか今日はいつもと違うな・・・・・・って思ってたら、人のこめかみあたりに『番号』が浮いてるのが見えて・・・・・・」
「『番号』は本当にいきなり関わってくるもんで、別に紫音だけがそういうわけじゃないから安心していい」
愛留はここで息をつき、ここで一つの事実を呟いた。
「じゃあ、紫音は突然今日の朝、『番号』になったってことだな・・・・・・」
「あ・・・・・・・・・・・・」
紫音は、思わず息を呑む。
「つまり私は、超能力を使える、ということになるんですか?」
「ま、そういうことになるな。どういう能力かっていうのは分からないけど」
超能力が使える。それは紫音にとって、あまりにも現実味の無い事実だった。だが、自分が超能力を使っている場面を想像できない紫音は、ううんと唸っただけで首を傾げるしかなかった。
そんな紫音に気づいているのかいないのか、愛留は紫音に問いかける。
「紫音、確認で聞くが、他人の『番号』が見えているか?」
「はい・・・・・・でも」
紫音は戸惑いながらも答えた。
「全員にはっきりと見えるわけじゃなくて・・・・・・」
「『番号』を持ってない一般人のほうが圧倒的に多いからな」
「そうじゃなくてですね・・・・・・」
「それとも俺達のことか?」
愛留が親指で自分の右の頬を差し、自分を示した。紫音はそれと同時に愛留に向ける視線を強くする。
『番号』は誰しもが持っているわけではないことは察していた。反対に、『番号』を持っている人が極少数・・・・・・紫音が見てきた『番号』は、朝方会ったあの五人の男達と愛留と相方の少女、そしてあの黒い蝶だけだった。だが、『番号』全てが明確に見えるわけではなかった。男達の『番号』ははっきりと見えたが、愛留と少女、黒い蝶、そして何より自分自身の『番号』が、靄がかかったようによく見えなかった。
それは、「見える」うちに入るのだろうか。
その疑問に答えるように、愛留は話し出す。
「はっきりと見えない奴等がいるだろ。俺とか、愛乃とか、黒影とか・・・・・・あと紫音」
紫音はおそるおそる頷くと、愛留は強い口調で言い切った。
「それが『永劫回帰』と呼ばれる『番号』だ」
永劫回帰。
紫音は息を呑んで話を聞く。
自分と一体何の関係があるのか、恐怖もあるが好奇心もあった。
「『永劫回帰』と呼ばれる『番号』は、1から8までの数字だとされている。けれど、俺達が詳しい数字を知る術は無い」
「なんでですか?」
「紫音も分かっていると思うけど、大抵、『永劫回帰』の『番号』は霞とかなんか白い霧みたいなものがかかっていてよく見えない。『永劫回帰』じゃない奴等も、『永劫回帰』の『番号』を見るときそのように見えるらしいぜ」
気持ち悪いよなあ、自分のことを知ることができないなんて、とぼんやりと呟く愛留を見て、紫音は同感するしかなかった。朝方から、自分が何者であるかということが明るみに出ていない感触が、胸の中に滞在している。
「『永劫回帰』は、能力の強さに関係なく、『番号』の中でも特に抜きん出た『格』の高さなんだって。『格』っていうのは簡単に言うと質の良さのことを差すんだけど、要するに、『永劫回帰』は質がめっちゃ良いってことなんだよね」
愛留は視線を鋭くし、ため息をついた。
「その質の良さが、必然的に他の『番号』の能力を底上げするらしい。『永劫回帰』を手に入れた者は『番号』の王者となるってのは、前から言われてたことだ。そうなれば『番号』で生計を立てている奴等はどうすると思う?」
「あ・・・・・・・・・・・・」
紫音は息を詰まらせ、導かれた答えを口にする。
「『番号』を奪いに来る・・・・・・?」
「ご名答」
愛留は親指と人差し指を立て、ピストルの形を作り、紫音の額を撃つ仕草をした。
「ば、『番号』って奪ったりすることもできるんですか?」
「まあな。『番号』の宿主を殺すとその宿主の『番号』を手に入れることができる。弱肉強食ってやつだな」
「殺す・・・・・・なんだか物騒な話ですね」
「だから一応、『番号』を取りしまる法律、みたいなのがある。超能力なんて、警察じゃ手に負えないからな。そこは、言わなくても自然と関わってくることだから・・・・・・」
話す必要は今のところ無いと判断したのだろう。愛留は間を置いて、話を『永劫回帰』へ戻した。
「ま、そういうわけで、『永劫回帰』は、格が高いから狙われやすい。朝、紫音が野郎共に狙われたのもそれが理由だと思うぜ。場合によっては『永劫回帰』持ちの人間が非力すぎることもあるからな・・・・・・」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
紫音は愛留が説明しているのを中断させる。
奪うことができる、ということは、『番号』は次から次へと宿主を変えていくことができるのかもしれない。もしそうだとしたら、命が危うくなる前に『番号』を相手に差し出すことも可能であるはずだ。
紫音はそう考え、言った。
「奪うことができるっていうことは『番号』は宿主を移し変えられるってことじゃないですか!? それじゃあ、殺される前に相手に『番号』を渡せば・・・・・・!」
「それがそうもいかねえんだよなあ」
愛留は天井を見ながら、ぽつりと答える。
「確かにそういう手もあるっちゃあるが・・・・・・『番号』にも宿主との相性がある。契約という形で渡したとしても、その『番号』が相手に合うかどうかは分からない。『番号』と合わなかったら身体に何らかの障害が残るか、最悪の場合死に至る。そうなれば話し合いでどうこうしようとは思わなくなるだろ?」
「で、でも、殺せば奪うことが可能って・・・・・・」
「そう、殺し。殺しとなると話は別になるんだ。力で屈服させるということは、『番号』に力を見せつけることと同じだ。相手のことを認めざるを得なくなるんだ。そうして過激派の奴等はなんとかして『番号』を集めようと躍起になる」
「そんな無茶苦茶な・・・・・・っ」
うろたえた紫音に対し、相変わらず淡々と説明を続ける愛留は、鼻の天辺を指でかいた。
「ううん、そうだな・・・・・・・・・・・・『番号』も、人間と同じだと思えばいい」
そう言って、特徴的な笑みを紫音に返す。
「人間だと思えばいい。人間だって、嫌だなと思う奴には冷たくあたるし、自分と合うなあと思えば一緒にいたがるだろ? 暴力を振るわれれば自分を守ろうとして相手に従順になったりさ」
概念の一つ一つに理由をつけてたらキリがないんだ、と、申し訳なさげに愛留は肩を落とした。
愛留は手を合わせ、「おーわりっ」と一息つく。どうやらこれで『番号』の説明は終わりらしい。
「『番号』については、これから自然に分かってくると思うから、無理して覚えようとしなくていいぜ!」
「は、はあ・・・・・・・・・・・・」
一つ間をおいて、愛留は気を取り直す形で切り出した。
「それにしても、俺の能力が黒影に通用したみたいでよかったぜ」
「黒影・・・・・・・・・・・・それって、朝の、あの黒い人ですか?」
黒い蝶。
紫音は空から舞い降りてきた男のことを、そう思っていた。
優雅に舞う、漆黒の蝶。
紫音は彼を見て目を凝らすほど美しいと感じた。流れるような黒檀の髪、闇色に浮かんだ紅玉の瞳。一瞬にして魅せられた。
しかしながら、紫音の受けた印象と、愛留の言う「黒影」には、大きな差があるように感じられる。紫音は、愛留の返答を待った。愛留はそれに答える。
「そうそう。黒い服着てるだろ? それが影みたいだから、黒影」
愛留は指をくるくると回し、説明を再開した。
「黒影の『番号』は見えたか?」
「いえ・・・・・・ぼやけていてよく見えませんでした」
「ぼやけて見えない・・・・・・あいつも『永劫回帰』なんだ。だけど、あいつの目的は『永劫回帰』の殺害。矛盾してるよな、これ」
肘をテーブルについて手を合わせる愛留を、紫音は口を結んで見つめる。
「俺自体はあんまり接したことはないんだけど、愛乃や知り合いの『永劫回帰』の奴等は何度か命を狙われてる。でもってあんだけ強いから、太刀打ちできる奴も少ないみたいだし・・・・・・紫音も危ない目にあったろ?」
「い、いえ・・・・・・」
紫音は違和感を持った。紫音が黒い蝶・・・・・・黒影に対して持った印象はそんな血生臭いものではない。どちらかといえば血一滴さえも浄化されるような、清廉潔白なものだった。
紫音を見つめるあの赤い目には、何か、憧憬のような輝きが宿っていた、ような気がしたのだ。
また、彼に刃を向けられたことは事実だが、男達から助けてくれたのも本当のことだ。そのため紫音は、彼の体裁を繕うため、言葉で庇うことにした。
「で、でも、あの人、私のことを助けてくれましたよ?」
「え? そうなの?」
愛留は意外だといった様子で紫音に返した。
「はい。私、愛留さん達が来る前に男の人達に追われていて・・・・・・」
「ああ、あのくたばってた野郎共、黒影がやったのか」
「はい」
先読みした愛留が、紫音が言おうとしたことを先に口に出し、紫音はそれに応じた。愛留が興味深そうに自分の顎を撫でている。どうやら黒影が紫音を救った行動をしたことに感心を示しているようだった。
「違う」
「え?」
唐突に、背後から声がかけられた。
振り向くと、箒を手に持った愛乃が棒立ちになっていた。紫音は誰の声なのか分からなかったが、声の持ち主は愛乃であるらしい。
「邪魔、だったから」
発される声は男のように低く、唸っているような音だった。しかし話し方は女そのもので、大きな違和感が少女、愛乃にはあった。姿形は女性のものだが、声は男性だった。
「あなたを殺すのに邪魔だったから、その男の人達を、始末した」
「・・・・・・・・・・・・!」
「あいつは、そういう奴」
抑揚の無い声でそう言うと、愛乃は、後は聞く耳を持たないといった風情で掃除を再び開始した。突然会話を打ち切られた紫音は、口をあんぐりと開けてその日常的な光景を眺めるしかない。紫音に同情したのか、愛留がすかさずフォローに入る。
「愛乃は何回か黒影にやられてるんだ。だからあんまり良いイメージを持っていないのさ。気にすんな」
「は、はあ・・・・・・」
「俺はそれよりも、黒影があんたを助けたってのに興味があるな」
愛留は変わらない態度で続ける。
「先に言ったけど、黒影は腕の立つ『番号』だ。『永劫回帰』を狩ろうとしてる人間ですら奴を狙うのに躊躇してる。その気さえあれば野郎共なんて相手にしなくても、あんたを殺せたかもな?」
「・・・・・・・・・・・・」
「これはあくまで俺の予測でしかないけど、あいつもなんらかの理由で俺達の命を仕方なく狙っているのかもしれない。仲間に引き込める可能性もある・・・・・・か」
最後は愛留の独り言になっていた。
一拍おいて、愛留は改めて視線を紫音に投げる。
「とりあえず、大まかな説明はこんな感じ。ま、番号が見えるのは少しずつ慣れてくるさ」
「はい・・・・・・・・・・・・あ、あの」
紫音はカウンター席から降り、視線を床に投げたまま愛留にお辞儀をした。背負った鞄ががさがさと音をたてる。
「いろいろとありがとうございました」
「あ、いや」
愛留は照れているのか、頭を掻きながら右手を前にかざして振る。紫音から突然お礼を言われ、戸惑っているのだろう。紫音に頭を上げるよう声をかけ、改めて二人は目を合わせる。
「気にすんなって。突然いろいろ言われてビビってると思うけどさ、こういうのはゆっくりで大丈夫だから。それに『番号』になりたての奴等をフォローする活動してるから、困ったときはいつでも訪ねてきてくれていいんだし」
「はい・・・・・・」
そう、紫音は愛留が言うとおり、怖気づいていたのだ。
朝、突如として見えるようになった『番号』。理由も分からず追いかけてくる男達。そこに現れたあの美しい黒影。そして自分を助けに来たと言う愛留達。今日一日で起こった内容が内容なだけに、紫音は恐れおののいていた。今まで普通の暮らしをしていた、日常を愛していた紫音にとって、この非日常は耐え難いものであった。
だが、愛留についてきて、何故自分があの男達に狙われたのか、自分に刃を向けた黒影がどんな存在であるのか、そして、自分がどんな存在となったのか、あやふやではあるが、知ることができた。愛留についていくことへの不安はあったが、それだけではなく、今日起こった事象について少しでも説明を受けることができたのは大きな収穫であった。何よりも、愛留達は悪い人間などではなかった。
もう少しこの場に滞在できれば更に『番号』について理解することができるのだろうが、紫音はこれ以上『つがひ』に留まることができなかった。
「すいません、説明してもらってなんですが・・・・・・」
「ん? どうした?」
「私、そろそろ時間が・・・・・・」
壁にかけられてある円状の時計の針は、既に5時半を差していた。
このタイミングで時間について話すのは躊躇われたが、紫音には家族がいる。あまり遅くなるのは気が引けた。
愛留は時計を確認して、首を傾げる。
「まだこれくらいの時間なら大丈夫そうだけどなあ」
「私、部活に入っていないので。いつも早めに帰るから、親に心配かけちゃうかも」
「ふうん・・・・・・門限とか厳しいの?」
「そういうわけではないんですけど・・・・・・」
歯切れの悪い受け答えしかできない紫音に、愛留は「ふうん」と軽く受け止め、腕を組む。
「でも、このまま帰るのも危なくないか?」
「え?」
紫音は予想もしていなかった言葉に、反射的に反応した。
「それ、どういう意味ですか?」
「だって、朝もあんな目にあってるんだぜ? 帰り道、誰かに襲われるかもしれないだろ?」
「た、確かに・・・・・・」
「せめて自分の能力を知るまでは、一人で行動しないほうがいいと思うぜ?」
すると、再び後ろから声がかかる。掃除を終えたのだろうか、箒を片付けた愛乃が両手を空けていた。
「私が送る」
「お前が?」
愛留が物珍しそうに目を大きく開く。愛留のそのわざとらしい様子に苛立つこともなく、愛乃は淡々と答えた。
「その子の側にいたら、黒影に出くわすかもしれない」
「ああ、なるほどね・・・・・・」
「今度こそ黒影を潰す」
どうやら紫音のことを、黒影をおびき寄せる餌として考えたのだろう。腰につけた鞄から自動式拳銃を取り出し、手に持った。
紫音は自分を餌にして黒影を釣ろうとしていることに、不快な感情が胸の内に溜まった。自分を引き合いに出される嫌悪感。しかし紫音はそれを表に出すことなく、空気として飲んだ。
「じゃあ愛乃に家まで送ってもらったらいい」
「はあ・・・・・・」
「大丈夫。過激そうに見えるけど実際はちゃんと考えてる奴だから」
紫音の心中を察したのだろう、愛留は朗らかな笑みを浮かべ、紫音の背中を優しく叩いた。
そこで初めて愛乃と視線を交わす。
紫音は内心嫌がりながらも、なんとかして声を絞り出した。
「・・・・・・・・・・・・よろしくおねがいします」