2-5
「……」
「何も答えたくない、って聞いたけど」
「……」
菖蒲の向かいに腰を下ろした楓は、努めて柔和な態度で声を掛けた。蓮は入口傍の壁に寄り掛かり、腕を組んだままだ。視線は菖蒲と椿、双方を観察するように向けられている。
張り詰めた空気は重い。払拭するつもりで声を掛けたが、どうやらあまり効果はなかったようだ。
「八雲菖蒲って名前は本名かな?」
ゆっくりと問いかけるとこくりと縦に首が振られた。
「住所は合ってる?」
再び縦に振られる首。
「じゃあ、年齢を偽った?」
「……」
一瞬、ぴくりと肩が揺れたけれど、何事もなかったかのようにふるりと横に振られた首。
保護した直後、車内で聞いた時には、誕生日だけは答えていた。
佐藤から渡されたバインダーを見る限り、生まれ年の記入欄は、他の筆跡と異なっている。であれば、書き込んだのは菖蒲本人ということだ。
何をきっかけに思い出したのか。それとも、覚えていない、というのが嘘なのか。
閉じたバインダーを背後にいる蓮へと手渡し、改めて菖蒲に向き直る。
十七歳。見た目の年齢はその通りだろう。ただ、反応に嘘が混じる。これ以上そこを詰めても仕方がないと、楓は姿勢を正した。
「そっか。分かった。今は、君の言葉を信じる」
「……え?」
「楓さん、」
声を上げた蓮を挙手で制止し、じ、と菖蒲に目を向ける。
戸惑ったような、ほっと安堵したような。複雑そうな様子を見せた。
これ以上、この子達に関わるのは自分の仕事じゃない。ここで話を長引かせるよりも、楓は二人に訊きたいことがあった。
「それより、一つ訊きたいことがある」
「……なんでしょう」
「君がいた路地裏のことなんだけど」
「………」
「俺が見つけた時、君は吐いていた。あれは、体調が悪かっただけ?」
途端、菖蒲の目が見開かれた。もう少し詰めれば何か出るかもしれない。質問を重ねようとしたところで、おい、と、それまで眠っていた筈の椿が声を上げた。
「何が知りたい。吐いておっただけなら問題なかろう」
あんな臭いところ、と吐き捨てるように言葉を投げ、椿は立ち上がると机の上にどん、と腰を下ろし、そのまま胡坐をかいた。
「ならなぜ君はその場に居なかった?」
「あ?」
「菖蒲さんが吐いていた時、君は傍にいなかった。体調が悪いと分かっていたなら、なぜ彼女を一人にした?」
机の高さがある分、楓は椿を見上げるような状態になる。
見下す赤い目。苛立ち、というより殺意に近い何かをひしひしと感じながらも、じっとその目を見つめ返す。
しばらく誰も口を開かず、空気が重く沈んでいる。
根負けして口を開いたのは、菖蒲だった。
「……臭いがひどくて、気持ち悪かったんです」
「それは……どんな?」
「……なんというか、カビと生ごみと蜂蜜をぐちゃぐちゃにして腐らせたような、そんな感じの臭いです」
「……」
全く想像がつかない臭いに、楓は思わず顔をしかめる。ちらりと蓮を確認すると、蓮も同じような表情を浮かべていた。
記憶を掘り返してみても、そんな臭いを嗅いだ憶えは楓にもない。
「……そんな臭い、しなかったな」
「……俺も、感じませんでした」
「だよな」
早朝に発見された変死体。彼女が吐いていた場所から現場は目と鼻の先だ。
死体の臭いを嗅ぎ取ったのであれば、二人――少なくとも菖蒲は人より遥かに鋭い嗅覚を持っていることになる。
「それがなんじゃ。臭いが気持ち悪くて吐いた。それだけじゃ。耐性がなくても仕方がなかろう」
「……耐性?」
椿の言葉に、思わず楓の眉が動く。
まるで、椿はその臭いを嗅ぎ慣れているか、少なくとも、それに近い何かを知っているとでも言わんばかりだった。
言葉の違和感がぞわりと背筋を這いあがる。
「……まるで臭いの原因が分かっているみたいだな」
指摘したのは、蓮だった。
楓が振り返ると、蓮は冷静な表情のまま、しっかりと椿を見据えていた。
視線をものともせず、はん、と椿は嗤い、机から降りると蓮との距離を詰めた。
「この時代のケーサツ、とやらはどうにも無能なようじゃの」
「……それ、俺らに言ってます?」
「うぬら以外に誰がおる?」
ぴり、と空気の温度が下がる。
一触即発。手を出されれば大事になる――止めに入ろうと楓が腰を浮かせたが、蓮は視線だけでそれを制した。
「椿、黙って」
「うぬが我に指図するでない」
菖蒲が椿を制止しても、ぴしゃりとそれを跳ね返す。その様子に、楓は違和感を覚えた。
姉と妹。本当にそうか? いや、その前に、この娘は何だ……?
菖蒲が十七歳なら、妹である椿はそれより下ということになる。そんな歳の子どもが、こんな威圧感と口調で話すだろうか。
事件の事については、初動捜査が終了した時点で既に機捜としての役目は終えている。
本来であれば、ここまで踏み込む必要はない。
もし何かを彼女らが知っているのであれば話は別だ。
所轄に報告し、参考人として改めて事情を聴く必要が出てくる。
どうする。どこから切り込むべきだ。
不眠不休の密行明け。思考回路は焼き切れる寸前で燻っていた。
「無能、ね」
「無能じゃな」
互いに引く気配はなかった。
「天城、」
「無能で結構。あの場にあんなものがあると知っていて、何故あの時俺たちにそれを言わなかった?」
「あんなもの、のう……」
蓮と向かい合う椿の表情は、楓の位置からは見えない。声色からして恐らく嗤っている。
蓮の眉がぴくりと動いた。
「あの箱の中に転がっていた、潰れた肉の話じゃろう?」
「……!」
反応したのは、楓と蓮だけではなかった。
「……どういう、こと?」
「黙っておれ、姉御殿」
「だって肉って、」
死体の事、でしょ?
かすれた声で呟かれたその一言は、部屋の空気をさらに冷やすのに十分だった。




