Extra Book
一年ぶりに降り立った夕刻のJR名古屋駅は、東京に負けず劣らずの人混みだった。
関東以南は梅雨に入り、今日は東京も名古屋もあいにくの雨模様だ。
新幹線を降りた瞬間、湿気を多分に含んだ生ぬるい空気が肌にまとわりついてきた。じめじめ感は東京よりも名古屋のほうが強烈で、この程度の人混みには慣れているはずなのになんとなく息苦しい。湿気のせいだ。疑いもせず決めつけた。
閉じた雨傘を右腕に下げ、左手で小さなスーツケースを引っ張り、上島綺華は名古屋駅のコンコースで膝丈の白いスカートを翻し、せかせかと足を動かしていた。時間に追われているわけではなく、目的の人物に早く会いたい気持ちが行動に強く表れているのである。
不快指数の高い梅雨の空気には確かにうんざりするけれど、それ以上に、上島の心は浮かれ、弾んでいた。デビュー当時から担当しているミステリ作家、元町周が、一年のブランクを経て、人気シリーズ『専業主夫の謎解きレシピ』の続編執筆にようやく乗り出してくれたのだ。
――書きます、続き。
三月末のことだ。そう電話をもらった時、上島は嬉しさのあまり、光城出版文芸第三出版部のデスクから転げ落ちそうになった。
一時は「もう書けない。筆を置きます」とまで言い、どう励ましても一向に書いてくれそうになかった元町からの、突然の連絡だった。なにかきっかけでもあったのかと探りを入れてみたりもしたが、明確な回答は得られなかった。
この際、動機なんてどうだっていい。心に深い傷を負い、自力で立ち上がることさえままならなかった元町が、自ら「書く」と言ったのである。
これほど嬉しいことはない。あのシリーズは多くの読者が続編の刊行を待ち望んでいる人気作品だ。きちんと『完結』の形を取るまで、なにがなんでも書いてもらわなければならない。
この機を逃すまいと、上島はかかえていた仕事を擲って元町との打ち合わせに執心した。プロットの出来は当初の段階でよく、どこまでシリーズを続けていけるかという話を踏まえた調整をした上で五月末の出版会議にかけた。編集長もまだかまだかと首を長くして待っていたシリーズ最新作だったこともあり、刊行はすみやかに決定した。
そして、今に至る。出版契約書を片手に、上島は意気揚々、名古屋の地へと赴いた。
新幹線から地下鉄に乗り換え、覚王山という立派な名前の駅へ向かう。名古屋に来た時には必ず食べる、甘くておいしいフレンチトースト。これで腹を満たしてから打ち合わせに臨むのが恒例だった。
午後三時五十分。混み合う地下鉄の中で、上島は全国紙のデジタル版をスマートフォンの画面に表示させる。
愛知県内で最近起きた大きな事件、刈谷市のラブホテル殺人で、被害者とともにホテルの部屋にいた女とは別の女が逮捕されたという記事が掲載されていた。二人の女性は会社の同僚で、被害者とは別の男性とのトラブルが過去にあったという。
他人事のように、物騒だなぁ、と心の中だけでつぶやく。上島は主にミステリ小説を担当する書籍編集者だが、実際に起きた事件に巻き込まれるのは御免だと常日頃から思っている。小説の世界でなら、ミステリ好きの素人が事件を解決する展開は大いに歓迎できるのだけれど。それこそ、『専業主夫の謎解きレシピ』のように。
十五分ほど電車に揺られ、覚王山駅で下車。傘を差し、駅から南へ歩くこと三分。目的の場所へたどり着いた。
『珈琲茶房4869』。
名古屋で一番おいしいフレンチトーストが食べられる喫茶店、と上島は勝手に思っている。知り合いの営む店だからといって贔屓をしているわけじゃない。文句なしでおいしいのだ。酸味のきいたコーヒーとの相性も抜群である。
悪天候のせいか、店内は閑散としていた。二つあるテーブル席は一つが空席、カウンターにも客はいない。
だが、かえって好都合だった。他の客に聞き耳を立てられることなく、堂々と店主に挨拶ができる。
「いらっしゃいませ」
厨房から出てきた店主は、客を上島と認識しながら、特別な言葉をかけてくることはなかった。上島のほうから「大変ご無沙汰しております」と丁重に頭を下げると、店主はほんの少しだけはにかんだ表情を浮かべ、「どうぞ」と上島をカウンター席へ案内した。
フレンチトーストとアイスコーヒーを注文すると、店主に「本当にお好きですねぇ、フレンチトースト」と笑われた。
「だって、おいしいんですもん。花菜先生だって絶賛されていたじゃないですか、周平先生のフレンチトースト」
店主、九里江周平は困ったような顔で肩をすくめ、「その『先生』というのはやめてくださいといつも言っているじゃないですか」と文句を垂れた。言われるとわかっていて、あえて口にしたのだ。そうやって自覚させてやらないと、この人は自分が『元町周』の名を背負っているのだという事実から恥ずかしがって目を背けてしまう。
ミステリ作家、元町周。
男とも女ともわからない、顔も明かしていない覆面作家が、実は夫婦二人組で執筆活動をしていることはほとんど知られていない。上島ら光城出版の関係者でも、『元町周が二人組』という事実を知らない者は少なくないのだ。
原案を練り、魅力的なキャラクターを生み出すのは、妻、九里江花菜の担当。トリックや物語の細部を補正しながら文章を綴るのは、夫、九里江周平の担当。花菜の旧姓である『元町』と、周平の『周』の字を取った『元町周』というペンネームを考えたのは花菜だった。
二人は大学時代に同じミス研に所属していたというが、作家を目指していたのは花菜だけで、周平はもっぱら読むばかりだったそうだ。花菜が病に倒れなければ、周平が文壇に上がることはなかっただろう。あれほど巧みでリズミカルな文章を書ける手腕を持ちながら、自分に自信が持てないという周平の内向的な性格は甚だ惜しいと、上島は常々思うのである。
手際よくフレンチトーストを調理している周平に、上島はカウンター越しにひっそりと微笑みかける。
医者から余命宣告を受けた妻のため、六年前、彼は一念発起した。妻の頭の中にある物語を、自らの手で書き起こそうとしたのだ。
花菜が叶えたいと願った夢は三つあり、そのうち二つは実現する見込みが立った。残りの一つが、ミステリ作家になることだった。
あとどのくらい生きられるかわからない妻のために、してやれることはないか。そこで周平は思い立ち、体力的に執筆作業の難しい妻に代わって小説を書き始めた。言うなれば、変則的なゴーストライターだ。
結果的に、彼らの想いは形になった。
花菜はとにかく魅力的な舞台設定とストーリー展開、そしてキャラクター作りがうまく、周平は読者の頭に物語の情景を鮮明に描かせる文章力に優れていた。二人の持つそれぞれの才能が混ざり合い、絶妙な化学反応を引き起こし、五年前、光城出版文芸第三出版部が企画・運営する新人賞で受賞。書籍刊行後まもなく、受賞作『専業主夫の謎解きレシピ』は人気シリーズの仲間入りを果たした。
しかし、シリーズ第四作の編集作業中、花菜が刊行を待たずして無念の逝去。第四作はどうにか出版までこぎ着けたが、物語は完結していない。失意の只中にいた周平は、第五作以降の執筆はしないと上島に宣言し、以来、編集部と彼との連絡は長らく途絶えていた。
それが、である。
まもなく花菜の一周忌というタイミングだった。周平から上島に「シリーズ第五作のプロットを作りました」との連絡が入り、社のデスクで仕事をしていた上島は文字どおり飛び上がった。
椅子の上で小さく跳ね、「ほ、本当ですか!」と声を裏返すと、周平はただ一言、「花菜のためにも、書かなきゃいけないと思って」と言った。
今でもはっきりと覚えている。花菜が存命の時分からどこか後ろ向きだった周平が電話口で発した声は、これまでのどの瞬間よりも前向きな響きに聞こえた。
彼の心に、小さな想いの火が灯ったのだ。
「お待たせいたしました」
厨房から出てきた周平が、できたてのフレンチトーストとアイスコーヒーを運んできた。
「フレンチトーストとアイスコーヒーでございます」
「そうそう、これこれ!」
上島は声を弾ませる。周平の手がける料理はどれも絶品だが、このフレンチトーストは格別だ。
白い湯気の立つトーストの焦げ目の上で、とろけたバターがじゅわりといい音をさせている。こいつにナイフを入れる瞬間がたまらないのだ。サクッ、ふわっ。早く食べたくてウズウズする。
だが、その前に。
上島はそっと席を立ち、周平と改めて正対した。
「お元気そうでなによりです、周平先生。このたびは、本当にありがとうございます」
元町周こと九里江周平・花菜夫妻の作品は、光城出版文芸第三の看板シリーズの一つである。未完のままシリーズに幕を下ろすことにならずに済んだことは、出版部一同、感謝の念しかない。
上島以外の唯一の客、テーブル席の女子大生三人組がチラチラとこちらへ目を向けてくる。周平はわずかに頬を赤らめ、「冷めないうちに召し上がってください」と話を逸らした。
花菜が亡くなった今でも、彼の中では『妻の代わりに作家をやっている』という意識が消えないようで、今後も元町周は『性別不明の覆面作家』ということで通したいのだそうだ。実際、新作のプロットも花菜の遺したネタ帳をもとに組み立てている。書いているのは周平でも、彼曰く、『謎解きレシピ』シリーズは『九里江花菜の作品』なのだ。
再び席に腰を落ちつけ、上島は絶品のフレンチトーストに舌鼓を打った。バターの風味が鼻腔をくすぐり、噛んだ瞬間、甘いたまごの味が口の中いっぱいに広がる。最初はサクッとしているパンの食感は次第にふわふわもちもちへと変わり、喉を通る時には心が幸福で満たされていた。おいしい。おいしすぎる。
半分ほどを一気に平らげたところで、上島は周平に話しかけた。
「でも、本当によかったです。周平先生がまた小説と向き合えるようになって。なにかいいきっかけがあったんですか?」
三月末に電話をもらった時にも同じ質問をしたが、答えははぐらかされていた。こうして無事出版契約に至った今なら、あるいは教えてもらえるかもしれないと思ったのだが、果たして。
周平は調理器具を丁寧に洗浄しながら、少し恥ずかしそうに破顔した。
「ある方に、背中を押していただいたんです」
「ある方」
「えぇ。この店のお客さまなのですが、その方とお話しているうちに、いつまでも塞ぎ込んでいては妻に申し訳ないなと気づかされて」
その客は言ったそうだ。たとえ遠く離れていても、これからもずっと二人で同じ道を歩み続けるのだと強く信じることができたなら、花菜の魂は周平の心にいつまでも息づいていてくれるはずだと。天国にいる花菜のためにも、できることはなにもかも全部してあげるべきだと。
――これからも、ずっと二人で。
いい表現だ。胸にくるものがあり、上島は無言のままうなずいた。
最愛の人を失い、時計の針が止まってしまった周平のもとに、一年という時間をかけて、いい出会いがようやく巡ってきたようだ。
「花菜先生も、きっとお喜びだと思います」
涙声になりかけたことを必死に隠し、上島は顔を上げた。
「花菜先生の作品がもっともっと多くの人に届くように、わたしも精いっぱいお手伝いさせていただきます」
「よろしくお願いします。私も花菜のためにがんばります。この店も、執筆も」
強い決意を表明しながら、周平ははにかんでいだ。『執筆』という言葉を口にしたせいだろう。
相変わらずだなぁ、と上島は苦笑を漏らす。文壇デビューして四年が経つというのに、この人はいつまで恥ずかしがっているつもりなのか。
この店を午後五時という早い時間に閉めているのも、作家としての時間、執筆のための時間を捻出するためなのだ。だというのに、今さら作家として活動していることを恥じられてもどう反応すればいいのかわからない。
とはいえ、そこが彼らしいところだと言えば、そのとおりなのである。
元町周が文壇デビューしたばかりの頃を思い出す。原案担当者であり、病床にいてなお負けん気の強い性格だった花菜に、デビューが決まってもどこか及び腰だった周平は「しっかりしてよ、周ちゃん」とよく尻を叩かれていた。打ち合わせの場所は主に花菜の病室だったが、二人の明るいやり取りを見ていると、花菜が重い病に苦しんでいることをついつい忘れてしまうのだ。
うらやむほど、仲のいい夫婦だった。神様はどうしてこんなにも残酷なことをするのだろう。二人を引き合わせておいて、十年も経たないうちに離れ離れにしてしまうなんて。
だけど、と上島は目を閉じる。
二人には、本という形でこの世に遺した愛の結晶がある。
元町周のデビュー作『専業主夫の謎解きレシピ』は、真逆の性格をした花菜と周平が惹かれ合い、互いの力を尽くして作り上げた、ミステリながら心あたたまる優しい作品だ。
このシリーズが続く限り、二人の人生は交わり続け、愛は深まり続けていく。そのささやかな手伝いができたら幸せだ。編集者として、二人の育む愛を間近で見てきた者として、上島はこのシリーズのさらなる発展に全力を注ぐことを自らに誓うのだった。
フレンチトーストの残りに口をつけながら、ふと、周平の背中を押したのはどんな人だったのだろうと思った。
大切なものを失った人に前を向かせること、痛みに苦しむ心に寄り添うことは、想像以上に難しい。言葉選びに慣れている人間でないと、当事者の負った傷をさらに深くしてしまうことだってある。
慣れている人、だったのだろうか。
喪失感に苦しむ心に、日常的に触れている人。そんな人が、この店の客としてやってくる。
「どんな方なんですか」
気がつけば、上島は周平に尋ねていた。
「周平先生の背中を押してくださった方というのは」
「どんな方、ですか……。私の口から申し上げることは少し難しいですが、運がよければお越しいただけるかもしれませんね、今日」
「本当ですか」
「えぇ。刈谷の事件の犯人も無事に逮捕できたようですし、いつもこのぐらいの時間にいらっしゃるんですよ。閉店間際を狙って」
刈谷の事件? なんの話だ。
上島が眉をひそめると、入り口のガラス扉が開かれた。
来店したのは、長袖の白いシャツの袖をぐりぐりと捲り上げ、ダークグレーの上着を片手に提げた、背の高いスーツ姿の男だった。
「おやおや。うわさをすれば」
周平が嬉しそうに厨房から出ていく。上島の視線がそれを追う。
いらっしゃいませ、と周平は男に微笑んだ。上島はそっと立ち上がる。
男と目が合う。周平が上島を振り返る。
動き出した時計の針が、また一つ、新たな時を刻んだ。
【推理茶房4869/了】




