第十四話 崩壊
この状況で、あたしがやらなければならなことは三つ。
一つ目はジューダスを完全に無力化すること。その方法としては……ま、息の根を止めるしかないかもね。
二つ目は、これ以上、異界断絶の要石から流入してくる〝あちら側〟からの力を閉めること。よくわからないものだけど、違う世界のものがこちらの世界に馴染むとは思えない。早々に流入を防いだ方がいいでしょう。
そして三つ目──これは二つ目にも被るところがあるけれど──異界断絶の要石をちゃんと取り戻すことだ。
そのためには、今のジューダスの状態を見るに、可及的速やかに処理しなければならないように思う。
『契約者殿、妾の力の使い方はわかっとるであろ? この状態だと契約者殿に話しかけることはできても、自分で力を使うのは無理っぽいのでな。あんまり全力は出さんでくれ』
(力の使い方って言われてもねぇ~……)
獣装宝術で一体化したことでわかった。ティアの能力は液体の流れを操るって聞いてたけど、それだけじゃない。流れるものすべてが操れるんだ。
風も熱も、時間でさえ、流れるものなら、一通り操ることができそうだ。
だとすれば、遣り様はいくらでもある。
「わ、わタしは……正しイ……間違ってナどいナイ……」
眼前のジューダスが、金属をこすり合わせるような声でなんか言ってる。
見れば、異界断絶の要石から噴き出す過剰な出力に肉体を焼き切られ、内側から炭化が始まっているようにも見えた。
皮膚の亀裂から覗く肉はドロドロとした漆黒の魔力で継ぎ接ぎされ、無理やり再生させた右腕は、紫黒色の筋繊維が意思を持つ蛇のようにのたうち回っている。
あれはもう人魚の姿をした壊死の塊だ。
それでもまだ、喋ることができるのか。
ただ、まともな意識が残ってるのかどうかは怪しいけれどね。
「神無きコの世にハ……導ク者が必要ナノだ……。愚民ドもハ……正シイ道も選べぬ、哀レな存在なのダ。盲目ノ羊にハ、鞭ヲ振るウ主が必要だ……。私ノ正義ニ従えバ……全テハ、私ノ統治の下デ、正しく救ワれル、の……ダ、カ……ア、ガァ、アアッ!」
ジューダスが吼えた。と同時に、のたうち回る紫黒色の右腕が振り下ろされる。
異界断絶の要石は本来、この世界と、この世界とは異なる世界との境界を定める要石らしい。
その力が弱まったことで、その腕からはこちらの世界の理が通用しない、ドロドロとした漆黒の力が、濁流となってあたしに襲いかかってきた。
触れるだけでこちらの存在を異物の力で侵食し、境界の向こう側へと引きずり込もうとする、悍ましい不条理。そういう〝流れ〟がよく見える。
だけど、あたしは避けない。一歩、前に踏み出すだけだ。
その瞬間、あたしの世界から摩擦が消えた。
地を蹴る衝撃も、空気を切り裂く風切り音すらもない。流れるものすべてを操るティアの権能が、あたしの移動の妨げになるあらゆる〝流れ〟を、先回りして左右へと退けさせたのだ。
あたしが進もうとした目的地へ向けて、世界の方がその配置を書き換えている──そう錯覚するくらいの勢いだ。
瞬きひとつ。
ただそれだけの間に、あたしはジューダスの放った不条理な濁流をすり抜け、その懐へと滑り込んでいた。
「ゴ、ガッ!?」
ジューダスが喉を鳴らす。至近距離。
「悪いけど、あんたみたいな三下の戯れ言なんて聞いてらんないのよ」
ジューダスの右腕の付け根に、そっと掌を添えた。
流れるものなら、一通り操ることができる。だったら、アイツの体内で暴走している魔力の流れも、異界から流入してくる力の〝流れ〟さえも、全部あたしの管理下だ。
あたしは指先に意識を集中させ、その流入してくる力の流れをほんの少し、逆方向へと押し返した。
瞬間、あたしの指先からティアの権能による圧倒的な圧力が、ジューダスだったモノの体内へと逆流した。
溢れ出そうとする異界の力を、数千トンの深海水圧に相当する逆方向の流れが逃げ場なく押し包み、相殺し――そのまま、行き場を失った圧力が奴の肉体という器そのものを内側から圧壊させていく。
「ガアア!? アアアァァァッ!」
バキバキと不吉な音を立てて、ジューダスの右腕が、肘の関節など無視して逆方向にねじ切れていった。
再生が追いつかないのではない。
再生しようとする肉体の流れそのものを、あたしがせき止めているのだ。本来なら周囲に撒き散らされるはずの汚れた血液も、異界の魔力の一片さえも、あたしが展開する見えない流れの檻に囚われ、一滴の汚染も許されない。
ドォンッ! と、空気を爆動させる衝撃音が響く。
行き場を失って奴の体内に充満していた圧力が、解放と同時に凄まじい推進力へと変わったようね。ジューダスの身体は審問所の硬質な石畳を何十メートルも激しくバウンドしながら転がり、弾き飛ばされていった。
大理石の床に深い溝を刻み、幾重もの瓦礫を粉砕して、奴はようやく広い空間の反対側でズサリと止まる。
あたしとジューダスの間に、ぽっかりと長い距離が生まれた。
「あんたが語る正義には、信念がないわね」
激突した壁の中でのたうち回り、崩壊していく肉体の中心で、恐怖に目を見開くジューダスをあたしは冷たく見下ろした。
「神様から授かった宝珠の力を使い、自分が神様に成り代わろうって? 結局、全部借り物で事を済ませようってんだから笑えるわ。他所に頼らなきゃ何一つ成し遂げられない、ただの無能の言い訳よ。そんな借り物の正義なんて、論じる価値もない」
「ア……ガ……、ガ、ガガガ……」
ジューダスだったモノは残った左手で、胸元の肉と同化している異界断絶の要石へと伸びていく。
こいつ、さらに異界断絶の要石が隔てている異界との門を広げるつもりなの!? より、多くの力を向こう側から受け取ろうっての?
なんだってそんな得体の知れないものにすがろうとするかなぁ!
「もう、それに触るな!」
ジューダスが吹っ飛んだせいで、あたしとヤツの間には開きがある。この状況で、こっちが取れる手は一つ。
時間の〝流れ〟を緩やかに──それこそ、止まっているのかと錯覚するくらいに遅くすること。
これなら、いくら距離があっても関係ない。ヤツが要石に指を触れさせる前に、あたしがそこへ到達すればいいだけの話だ。
それで、おしまい。これでようやく、異界断絶の要石の回収も──。
『いかん、契約者殿! それは悪手だ!』
「え?」
焦るティアの声。何をそんなに? と、理解できずにいるあたしの目の前で、それは起こった。
──ピキィィィィィンッ!!!
耳の奥が引き裂かれるような硬質で不快な割れ音が響き渡る。
あたしが時間の流れを遅くしたことなど関係ないと言わんばかりに、ジューダスの胸元から何かが這い出てきたのだ。
それは、ジューダスの肉体の一部なんかじゃない。
限界まで弱まり、歪められた要石の境界──その穴の向こう側から、物理法則を無視して強引に突き出された、ドロドロとした漆黒の手だった。
人間のものとも違う。何重にも重なり合った不揃いな指、こちらの世界の光をすべて吸い込むような絶対的な闇で編まれたその異界の手は、迷いなく自らの足元へと伸びる。
そして。
バキ、グシャリッ!
あろうことかその手は、ジューダスの胸に埋まっていた異界断絶の要石を、上からそっくり包み込むようにして──完全に握りつぶした。
「なっ……!?」
嘘でしょ、世界を分けていた結界石が、まるでただの脆いガラス細工みたいに一瞬で粉々の木端微塵に砕け散ったわよ!?
異界断絶の要石が壊されたということは、つまり、この世界とあちら側の世界を隔てていた壁に隙間ができたことに他ならない。
「ア、ガ……ア、アアアアアアアアアアアアッ!!!」
力の源にしていた要石が砕かれたジューダスが、もはや生物とは思えない金切り声を上げる。
唯一のストッパーを失ったジューダスの肉体は、決壊したダムのように溢れ出す異界の力に耐えきれず、内側から激しく、文字通りドロドロに融解し始めた。
奴の肉体が、骨が、どす黒い液体へと変わり、審問所の床へ広がっていく。
いや、溶けているんじゃない。
奴の肉体そのものが、境界を失ったことで、異界のバケモノをこちらの世界へ呼び出す門になってるんだわ。
「時間の流れを遅くしたのに、なんで!?」
『そりゃ〝あちら側〟はあちら側の理で動いておるからな。こちらの理屈は通用せんということだ』
そんなのアリ!? 冗談じゃないわ!
ジューダスの残骸から、この世のどんな深海よりも冷たく、悍ましいプレッシャーが噴き出してきた。
あまりの悪意の濃さに、ティアの衣を纏っているはずのあたしの肌にゾワリと鳥肌が立つ。
悠長に見守ってあげる義理なんてない。これ以上あっちのバケモノを引きずり出されてたまるもんですか!
「だったら、力ずくでその門を塞ぐまでよ!」
あたしは右手にティアの権能を限界まで収束させた。
狙うはジューダスだったモノの真ん中、今まさに異界と繋がっている黒い泥の渦。流れるものすべてを統べる絶対的な水圧の概念を槍のように尖らせ、これ以上何も通さない壁として上から叩きつけてやる!
――けれど。
ズブ、と。
あたしの放った渾身の一撃は、手応えのない泥の底へと吸い込まれるように、虚しく掻き消された。
「……え?」
『無駄だ契約者殿! 流れを押し留めるべき要石自体がもう無いのだ! もはやこちら側とあちら側に穴が空いてるもんだと思え!』
ティアの悲痛な叫びと同時に、ゴボリ、と黒い泥の渦が大きく波打った。
あたしの突き立てた右腕に、内側から何十、何百もの冷たい手が一斉に絡みついてくる。こちらの世界の存在すべてを呪うような不条理な拒絶反応。
マズい、捕まる……!
あたしは本能的な恐怖で、強引に腕を引き抜いて後ろへと跳んだ。
直後、審問所の床が激しく震動し、地鳴りのような音が響き渡る。
ジューダスだった黒い液体が、まるで生き物のように上へとねじれ上がり、巨大な柱となって膨れ上がっていった。天井の大理石がバキバキと悲鳴を上げる。
そして、黒い泥の柱のあちこちに、裂けるようにして無数の不揃いな眼球が一斉に開いた。
ギチ、ギチギチギチ……ッ!
その眼球のすべてが、あたしを、そしてこの世界を貪り尽くそうとギラギラとした狂気を孕んで凝視してくる。
泥の隙間から這い出てきたのは、何対もの不気味な関節を持つ巨大な四肢、そして既存のどの生物の枠組みにも収まらない、見るだけで精神が汚染されそうな異形の影。
空間全体が、あいつらが放つ瘴気でどす黒く変質していく。
こちらの世界の理が一切通用しない本物の不条理――〝忌神〟が、ついにその完全な姿をこの世界へと現した。




