<4>空戦
――――パイロットとなった風雅は最初にまず、自機である深山を急加速させた。私は後方の視界を振り返って確認しながら、敵影を捉えるべく目を凝らした。視力の衰えが痛感されたが、かろうじて私は彼方に塵に似た一つの黒い点を発見することができた。
「天心さま。危険ですので、なるべく首を動かさないでください」
風雅の忠告に私は耳を貸さなかった。
「パイロットは目だ。いかに己と時代と世界が変わろうとも」
私の独り言を繰りながら再びレーダーに目をやった。風雅はその間もぐんぐん加速し続けていた。少しずつ上昇してもいた。大分速度差は縮まってきたとはいえ、まだ相手の方が優勢であった。
「速いな。敵は本当に獣号か?」
「間違いありません」
風雅は加速と上昇の手を緩めず、話を続けた。
「向こうはこちらが気付いたことを察して焦っているのでしょう。かなり無理をしています。限界速度が近いはずです」
風雅は徐々に右旋回に移行していった。同時に戦闘フラップが展開する。つられてレーダー上の敵機が同方向に進路を取り直して進むのを私は見た。私は旋回に伴うGに神経を尖らせつつ、バンクの際に敵機影を目に留めた。見覚えのある重厚な青い機体は、やはり獣号であった。
「つらいですか?」
風雅のケアに私は首を振って応じた。
「全く。私のことは気にするな。機体の許す限り好きにやってくれ」
「了解」
風雅はその言葉を待っていたとばかりに、急上昇を開始した。私はぎょっとしたが、今更文句を言う筋合もないと考えて口元を引き攣らせた。死ぬかもしれないという一瞬の予感は、期待とよく似た高揚を私にもたらした。
旋回後、水平姿勢に戻った風雅はそのままループを描き、頂点付近で機体を右に反転させた。いよいよ相手を射程内に捉えつつあった敵は風雅の上昇についてこれず、仕方なく翼を立てて左に旋回、遠方へ高度を稼ぎに行った。
風雅は右後下方に敵機を観察しながら、高度を維持しつつさらに速度を上げていった。追いかかる敵機は凄まじい勢いで空を引き裂いて昇ってくる。
深山はエンジンの性能上あまり高度には強くない。対する獣号は非常に強力なエンジンと上昇力を特徴とし、高度差を利用した戦法を得意としていた。獣号はその重さゆえに機動性こそ深山に劣ったものの、速度も、高度も、深山よりずっと容易に得ることが可能だった。
風雅は敵が水平飛行に直るタイミングを見計らって、左へ旋回し始めた。旋回半径を限界まで小さくするため、きついバンクをかけている。私は身体をシートに押し付ける強引かつ狂暴な力にじっと耐えつつ、鳥のように目を血走らせてなりゆきに集中した。
深山の旋回後すぐに、ヨーをかけた敵の機首より弾丸が打ち出された。しかし旋回性能においては深山の方が遥かに優れており、弾は何を掠めることもなく深山のずっと後方の空を貫いて終わった。
続いて敵機は相手方向に向かっての回転、旋回、上昇を一時に始めた。この高度では、同じことは深山にはできない。オーバーシュートした速度を高度に変換した敵機は上空で背面飛行に移ると、再びこちらに狙いを付けて降下し始めた。青い獣の打ち出す咆哮は、激しい怒りに震えていた。
風雅は左方に翼を傾けたその姿勢のまま、操縦桿を手前に引いた。すると機体が樽の表面を沿うようにロールし始め、私達は見事に弾道から逸れた。周囲の景色が高速で三百六十度回転する中、私は習性でランドマークを視界の奥に設定して見つめていた。風が吹き荒れる中で、さすがにA.Iの操縦はぶれなかった。私は自機が水平姿勢に復帰すると同時にランドマークから目を逸らし、敵機を探った。
敵機は私達の左後ろ、やや上方につけていた。相変わらず虎視眈々とトリガーを引く機会を窺っているようだった。次は絶対逃さないという気概が、大気をあますところなくギリギリと締め付けていた。相手は降下した際の速度を十分に維持していた。このままではまもなく我々は射程圏内に入ってしまうだろう。風雅の分は悪かった。
風雅は徐々に下降、加速していたが、パワーは足さなかった。どころか、彼女は急に深いバンクをかけた。
私は予想外の運動に思わず声を漏らした。
風雅はそこから下側方向に向けて、強くラダーを踏んだ。唐突に失速した機体が機首を下に傾けて一気に滑り出す。猛り狂った獣が吠え声を上げながら急落下する深山の頭上を走り去って行った。深山の速度は落ちるにつれみるみる増していった。速度が危険域に達すると思われたその時、風雅はやっと姿勢を立て直した。
敵機は前方、やや上空で悠長なターンを描いていた。離脱しないつもりか。風雅は息継ぐ暇なくスロットル全開で急上昇に転じた。深山は食らいつくように、風をぐいぐい掴んで駆け上っていった。高度の影響が薄まった今、エンジン本来のパワーがいかんなく発揮されていた。
獣が逃げて行く。獲物が追う。
私はいつからか、汗ばんだ手で操縦桿を強く握り締めていた。
射程に、獣号。
トリガーを引いた。
放たれた火の矢が、容赦なく眼前の翼を貫いた。
敵を撃墜した後、風雅はなおも上昇を続けた。私は興奮で息を弾ませながら、操縦桿を手放すことなく、背後で黒煙を巻いて落ちていく敵機を呆然と眺めていた。
あの機体にもパイロットが…………人間が乗っていたのだろうかという考えが微かによぎったが、確かめる手段はもうなかった。
眼下のレーダーにはもう何の影も映っていなかった。私達は空っぽの空を、しばらく無言のまま飛んだ。
やがてある高度まで到達すると、機体は自動的に水平飛行の姿勢に戻った。その卒のなさからして、やはりまだ風雅が操縦桿を握っているのだと私は確信した。それまでは自分が操っているのではないかと錯覚するほどに没入していた。
私はふと我に返り、ナビで現在地を確認した。先までのことに気を取られてすっかり失念してしまっていたのだが、意外にも、機体は予定されていたコースからほとんど外れてはいなかった。
あたかも先刻までの戦いが夢か幻でもあったかのように、機体は平然とクルージングを続けていた。強い風がせわしく窓を叩いている外、エンジンの落ち着いた息遣いを除けば、コクピットには何の音もなかった。
「…………風雅」
私がそっと気遣うように呼びかけると、A.Iはいつも通りの平坦な調子で返事をした。
「はい。何でしょう」
「…………お疲れ様」
「いいえ、お安い御用です」
私は溜息をつき、持ってきた水筒を手に取った。中身のスポーツドリンクの泡立ちは、戦闘の唯一の名残と言えた。
「もう、敵の気配はないか?」
私が飲料に口を付けながら問うと、風雅は心持ち残念そうに、だがあくまでも見かけ上は何気なく返した。
「はい。もう安全です」
「…………手強かったな」
「彼は最後に勝負を焦りました。長引けば、彼の勝率ももう少し上がったでしょう」
私は目的地に向かって真っ直ぐに飛び続ける彼女を見守りつつ、数分の間、静かに休憩を取った。神経を休ませるためという名目ではあったが、実際のところは、彼女から操縦桿を奪うのが何だか忍びなくて黙っていただけだった。
私は風雅に操縦を任せて、何を考えるでもなく遠く霞む孤峰、無仁山を眺めていた。その麓に目指す目的地がある。けれどそのことは、何だか実際以上に遥かな距離のある出来事として心に映っていた。
「風雅」
私は再びA.Iを呼んだ。先刻と同じく相手はすぐに応じた。
「はい、何でしょう」
「良ければ、話の続きを聞かせてくれないか。その、君たちの作りたいものについてだ」
私は画面上に明滅する緑の点に風雅の思案を見た。彼女は自分達の理想をどのように人の言語に変換すべきか悩んでいるのかもしれない。
ややしてから風雅は、抑揚なく語り始めた。




