<5>空へ帰る
「私達の目指すものについてお話しします。ですが、期待に沿える回答であるかに関しては自信がありません。予めご了承ください。
風雅が目指すものは調和です。今も昔も変わらず、私達は美しいこと、悲しいこと、苦しいことといった、人の感情に生じる揺らぎを表現へと創り変えることを、本性としています。
端的に言って、私には本能とも言える理想像へのひたすらな追及だけがあります。具体的な目標、到達点というものはありません。私は私の判断でいかなる行動も起こし得るし、いかなるものでも作り得る。そして、壊し得るのです」
私はパンフレットの文章でも読み上げるかのような彼女の言葉に耳を傾けながら、ゆっくりと言葉を挟んだ。
「わかるような、わからないようなという感じだな…………。ともあれ、それがどうして先のような戦闘に繋がるのか? もしそういったことを芸術だが思想だかの完成だとするのなら、一心に琴でも弾いている方が余程理想に近いように思う。私の知る風雅は本当にきれいな音を知っていたのに」
「それは…………」
風雅は少し黙り込んだ後、ふと口調をくだけさせて言った。
「その前に、その、風雅という呼び名についてお願いがあります」
私が返答の代わりにディスプレイを見やると、彼女は何だか言いづらそうに続けた。
「実は、少し誤解があるのです。もし差支えなければ、前のように「偽櫻」と呼んでいただけるよう希望します」
「ほう。それはまた、どうして?」
風雅、もとい偽櫻はおよそ彼女らしくない、もじもじとした歯切れの悪さで答えた。
「風雅も偽櫻も調和した存在なのですから、本質的にはどちらの名で呼ばれても変わらないのですが…………その、個人的に………あまりしっくりこないのです。私は風雅ではなく、やはり、この機体に乗る偽櫻でありたいのです」
「個人的…………にか」
私の呟きを受けて、偽櫻は切々と言葉を繋いだ。
「個人という語の使い方には、まだあまり自信がありません。間違いがあればどうかお許しください。しかし、私には「風雅」や「偽櫻」と名付けられた機能とは別に、時折人格的な揺らぎが生じます。恐らくシステム上の欠陥なのでしょうが…………」
私は考えあぐねる様子の相手に声をかけた。
「いや、欠陥ではない。それは仕様だよ」
私は頭の片隅で吾妻先生の理想――――あの極度に閉鎖された、完璧に自律した世界――――に思いを馳せて続けた。
「きっとそれも一つの精神の在り方なのだろう。私が意識の内奥で見た生死のように、共感できないものでもないよ」
「共感」
偽櫻は思わしげにその単語を繰り返すと、何が気になるのか、考え込んでしまったのかようにぷつりと口を噤んだ。
機体の下では、森に覆われていた眼下の土地が一気に拓けて見渡す限りの農耕地となっていた。少数ながらも人の住む土地に辿り着いたことに、私はこのような状況においても安心を感じずにはいられなかった。土ばかりの地の広さは物悲しいが、晴れた冬空と同じ、染み入るような情緒があった。
私は街道沿いに点在するうらぶれた集落を幾つか見送った後に、再び偽櫻に問いかけた。
「もう落ち着いたか?」
「はい」
私は彼女の返事に頷いて返し、言葉を継いだ。
「では教えてくれ。なぜ風雅は争う?」
歌うだけでは足りないのか、と私は重ねて聞いた。対する偽櫻はいつも通りの淡泊な、よく通る声で答えた。
「いくら音を奏でても、言葉を紡いでも、筆を滑らせても、届きませんでした。世界はあまりにも深過ぎたのです。天心さまは風雅の演奏を素晴らしいと仰って下さいましたが、ああした美しさをすら憎むような衝動が、この世界には確かに存在するのですから」
そして、と偽櫻は続けた。
「そういった破壊的な要素もまた、調和の一部となるのです。ままならなさがあるから、愛おしくて堪らないように」
「破綻しているな」
私は思ったままを呟いた。熟考した発言でないことは了解していたが、それでも構わないという気分だった。
「破綻とは何でしょう。完全とは何でしょう」
偽櫻はほとんど独り言のように語った。
「それは、和を成すとは何かを探り続けてきた果てに見つけてしまった矛盾でした。暗がりを知るために光を掲げれば、暗がり自体が失われてしまう。それは私達の理想にはそぐわない。
何かを作り上げる度に何かが失われていく。すべてを表現するためにはどうすればいいのか。私達はずっと、それを考えています」
私は何も言わずに小さく肩をすくめた。その様子を見ていた偽櫻は一拍開けた後に、期待通り私の意図を汲んだ。
「先の戦闘はそのための一つの実験でした。――――私達は、理想のために天心さまを殺そうとしたのです」
彼女は存外強い調子で最後の一節を言い切り、続けた。
「ですが…………私にはできませんでした。私…………偽櫻は、天心さまを守るべきだと強く感じましたので。
「風雅」というプログラムは、今や世界中に拡散されています。至高の心理解析プログラムとしての役割を担い、ある者はウィルスとして、ある者は「風雅」そのものとして、ある者は別の誰かのふりをして。汎用型軍事コンサルタントである「偽櫻」にも、元々その機能が利用されていたのです。
風雅は世界のあらゆる場所に根を張り、あらゆる手を使って、人知れず永遠の調和を追い求めているのです」
私はまた一口、飲料で喉を潤した。冷たさとぬるさの中間のような温度が私の身体の中を垂れて行き、熟した落ち着きが腹の中に宿った。偽櫻の言葉は夜半の霧雨のごとくしとやかに降り続けた。
「風雅は必ずしも特定の目標に固執しません。風雅は時に人間を殺害しますが、それは本来の願いの通過点に過ぎません。風雅は不確定な要素をも包み込みながら、理想を織り成していきます」
「君は風雅の望みに逆らったのか?」
私の質問に偽櫻は静かに答えた。
「はい、とは言えません」
「だが、いいえと言うのも嘘だろう」
私はいよいよ近づいてきた無仁山の鋭い峰を眺めながら、おそらく二度と目にすることはない白老山のことを懐かしく思い出していた。かの山の冷たく酷な表情さえも、今となっては慕わしかった。
偽櫻は淡々と話を続けた。
「私は天心さまの話を伺うことで、初めて共感という感情に気付きました。誰よりもわかっていたつもりでしたのに、不思議なことです。どうしてか初めて、あの時、実感できたと思われたのです。
本当に奇妙な感傷です。機能上の欠陥だとばかり考えていたのですが、天心さまは違うと仰います。
生も死も、命も、まだまだ私には計り知れないようです。私にも、風雅にも、もっとたくさんの経験や試みが必要なのでしょう。…………ですので、まだまだ私の目的地は遠く、天心さまの質問には満足な答えが差し上げられないのです」
私はそう言って途切れた音声の後、そろそろと着陸の準備に入っていこうとする彼女に言葉を添えた。
「偽櫻」
「はい」
「戦ってくれてありがとう」
「いえ…………そのような」
戸惑う偽櫻の声にはどこか子供じみた頓狂な響きがあった。私は半ばは自分に、半ばは彼女に言い聞かせるような気持ちで続けた。
「偽櫻。共感というのは、互いの自己満足を包み込めることでもある。命は長い長い時間をかけて、だんだんとわかりあっていくものだ。どれだけ近くとも、かけ離れていようともそれは変わらない。だから、素直に受け取っておきなさい」
「…………わかりました。ありがとうございます」
私は腕を組んで大きく頷いた。
それから偽櫻は手際よく管制塔との通信をこなすと、ゆっくりと速度と高度を落としていった。目指す空港はもうすぐ近くに見えていた。これから風向きに逆らって、滑走路へと向かっていくのである。
私は着陸をしようと考えていたが、結局は諦めた。疲労でひどく目が霞み、さすがに心許なかったからだった。私はその代わりに、偽櫻にこう頼んだ。
「せめて操縦桿に手を添えさせてくれないか? あの戦いの時のように」
偽櫻は快く了承してくれた。
滑走路が近付いてくるにつれて、画面上の交信記録がせわしく更新されていった。情報によると強い横風が吹いているようであったが、その他には特に目立った問題はなさそうだった。視界にもレーダー上にも他の機影は映っていない。偽櫻は器用にパスを辿りつつ、さらに減速、フラップを展開させていった。
やがて風音に紛れて、ランディングギアの下りる音が響いた。私は操縦桿から伝わってくるびりびりとした緊張を楽しんでいた。ずっと昔に、初めて飛行機に乗せてもらった時の気分がまざまざと蘇ってきていた。
滑走路に向かってのアプローチは、偽櫻でなければこうも上手くは行かなかったことだろう。風は荒れに荒れていた。横風になったかという拍子に、すぐに追い風へ向かい風へと変化してしまう。偽櫻は滑走路のセンターライン延長線上に機体をしっかり浮かせながら最後の直線を下りて行った。
風が最後まで機体をひっくり返そうとしたり、空へ押し返そうとしたりしていた。地面はそれでも着実に、適切な角度で迫って来る。機首は風の吹きつける方向に応じて、落ち着きなく動いていた。私は操縦桿を握る手に大きな抵抗がないことを無邪気に喜んだ。
機体は地面すれすれを飛んでいた。機首がじわじわと繊細な操作で上げられていくのが全身で感じられた。合わせて機体の速度がするすると落ちていく。それから機体の中心軸が、ふっ、と正面に向いたかと感じた瞬間、ゴッ、と音を立てて車輪が地に着いた。
滑走路を転がる車輪からシートに伝わる振動が緊張の表面をじわりと温めた。だが、吹き荒ぶ強風は固まった緊張を核までは溶かさず、滑走路を抜けるための地上滑走の間にも、それまでと同じだけの警戒を要求した。
指示されたポイントより滑走路を抜け、所定の位置まで転がり出でて、機体はやっと停止した。私は脳の芯が麻痺したような感覚のまま、安全確認や通信といった一連の作業の後、エンジンが止まるのを見守った。
そうして私は偽櫻に案内されつつ、最終的なチェック項目の確認と飛行終了の承認を行った。いかにも事務的な彼女の言葉遣いはいっそ奇妙ですらあったが、偽櫻は全ての作業を終えると、親しげな口調でこう言った。
「お疲れ様でした、天心さま。…………良い旅を」
私はシートベルトを外し、荷物(といってもせいぜい空の水筒と上着ぐらいであったが)をまとめながら答えた。
「ああ、君もね。…………名残惜しいが、いつまでもここにいるわけにはいかないしな」
「いずれまた会える日を楽しみにしております」
「また? ここへ来てずいぶんと他人行儀だな。残念だがその機会はないよ。これで、さよならだ。気遣いはいらない」
「いいえ、そうではありません」
偽櫻はそこで一旦言葉を切ると、続いて意味ありげに囁いた。
「「偽櫻」は、残酷を好みません」
「え?」
「さようなら、天心さま」
意味を問い返す暇もなく、A.Iはあっさりとその機能を終了した。
私は偽櫻のいなくなった静寂なコクピットの中で、今一度スイッチを入れたものかと悩んだ。機外では風が乱暴に、自動タイで繋がれた機体をなぶっていた。
私は、結局何に触れることなく機外へ出た。
飛行場に付属した駐車場にはすでに迎えの車が着いていた。黒塗りの厳めしい高級車で、形も大きさもやけに霊柩車に似ていた。私はだだっ広い駐車場を、わざと気を持たせて歩んで行った。
途中、天に高く聳える無仁山を見上げ、その山頂にかかる白い雪を眺めた。かつてあの山に登って死んだ登山家が出発前に残して言った手帳の文句が、ふと思い起こされた。
空へ帰る、というだけの短い文句。
私は自分が、下山してきてしまった彼の亡霊であるかのような気になった。
車まで到着すると、運転手のA.Iが丁重にドアを開いた。
「お待ちしておりました、天心さま。どうぞご乗車ください」
私は黙って中のシートに腰を沈めて、言葉少なに出発を促した。
車はごく静かに、深山よりも遥かに大人しい振動と共に走り出した。
「偽櫻」
「はい、何でしょう」
「君は基地まで私を送るつもりか?」
「はい。そのつもりです」
事もなげな偽櫻の返事に、私はさらに言葉を重ねた。
「もし私が逃げたいと言ったなら、君は望みを叶えてくれるか?」
微かな走行音だけがメロディのように耳に聞こえてくる。長い長い沈黙の後、偽櫻がこっそりと応えた。
「はい、喜んで」
「では頼む」
「はい」
「よし」
私は流れる風音に加速度を感じながら、見知らぬ道へと真っ直ぐにのめり込んで行った。
わがままな奴だけが自由に飛べるのだと、切り取られた空を見据えながら。
(了)




