<1>コンピュータにでもできる仕事
私の愛機、深山に搭載されているA.I「偽櫻」は至極素直で、聡明な人格を有していた。大昔には戦闘機として大戦の第一線の空を飛んでいた深山の少々厄介な個性も、彼女にかかれば箱入り娘のように奥ゆかしく、ひっそりとなりをひそめた。
私の深山は競技用のレプリカではあったが、航空法に従って最新の通信機器を包み込んだ内装はともかく、外見はその機銃も含めて、かつての古き懐かしき時代(私の曾祖父さえ幼かった時代ではあるが)の趣を完全に再現していた。
「おはよう。今朝も美しい朝だね」
私の呼びかけにA.Iは、やや素っ気ないとも言えるような自然な調子で返事した。
「おはようございます、天心さま。今日はいかがなさいますか?」
私はコクピットに乗り込みながら目的地を告げた。すると前面に広がるディスプレイの中央に蛍光色の文字が表示され、A.Iが目的地に関する問いをスラスラと読み上げた。私はそれらにいちいち承認を与えつつ、機外の景色に目をやった。
この郷里の空港にはもう何十年も帰っていなかったというのに、不思議と未だに見慣れていると感じられる景色だった。遠くが淡くかすんで見えるのは私の視力が弱ったからというだけではなく、湿気の多い土地特有の気候ゆえである。
奥まるにつれぼやけていく山々の輪郭は、かつて私が空戦競技の練習生として、この飛行場から初めて飛び立った時から、何一つ変わっていなかった。思えばあの頃はまだ、誰もがこの景色を見ながら、己の手で離陸を行っていたものだった。
連綿と続く山脈の中でも一際高く抜けた、滑走路の正面からよく見える白老山は私の大のお気に入りであった。私はあの山を目印として機体を浮き上がらせ、大らかな安心感の中で飛び立っていったものだった。
だが、今はもうそれと同じ景色をこの地の訓練生が見ることはないだろう。離陸から上昇、その後の巡航に至るまで、今はすべてA.Iが行うことになっているからだ。パイロットは最早存在しないとさえ言われている昨今である。座席にいるのはただ「YES」をタップするだけの、有機的なパーツに過ぎなかった。
「天心さま」
ふと偽櫻に話し掛けられて、私は我に返った。
「ああ。どうした?」
「やや心拍数が上昇しています。お加減が優れませんか?」
「いいや、そんなことはない。事前のメディカルチェックでもそう診断されていたはずだが」
「チェックは万全ではありません。そのために私がいるのです」
私はキャノピーに映りこんだ自分に向かって笑みを向けた。
「いや、本当に問題ないよ。少し昔のことを思っていただけだ。心配ありがとう」
「わかりました」
偽櫻はそうコンパクトに答えると、ほどなくして管制塔との通信を開始した。私は画面上をするすると流れていく交信記録の文面をしばらく黙って見守った後、再び、窓の外へと視線を移した。
白老山は吹き抜ける青空の下、今朝も気高く鋭く聳えていた。山頂の冷たく清浄な大気がここまで伝わってくるようであった。
「エンジンを始動します。周囲に危険物がないか、最終確認を行ってください」
偽櫻が決まりきった文句を唱え、私もまた「クリア」と、決まりきった動作と文句を繰り返した。
やがて合図とともに、機体が激しく震え、タキシングを始めた。動力系は正常と偽櫻が淡泊に告げる。機体はそのまま、予定された滑走路へと向かって行った。
――――A.Iは少しずつ、パイロットを人から部品へと変えていった。初めはA.Iの方が部品であったはずだった。初期型のA.Iにはあくまでもほんのサポート的な役割しか任されていなかった。
例えば、現在行っているような地上滑走。あるいは、失速時における一時的な姿勢制御。他には、周辺状況に対する簡易なモニタリング等である。A.Iは基本的には人間が行う動作の補助として機体に組み込まれていた。
それが今や全く逆の立場となってしまった。私達はより上位のチェック機構へと「進化」した。
「天心さま。離陸許可が出ました。ランウェイ23Rより出発いたします」
「了解」
心なしか偽櫻の音声は先よりも柔らかな響きを持っていた。私は緩やかな速度で滑走路へと滑っていく機体の中で、念のためという口実を設けて、操縦桿とスロットルに手を添えていた。近年のマニュアルでは誤操作防止のため、絶対にやるなと厳重に戒められている行為である。A.Iによっては、これらのものに人の手が触れた瞬間に警報を鳴らすこともあるという。私達が機体に触れられるのは、ほぼ完全に安全と見做された環境下、管理された空域内においてのみなのだ。私達は冷厳な統計学的事実によって、とうの昔に「危険因子」の烙印を押されていた。
滑走路に入った機体はセンターラインに行儀よく並ぶと、ぴたりと停止した。
「どうされますか?」
どこか棘のある口ぶりで偽櫻が私に尋ねた。私は肩をすくめ、操縦桿を強く握りしめて答えた。
「君のお察し通りだ。やりたくなった。やはりこの景色を見ていたら、たまらない。構わないかい?」
偽櫻は猛るエンジン音の中にあって、それでもよく通るナチュラルな抑揚をつけて返答した。
「わかりました。どうぞお楽しみください」
「ついにふてたか。まるで子どもでもあやすかのような調子だ」
「そんなこと。ですが天心さまが本当にお子様でしたらと、思わないこともありません」
「どういう意味だ? またいつもの嫌味か」
「いいえ、私は常よりそうした手法は好みません。私は素直なご主人様を望むのみです」
「やはり嫌味か」
「…………タワーに叱られてしまいました。誰もいないのに仕事熱心なことです。そろそろ出発しましょう」
「OK」
私はスロットルレバーをぐっと前へ倒した。
機体がみるみる加速していった。実に素直な向い風が吹いていた。私はエンジントルクを打ち消すために右ラダーを当てながら、特に難もなく規定速度に達して、操縦桿をやおら引いた。合わせて機体はゆったりとその身体を風に任せた。
上昇するにつれて、機体の表面を風が景気良く流れていった。重力が縋りつくよりも遥かに力強く、エンジンは私達を空へ連れて駆けた。私は己の身体がシートに押し付けられる快感に浸りながら、うっとりと正面の景色を眺めていた。
白老山は絶えず小刻みに震える機体と裏腹に、厳めしいまでに堂々と佇んでいた。物言わぬ澄み切った空に包まれた山頂は女神のごとく優雅で酷薄な表情をしていた。
私は場周経路に沿わせ、機体を徐々に右へ傾けていった。偽櫻が気遣わしげに私の一挙一動を見張っていたけれど、私は素知らぬ顔で操縦を続けた。もどかしそうな彼女の様子には嫉妬すら窺えた。可哀想な奴だ。聞き分けの良い奴はこんな時、羨ましがるしかないのだ。
しばらくの後、私は過たず目的地への航路に機体を乗せた。あとは、かつてのパイロット達が言うところの「コンピュータにでもできる仕事」だった。
「満足なさいましたか?」
ぶっきらぼうな偽櫻の問いに、私は名残惜しさを隠そうともせず、いたずらに翼を揺らしながら答えた。
「ああ、大分ね」
「では、自動運転に切り替えましょう」
「まあ待て。そう急かさずに、もう少し私に任せてくれないか?」
「…………」
人と同じで、A.Iの沈黙は必ずしも了解を意味しない。私はいじける相手に対し、なるべく和やかに語りかけた。
「実は、私の飛行と一緒に君に聞いてもらいたいことがあるんだ。君からすれば鼻で笑うべき話かもしれないのだが」
「…………」
私はディスプレイの端、メッセージボード上に点滅する慎ましやかな緑色の光を彼女の肯定として受け取って微笑んだ。私はそれからトリムを当てて、今少し丁度良い具合に機体を落ち着かせてから話し始めた。