<2>雲の中
「昔、私が訓練生だった頃、一度危険な目に遭ったことがあった。私の不注意が原因だった。まだ君達A.Iがごく幼い時代の話で、君達は限られた区域の、専用の自動車であれば何とか扱えるというぐらいの認識しかされていなかった。今では考えられないが、旅客機にパイロットとして人が乗っていた時代だ。
当時の私は自分の技量に思い上がっていた。同期の中では最も早く競技で勝ち星を挙げたし、先輩達から掛けられる声はいつも、程度や言い方は違えど、間違いなく私への賞賛だった。それでなくとも「君、本当に初めてか?」という、緒戦の相手からもらった言葉は私を有頂天にさせるのに十分だった。元々素直な性質でね。…………賞金も私の増長に悪い影響を与えた。空戦競技とは言うが、私がやっていたことは人命を賭した賭け事に他ならなかった。勝ちを重ねるごとに名が売れて、儲かった人々は私を過剰に持ち上げた。軍に勤めていた父の給与より遥かに多くの賞金を得るようになった私は、自分は大物なのだと勘違いをするようになったというわけさ。
加えて私は、自分が誰よりも慎重な性格をしていると信じて疑っていなかった。私は時代の潮流に乗りながらも、己を取り巻く世界に対して常に一線を引いて接していたつもりだった。事実、あの状況下においてはよくやっていたとも思う。ロボットと話しているようでつまらない、というのはその時分に付き合っていた女性の一人が言ったことだが、今から思えば、彼女は本当に的を射ていた。
私はとにかく思考することを好んでいた。そして思考と身体の動きが摩擦なく一致する時に、他の何事にも及ぶことのない至上の快感を得た。物事を感じて判断するまでの時間をどれだけ短縮できるか。あるいは自己と外界とをいかに境界なく重ねるか。私はそれこそをパイロットとしての、ひいては人としての熟練と見做し、それ以外のことは全て雑念と断じて、一切省みなかった。
君にはさぞ馬鹿馬鹿しいと感じられる努力だろう。私も君のようにコンピュータを身体として生まれついたなら、そのように思ったに違いない。だが、私は人だった。何につけても思うようには動かないということが当然だった。私は…………そうだな。私は無意識的に、君達に強い憧れを抱いていたのかもしれない。
ともあれ、私のそうした努力は曲がりなりにも実らしきものを結んでいった。機体に搭載された計器類と私の二つの目、そして私の身体を巡る神経網は、音楽的な程に心地良く同調し始めていた。
私は無数の目で宇宙と対しているような、完璧な規律の星の下にいるような、そんな万能感に浸っていた」
…………そこまで話した時、ずっと聞き役として黙っていた偽櫻が呟いた。
「天心さまは、私がそうした傲慢に陥っていると仰りたいのでしょうか?」
偽櫻の声は何気ないようにも、冷ややかなようにも聞こえた。私に向かって話しているというよりも、どこか独り言じみた雰囲気を漂わせていた。
私は計器類に目を走らせて少し方角を修正しつつ、会話を継いだ。
「いや、違う。私は単に、私の話をしているだけさ。君のことを言っているわけではない」
「天心さま、もしお気を悪くされたなら申し訳ありません。けれど、なぜ天心様がそのようなことを私にお話になるのか、私には疑問です。僭越ながら、もっと他の言い方をしていただければ、私にももう少し有効なお力添えができるかと思うのですが」
「君は勘違いをしているようだ」
私は変わり映えのしないビリジアンの森と深い渓谷の上空を飛び、遠方にくすむ墨絵のような山稜に目を細めた。風が先刻よりもやや荒れてきていた。私はともすると左右に傾きがちな機体を風に合わせてなだめすかし、偽櫻に手助けは要らないことをいち早く行動で示した。
「私はただ聞いてもらいたいと、初めに言ったと思う。そうではなかったか?」
「はい、確かにそう仰いましたが」
「ではそれに従ってどうか最後まで静かに聞いておくれ。私はもうすぐ、この旅路の果てにはいなくなるのだし」
「いなくなる、とは?」
私は未だかつてA.Iの動揺というものを見たことがない。この場合もまた例外ではなく、偽櫻は単純に、意味合いの捉えきれない語について問い返すようプログラムされているばかりだった。
偽櫻はSLBWA(超大規模脳波形データ解析)に基づいて人の感情を理解するものの、いかなる場合においても平静な態度を崩すことはなかった。特に汎用型軍事コンサルタントとして開発された偽櫻には、一層その性格が強く打ち出されていると言えた。
「つまり、この世から存在が消滅する、という意味だ」
「亡くなられるということでよろしいのでしょうか?」
「そんなところだ」
実は私にも、私を招集した憲兵団の意向ははっきりとしていなかった。ただ私と同じように呼ばれた者は皆社会から「いなくなった」し、応じなかった者もまた同様にどこかへと消えていった。
私はしばらく飛行に集中して黙っていた。偽櫻はその間、コクピットに内蔵された視覚センサーでもってチラチラと私の顔色を窺っていたが、ほどなくして追及を諦め大人しくなった。
「ぶっきらぼうな言い方を続けてすまないね」
静寂の中で私が謝ると、
「いいえ」
と、偽櫻が小さく返してきた。
次いで私は、相手に話の続きを申し出た。
「実は、語ることで降ろしたい荷があるんだ。この世にいるうちに、どうしても吐き出しておきたい」
「わかりました。私などで良ければ、どうぞいくらでも」
偽櫻はまるで修道女のようなたおやかさで答えた。私は短く礼を言い、話し出す前に心中に渦巻く内容をちょっと整理した。
その間に、正面左方が開けて海が見えてきた。それと同時に海上の奥から、空を一面覆う雲の塊が迫ってきている様子も観察できた。私は海辺から吹きつけてくる強い風に抗いつつ、目的地に向けてまた少し機首とトリムを調整した。
「では、続けさせてもらおう」
私は鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように、ごく自然な体で言葉を紡ごうとした。
「…………あの事故に遭った日、私は雲の多い空を飛んでいた。あちこちに幽霊じみた雲がうろついている、見るからに危うい空だった。どこへ行くつもりだったやら、あの頃は練習のためあちこちに機体を運んで回っていたから、正直あまり覚えていない。
私は幽霊を恐れていなかった。私は雲の中を飛ぶ訓練を受けていたし、それにそもそも雲の中に入らない自信があった。万が一の時も、自分ならば切り抜けられるという確信があった。
ところで君は、私たちが計器による飛行の訓練をどのように行っていたか知っているかい?
うん、そうだ。要は、計器航法の練習は、外界に対して目隠しをするだけで良かった。私達は機体の姿勢、高度、位置、および針路の測定を、機内にある計器のみで行っていた。
君にはそれがわかりづらいことなのか、それともすっかり理解できることなのか私には図りかねる。だがしかし、私達人間にとって外界の景色が見えないというのは、心底恐ろしいことだという点をここでは特に強調しておこう。
君も知っての通り、今、私は海岸線に沿って飛んでいる。そしてこのまま沿岸に広がる鹿南平野を北へ北へと上って行くつもりだ。私は運行中、ディスプレイ上の地図を見ているが、眼下に展開する地形も同時に把握している。両者の情報が合わさって初めて、私は正しい針路を取っていると安心することができるのだ。また、私はいかに水平儀が示そうとも、左右や前方に伸びる水平線を見なくては、真に機体が水平飛行の姿勢を取っているかどうか信じ切れない。そう、パイロットは臆病だ。
無論計器を疑っているというわけではない。計器が人の感覚などよりもずっと故障し難いという事実は熟知している。
私が不安を覚えるのはそうした理屈からではないのだ。言うなれば、私が人であるという、そのこと自体が、絶えることのない根源的な不安を強いている」
偽櫻は指示通りじっくりと黙っていた。風は真西から、事前の予報よりも遥かに強く吹いていた。私はナビと磁針を交互に見つつ、機体が航路に乗っていることを改めて確認した。遠くに滲む墨絵のような山際はほんの少し色濃くなっていた。
「私は、先に述べた通りある種の機械的な精神に憧れていた。私は理想を追い求め、晴れの日も、雨の夜も、吹雪の中さえ、情熱を燃料として飛び続けた。一日ごとに肉体が擦り減って、より純粋な形へと昇華していくと信じていた。
――――だが。
私が雲に飲まれた日、私は、愚かにも軽度の脱水症状に陥っていたことを白状しよう。
真夏のえらく湿った日ではあった。けれど私は上に上がれば関係無いと判断し、あまつさえ、飲料を積むことすらも忘れて飛び立った。私は大きな試合を前にして、あらゆる意味で熱に浮かされていた。
果たして集中を切らしていたのがどのくらいの時間であったのかは定かでない。しかし、ハッと気付いた時にはもう雲が避けられないような位置にまで近付いていた。思い返せば私はずっとナビだけを眺めていたのかもしれない。
偽櫻、A.Iの君なら、おそらくたくさん見たことがあるだろう。GPSが示した矢印を追って、機内の画面ばかりをぼんやりと見つめ続ける人々の同じ顔を。信じ難い話だろうが、私も含めて、彼らはあれできちんと集中しているつもりなのだよ。あの日の私がそうであったように。文字通り目一杯の情報に囲まれながら、皆自分達の居場所を見失ってしまっている。
そうして…………私は雲の中へ真っ直ぐに突っ込んだ。瞬く間に形のない灰色が私を包み込んで、機体ごと、私の魂をこの世から遊離した風と雨の混沌の世界へと連れて行った。
私はそういった場合の対処法はよく心得ていたつもりだった。だが実際の状況下で私が咄嗟にしたことは、やみくもに操縦桿を動かすこと、本当にそれだけだった。私はパニックに陥って、何をどう考えるべきかまるっきりわからぬままに、判断するよりも動く方が楽だと、ひたすらに情動に従った。自分の最も見下していた人間が、己の最も近くにいたのさ。
本来であればすぐに計器を見て水平姿勢へと建て直し、フライトサービスに連絡して、レーダー誘導に切り替えるべきであった。しかしその時の若い私にとって、それはあまりに煩雑過ぎる手順であった。落ち着こうという意思よりも、動きたいという欲求の方が遥かに強かった。
人は、否、命あるものは、追い詰められる程にそうした傾向が強くなるものであるらしい。だが動物が捕食者から逃れる時に発揮するその力は、時としてさらなる危機への加速をもたらす。私は散々風に抗した末に、疲労と共に未だかつて感じたことのない不可思議な感覚に陥っていった。
私には、眼前の計器達が全て自分とは無関係な世界の狂った時計であると思われた。上昇も下降も、加速も減速も、天も地も、自分の外側から無差別に迫りくる大きな力に紛れてしまって、何もかもが境を無くして、自分の肉体と精神の境界さえも不確かになっていった。形のない重さだけが漠然と纏わりついて感じられるのみだった。
自分が空間識失調に陥っていると気付いた時、まだ生きていられたことは奇跡と呼ぶよりなかった。近くには多くの山があったにも関わらず、そのどれにも衝突せずに空間を抜けてきたというのだ。私はむしろ恐ろしかった。あまりのことに私はまだ目の前の目盛群を信じ切れなかったが、おずおずとそれらの示す数値に従い、水平とされる姿勢へと機体を整えた。
それから私はふと…………ほんの一瞬のことではあったが…………考えた。本当のところ、自分は今まで死んでいたのではないかと。少なくとも己が元々定義してきたような在り方では、生きていなかったと。たまたま運良くもう一度形を得られはしたものの、私は私の臨界点に片足を踏み込んでいたのだと。
生きている、死んでいるということの差が、ほんの些細なことだと不意に知れた。他人の死であればその差は歴然だ。私達は死者と生者を見紛うことはない。だが己の死に関しては、そう容易にはいかない。我々は己の姿を見ることができない。
自己の内奥を見つめる目は、意識のさらに奥、暗い暗い深みへと向けられていくのみだ。そこには生も死も何もない。思考という底なし沼に突き落とすことによって、己という存在を打ち消す方向へと働く奇妙な瞳が、私たちにはひっそりと備わっている。
私は生きたがりの衝動に殺されかけて、ようやく目に見えない「死」の存在に気付いた。
私はそうした相反する性質を包んだ己の身体というものに、初めて興味を抱いたよ。このままならなさは、まさに「形」そのものだと感じた。飛行機の翼みたいなものだ。形は環境によって、それ自体を生かすようにも殺すようにも作用する。飛行機はこの翼型ゆえに浮かび、失速し、墜ちる。もし飛行機に魂なんてものがあったなら、定めしこの翼を恨めしく、同時に愛おしく思っていることだろうと今は思うよ。
…………とにかく、そうして私は幸いにも雲を抜けることができた。予定のルートから逸脱してしまったために余計な時間はかかったにせよ、無事に目的地へ到着することもできた。
私はずっと仲間にこの経験を話さずに生きてきた。道を間違えたと嘘をついてあの場は誤魔化したし、それから先も、誰にも事実を語ることはなかった」
私はそこで一旦話を切り、長く息をついた。雲の切れ間から降る陽光を浴びた海面が、この世のものとは思われぬ程にきらきらしく輝いていた。
「大変な体験でしたね」
さりげなく届いたA.Iの機械的なケアに、私はこくりと頷いてみせた。
「ああ、正直、今も本当に自分が生きているのかどうか自信がない」
「荷が降ろせて、楽になりましたか?」
「そうだな。大分すっきりしたよ」
「それは良いことです。まだ何かお話になりますか?」
私はちょっと悩んだ後に、口の端を少し緩めて答えた。
「ああ…………良ければ、もう少しお願いしたい。話し終えたらまた、言いたいことができてしまった」
「わかりました」
A.Iらしい頼りがいと淡泊さが偽櫻の優しい声音に混在していた。私はまとまりきらない思いをそのままに、ぽつぽつと語ることにした。聞かされる方にとっては、遺言よりもずっと重かろうと考えながら。
「私がこの体験を語らなかったわけには、信用を失うことを恐れたという見栄があったことは否めない。
だがね、それよりも大きな本当の理由は、あの経験を口に出すことによって、生まれて初めて受けた「死」の印象と、それと対照的に明らかになった「生」の衝撃が変質してしまうことを危惧したからだった。
私にとってあの体験は、ただのインシデントでは決してなかった。それまでの人生と、それからの己の在り方を丸ごと洗い流してしまうような、転生の始まりとでも呼ぶべきものだった。私はあの事件によって己への過信を深く反省する一方で、己が持つ「形」について執着的に考えるようになった。
もっと己の形、つまり私という存在の細かな構造を知りたいと願うようになり、また構造と不可分の「流体」の存在についても考えるようになった」
と、その時、偽櫻は話の切れ目を見計らってか、水面に枯葉が落ちるような滑らかさで呟いた。
「流体、ですか」
彼女は自らで言葉を継ぎ、私に語りかけてきた。
「もしかしてその流体のアイディアは、「風雅」というA.Iのコンセプトから得たものですか?」
私は相手の発言に意表を突かれ、一時言葉を失った。風雅の名を彼女から聞くとは思いもよらぬことであった。私はかつて出会った風雅の歌声を脳裏に再生しながら、やっと声を絞り出した。
「…………なぜ、そんなことを聞く?」
私の問いに偽櫻は事もなげに応じた。
「知りたいのです」
「理由になっていない。なぜ知りたいのかと聞いているのだ」
「ひとえに好奇心のためです。現在私には秘匿モードが適用されており、天心さまと交わした会話のログはどこにも公開されませんので、どうかご安心ください」
「信じると思うのか?」
言いつつ私は高度を上げるため、操縦桿を引き始めた。鹿南平野北端に存在する、久遠半島の根元の軍事施設が空域に制限を設けていたためであった。航空機の全てにA.Iの導入が義務化された背景には、こうした施設の急増が関連していると密かに噂されていた。
偽櫻は黙々と高度をカウントしながら、私の発言に構うことなく淡々と話を進めて行った。
「風雅は、SLBWAより導き出された特殊作業特化型A.Iと伺っております。今後のサービス向上のために、ぜひお話を聞かせていただきたく思うのです」
私は予定高度で機体を水平にならしながら一度溜息をついた。偽櫻は相も変わらず何てことのない点滅をメッセージボードに映しつつ、私の返答を辛抱強く待って黙りこくっていた。
私はざっと経路の確認を行ってから、話した。
「まったく、君は恐ろしく賢いが、時々やけに露骨な誘導をするな。大方、憲兵連中にでも頼まれているのだろう」
「いいえ、そのようなことはありません」
「正直に答えるとも思っていないよ。…………だが、まぁ、この際だ。わざわざ冥途に持っていきたい話でもない」
「お話ししていただけるのですね?」
「君達には稀な、ロボットらしい可愛げに免じてね」
「ありがとうございます」
返ってきた味気のない答えに私は内心で肩をすくめた。風向きはじわじわと追い風気味に流れてきており、進路はすこぶる順調であった。




