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1・王太后を降りる日

 ラマリアン王国最大の港町ラザレースは、かつてないほどの熱狂と興奮、そして緊張に包まれていた。即位したばかりの若き新王フレデリクの花嫁、ヨゼフィーネ皇女を乗せた船が、間もなく到着するのだ。



 ラザレースが王と未来の王妃を迎える光栄に恵まれたのは、二百年ほどの歴史においても初めてである。美男子と評判の王を一目拝もうと、ラザレースの民は美々しく飾り立てられた港に詰めかけた。



 だが彼らの注目を一身に集めたのは、白銀の髪に碧眼のいかにも貴公子然としたフレデリクではなく、少し離れて並ぶ貴婦人だった。



 歳は今年十六歳の成人を迎えたばかりのフレデリクより少し上か。貴人の証たるすみれ色の双眸と水晶細工の花のような美貌は少女らしさをかすかに留めているのに、淡い金髪を結い上げ、真珠とアクアマリンのティアラをかぶり、濃いブルーのドレスに白貂しろてんの縁取りのマントを羽織った姿は海の女神のごとき堂々たるたたずまいだ。



 貴婦人の周囲を固めるお付きたちもまた、人々の耳目を集めた。フレデリクより年若い少年や青年、貴婦人の父親ほどの中年男性、美髯びぜんをたくわえた老人など、年齢層は様々だが、いずれもはっとするほどの美形ばかりである。



「……ご覧になって。王太后陛下ときたら、このような晴れがましい場にまで愛人たちを引き連れてこられるなんて」



 かざした扇子の陰で軽蔑もあらわにささやいたのは、王都からフレデリクに供奉してきた貴族の夫人だ。嘆かわしげに頷くのもまた、新王派の貴族夫人である。



「本当に浅ましいこと。さすが老い先短い先王陛下に取り入り、まんまと王太后の座を手に入れただけはありますわ」

「皇女殿下が王妃におなりあそばしたら、もはや『悪女王太后』の居場所などなくなってしまいますのにねえ」

「最後に栄華の花を咲かせようと思っておいでなのかもしれませんわね。だとすれば、おいたわしいこと」



 おいたわしいとさえずりつつも、口紅をべったり塗った貴婦人の唇は隠しきれない愉悦にゆがんでいる。

 周囲の貴婦人やその夫たちにも二人の会話は聞こえているはずだが、咎める者はいない。それはフレデリクと貴婦人――形式上の祖母であるはずの王太后アルベルティーヌの、深刻な対立を示していた。



「……お嬢様。あのクソババアども、ふかの餌にしてきちゃ駄目ですか」



 アルベルティーヌの背後に控える黒髪の侍女がそっと耳打ちをした。大陸の東の果ての諸島連合、東峡とうきょう出身の侍女は細身に反して非常に身体能力が高く、貴婦人たちの噂話をしっかり聞き取っていたのだ。



 アルベルティーヌには残念ながら聞こえなかったが、なにを言われているのかくらいは想像がつく。貴婦人らしい微笑を保ったまま、アルベルティーヌは小さく首を振った。



「駄目よ。もう少しで皇女殿下が到着されるのに、大騒ぎになってしまうわ」

「誰にも気づかれないように沈めますから」

「それでも駄目よ。慶事に不吉すぎるでしょう」



 悪女王太后が面白おかしく噂されるのは、どうせ今日までだ。帝国の皇女が輿入れすれば、人々の関心は彼女に集中する。



(私の義務も、今日でおしまい)



 アルベルティーヌは背後に居並ぶ廷臣たち――その筆頭たる宰相マルタンを肩越しに睥睨した。焦げ茶色の髪も瞳も神経質そうな顔もなに一つ似ていないが、彼はモンタイト公爵にして血縁上の父親だ。



(お忘れになっていないでしょうね?)



 娘の冷たい視線に気づいたマルタンは、そっとまぶたを伏せた。どうやら忘れてはいないようだ。契約魔法まで使って契約書を交わしたのだから、当然だろうが。



 契約魔法によって取り決められた条件をたがえれば、死んだ方がマシと言われる苦痛に苛まれることになる。屈強な戦士でも泣いて許しを乞うほどだそうだ。



 アルベルティーヌはすでにすべての義務を履行した。次はマルタンの番だ。



 ――ブオオオオオ……ッ。



 遠くから低い角笛の音色が響き、アルベルティーヌを現実に引き戻した。水平線の彼方にいくつもの船影が現れたのだ。



(来た……!)



 船影はみるまに港へ接近し、群衆をざわめかせた。フレデリクやアルベルティーヌたちさえ、要塞と見まがうばかりの艦船の群れに圧倒されてしまう。



 砲門を備えた何隻もの軍艦は、皇女の父である皇帝が帝国の威容を見せつけるために派遣した護衛隊だ。彼らがその気になれば、ラザレースは一時間とかからず制圧されてしまうだろう。



 その巨体とは不釣り合いな速度は、最新式の魔道エンジンを搭載している証だ。うらやましい、とアルベルティーヌは心の中でハンカチを噛み締めた。ラマリアン王国にはまだ、ただでさえ金食い虫の軍隊に超高額の魔道エンジンを配備するだけの余裕はない。



(だいぶ建て直したんだけど……まあ、もう私が心配することではないわね)



 これからの王国をつつがなく導くのはフレデリクの役目だ。我が子を犠牲にしてまで尽くしてくれる忠義者の宰相と大陸一の強国出身の王妃、そしてアルベルティーヌが発掘した癖はあるものの能力は一級の人材が揃えば、経験の浅いフレデリクでもどうにか政を回していけるだろう。



 船隊の中で唯一武装していない白く優美な船が海面を滑るように近づき、接岸した。あれがヨゼフィーネ皇女の御座船にちがいない。マストにはグエル帝国の紋章である紅獅子の旗がはためいている。



「陛下、お出迎えを」

「……わかっている」



 アルベルティーヌが促すと、フレデリクは渋面のまま進み出た。とても花嫁を迎える態度ではないが、『黙れこの売女』などと口走らないだけマシだ。顔だけはおとぎ話の王子様そのものだから、皇女も騙されてくれるといいのだけれど。



(いくらフレデリクでも、皇女を悪女呼ばわりはしないでしょう)



 ラマリアン王国の宗主国でもある帝国の皇女は、盤石とは言いがたい己の立場を固めるのに必要不可欠な存在だと、マルタンからもさんざん言い含められているはずだ。育ての父と慕うマルタンの言葉なら聞くだろう。あの二人は実の親子よりも親子らしく仲が良い。



 緋絨毯の敷かれた甲板に、儀典用の華やかな制服をまとった騎士たちが整列した。その後に顔まで隠れる白いレースのベールをかぶり、侍女に手を引かれて現れた小柄な女性こそがヨゼフィーネ皇女だろう。



「皇女――」

「……あ、あああああっ!」



 歓迎の口上を述べようとしたフレデリクを、歓喜の絶叫がさえぎった。船内から飛び出してきた男が皇女を押し退け、たん、と甲板を蹴る。



(……えっ? 押し退けた? 皇女を?)



 この国の王たるフレデリクよりも、重要人物と言っていい皇女を。

 淑女のたしなみも忘れ、アルベルティーヌはぱちぱちと目をしばたたいた。



「お嬢様、下がってください」

「陛下、我らの後ろに」



 緊張を孕んだニコレットがアルベルティーヌを背中にかばい、お付きの美形たちがそれぞれの武器を手に取り囲んだ。フレデリクの騎士たちは……二階建てほどの高さからひらりと音もなく降り立った男に恐れをなし、腰が引けてしまっている。



 だがアルベルティーヌは、彼らを責める気にはなれなかった。



「あぁ……あ、ああっ、あぁぁ……」



 低く豊かな張りのある声を漏らす男は、あまりに暴力的で圧倒的だった。それでいて気品に満ちている。並大抵の人間では直視すら避け、ひれ伏したくなるほどに。



 獅子のたてがみを思わせる紅い髪に、燃える炎を閉じ込めたルビーのような双眸。荒々しくも端整な顔立ちは、顔だけは一級品のフレデリク王をはるかにしのぐ。

 アルベルティーヌより一回りは大きい、だが鈍重さは皆無の長身は古風な帝国の衣装に隆々たる筋肉を浮かび上がらせ、まるで神話の戦神のようだ。



「ティーヌ、ティーヌ……俺です……」

「……え?」



 濡れた紅い瞳をひたと据えられ、アルベルティーヌは戸惑った。この男は自分を知っているのか。

 だがアルベルティーヌは男を知らない。こんな男、一度でも会っていれば忘れようが……。



『……なら、してあげてもいいわ……』



 ずき、と痛む頭の奥に、じわりと浮かぶ。アルベルティーヌと同じ長い金髪の女性の後ろ姿と、彼女を見上げる男。

 男のルビーのような瞳は、狂気と熱情の炎を宿している。



「俺です……アディです……」



 同じ炎の宿る瞳にアルベルティーヌだけを映し、男は全身に歓喜をみなぎらせながら歩み寄ってくる。



「貴方は……」

「いけません、お嬢様」



 肩越しに警告するニコレットの背中は強ばっていた。アルベルティーヌを囲むお付きの者たちも。今すぐにでも逃げ出してしまいたいだろうに、アルベルティーヌのために踏みとどまっている。



「……邪魔を、するな」



 男は虫でも追い払うように手を振った。ぶわりと烈風が吹き抜け、ニコレットたちのみならず、はらはらと見守っていた貴族や夫人たちまで吹き飛ばす。そのくせアルベルティーヌの髪やドレスはそよともなびかない。



「皆っ……」

「ああティーヌ、ティーヌティーヌティーヌ!」



 駆け寄ろうとしたアルベルティーヌを、熱くたくましい腕がさらった。なにも見えない。聞こえない。激しい鼓動と男の声以外、なにも。



「俺は立派になったでしょう? 今度こそ、ティーヌの犬にしてくださいますよね?」



『……夫は無理だけど、犬にならしてあげてもいいわ。お前が私に相応しい、立派な犬になれるのならね』



 頭の奥で長い金髪の女性が妖艶な薔薇のごとく微笑む。

 その顔が自分にそっくりだと気づいた瞬間、アルベルティーヌの意識は暗転した。



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