格子越しの交渉、あるいは需要と供給の再定義
午後。
地下牢の澱んだ空気を切り裂き、重心の定まらない不規則な足音が石畳を叩いた。
現れたのは、皇太后の最側近たる筆頭宦官だ。
数日前までの傲岸さは影を潜め、土気色の肌には死斑のような隈が深く刻まれている。
額の生え際からは脂ぎった汗が絶え間なく溢れ出し、高級なはずの絹の襟元には、饐えた体臭と後宮の至る所で溢れ出した汚物の粒子が、目に見えるほどの不快な膜となって付着していた。
「……林氏。起きろ!」
――ガシャン! ガシャン!
彼は震える拳で鉄格子を乱暴に叩いた。
冷え切った鉄の振動が回廊に反響し、私の鼓膜を不快に揺さぶる。その声は裏返り、制御を失った機械のようにヒステリックな高音を垂れ流していた。
「反乱を止めろ! 部下たちに職場復帰を命じるのだ! これは皇太后様の慈悲深い命令だぞ!」
命令。
現状の損益分岐点さえ見誤っているその発言に、私は壁に刻んだ炭の計算式から視線を逸らさず、強張った肩をゆっくりと回した。
大きく、わざとらしい欠伸と共に顎の筋肉を緩め、ようやく彼を網膜に映し出す。
「反乱? 人聞きの悪い。これは単なる『業務プロセスの不全』です」
座り込んだまま、視線の角度だけで彼を「不適格な管理者」として定義し、冷徹な一瞥を贈る。
「現場の士気が下がり、人員配置が最適化されていないだけのこと。……復旧には、正規の管理者による指揮権が必要です」
「ふざけるな! 貴様ごとき罪人が、条件をつけるつもりか!」
「条件ではありません。『適正価格の提示』です」
私は、石の冷たさが染み付いた膝を押し上げ、格子の前へと音もなく歩み寄った。
垂直に屹立する鉄の棒の隙間から、細い指を三本、彼の鼻先に突き立てる。
◆◇◆
一。私と、ここにいる全ての無実の女官の即時釈放。
二。女官たちの待遇改善と、未払い賃金の全額支払い、及び特別手当の支給。
三。今後、私の業務に皇太后派は一切干渉しないこと。
◆◇◆
「なっ……! そのような法外な……! 皇太后様が認めるわけがない!」
「お断りですか? ……結構です。では、どうぞご自分たちで溢れかえったゴミを片付け、汚れた下着の洗濯をなさいませ」
交渉のテーブルを蹴り飛ばし、私は再び壁の炭跡に向き直った。
「ああ、それから。今の衛生状態だと、あと二日でチフスかコレラが発生する確率が八十%を超えます。免疫力の落ちたご老人には、致命的でしょうね」
『疫病』。その単語が空間の酸素を奪った。
宦官の喉がヒュッと鳴り、喉仏が痙攣するように上下する。
需要と供給の均衡は、すでに地表から消失している。
今、この空間で価格決定権を握っているのは、最高権力者の代理人ではない。唯一の解決策を持つ『売り手』であるこの私だ。
代替人員を再調達するコスト、教育に要するリードタイム、そしてその間に爆発するバイオハザードのリスク。
これらの変数を天秤にかければ、出力される解は一つしかない。
宦官は歯の根が鳴るほどに奥歯を噛み締め、爪が掌に食い込むほど拳を握りしめた。
彼は憎悪に焼かれた瞳で私を射抜こうとしたが、その視線はすでに、決定的な敗北を悟った『敗走兵』のそれへと崩れ落ちていた。
踵を返して駆け去る彼の背中に、石畳を叩く慌ただしい音が虚しく響く。
……勝った。
◆◇◆
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