共犯の握手、あるいは深夜の雇用契約
肋骨を内側から叩き壊さんばかりの激しい拍動が、喉の奥までせり上がっている。
逃げ道は、どこにも存在しない。
対峙しているのは、この帝国の頂点に君臨し、指先一つで私の呼吸を止めることができる絶対権力者。
だが、真っ白に燃え尽きかけた脳内では、極限まで加速した論理回路が、生存確率数パーセントの細い糸を必死に手繰り寄せていた。
(……「陛下」と認めた瞬間に、死が確定する。ならば――)
泥沼の会議を切り抜けてきたコンサルタントとしての本能が、唯一の脱出ルートを指し示す。
――「気づいていない」という体を、一秒の淀みもなく演じきれ。
ここで跪けば、私はただの「禁を侵した罪人」として処理される。
だが、もし私が、目の前の男を「身分を隠して徘徊する高官」だと勘違いした世間知らずの女を演じ通せれば。
彼の気まぐれという名のバグが、事態を「無礼な女の独り言」へと書き換えてくれるかもしれない。
イチかバチかの賭けだ。
私は大きく、肺が軋むほど息を吸い込み、震える膝を隠すように指の節が白くなるまで衣の裾を握りしめた。
「……私の独り言を、盗み聞きなさるとは。随分と趣味の悪いお役人様ですね」
喉の震えを殺し、精一杯の虚勢を吐き出す。
書庫の空気が、瞬時に氷点下まで凍りついた。
不規則に揺れていた蝋燭の炎さえ、見えない巨大な圧に畏れをなして縮こまる。
重苦しい闇が、背中にのしかかった。
遠く、夜警が鳴らす拍子木の音が、カァン、カァンと、乾いた余韻を引きずりながら通り過ぎていく。
やがて、頭上から微かな、けれど確かな空気の震えが降ってきた。
龍の喉が、愉悦に揺れている。
「役人、か。……悪くない」
抜き取られていた帳簿が、無造作に私の手元へ放り投げられた。
パサリ、と古紙の乾いた音がして、不正の証拠品が私の膝に重みを残す。
直後、男が一歩、私のパーソナルスペースを侵食してきた。
龍脳の香りが、逃げ場のないほど濃密に立ち昇る。
逃げようとする私の顎を、白磁のような冷たい指先が捕らえ、強引に上向かせた。
「ならば、その『役人』から業務命令だ。……この帳簿の続き、洗い出しておけ」
「は……?」
「氷と胡瓜だけではないだろう? この城の腐敗は、もっと根深い」
至近距離で私を射抜く黒曜石の瞳。
そこにあるのは、女を口説こうとする甘い色気などではない。
使い潰せる有能な手駒を見つけ出した経営者が、無理難題を突きつける際の、あの残酷なまでに澄んだ光だ。
「見逃してやる。その代わり――お前のその計算高い脳みそを、俺に貸せ」
それは、死と隣り合わせの契約だった。
拒絶は消滅を意味し、受容は修羅の道への片道切符。
だが、私の本能は、死への恐怖を塗りつぶすほどの、ひりつくような昂揚に震えていた。
この不透明なブラック組織において、初めて私の「機能」が必要とされたのだ。
「……残業代は、弾んでいただけるんでしょうね?」
痙攣しそうな唇を、不敵な弧へと無理やり歪めて条件を提示する。
男は目を細め、満足げにその美しい口角を上げた。
「交渉次第だ」
顎を解放した指先が離れる。
男は翻るように背を向けた。
赭黄の衣が闇の粒子に溶け、足音一つ立てず、吸い込まれるように扉の向こうへと消えていく。
◆◇◆
残されたのは、私と、暴き出された帳簿。
そして、部屋の隅々にまで染み付いた、冷たく甘い龍脳の残り香。
私は支えを失った人形のように、へなへなとその場に崩れ落ちた。
床についた掌から、石の冷たさが伝わってくる。膝の震えが、どうしても止まらない。
助かった。
けれど、自由という名の「定時退社ライフ」は、今度こそ完全に破綻を告げた。
街鼓が止んで久しいうちに、私はこの帝国の最も深い闇へと、その身を投じることになった。
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また明日[19:00]にお会いしましょう。




