重力圏、あるいは不可逆な投資契約
ポタリ、ポタリ。
瓦屋根の端から滴り落ちる雫が、石畳を叩いて単調なリズムを刻み始めた。
荒れ狂った豪雨は去った。
だが、隠れ家の石壁の隙間に閉じ込められた空気は、ねっとりと肌にまとわりつくような質量を持って沈殿している。
李宵がゆっくりと、私の手首に込めていた力を抜いた。
けれど、指先は離れない。
彼の親指が、赤く浮き上がった私の手首の内側を、獲物の命を確認するように、ゆっくりと、執拗になぞった。
「……痛かったか」
「いえ。……業務上の事故と認識しています」
私が強がると、彼の喉の奥から、乾いた空気の震えが漏れた。
あるのは、計算の末に最適解を導き出した捕食者の、底知れない余裕だけだ。
「お前は、残酷な女だ」
彼は名残惜しそうに指を滑らせて離すと、音もなく立ち上がった。
窓の格子越しに、世界の色彩が変わり始めている。
彼は逆光の中に立ち、私を影の中に閉じ込めるようにして見下ろした。
「誰もが俺の『皮』にひれ伏す中で、お前だけが俺の骨を値踏みし、あまつさえ『運用してやる』と言い放った」
彼の黒い影が、私の視界を占拠する。
「……お前だけだ、林鈴」
低い囁きが、呪文のように鼓膜へ沁み込んでくる。
「この広い帝国で、俺という人間の価値を正しく理解したのは、お前だけだ」
ゾクリ、と背筋の芯が凍りついた。
私が彼を「投資対象」と定義し、スペックを暴いた瞬間、彼は私を「唯一の運用者」としてロックオンしたのだ。
「期待しているぞ。……俺の中身を、骨の髄まで使い潰してみせろ」
李宵は満足げに目を細めると、濡羽色の衣を翻して背を向けた。
扉が開かれ、湿った朝の冷気が流れ込んでくる。
バタン。
重厚な扉が閉まり、静寂が戻る。
私は椅子に座ったまま、指先一つ動かせなかった。
「……とんでもない案件に、手を出してしまったかもしれない」
私は両手で顔を覆った。
定時退社? 安眠?
そんなささやかなポートフォリオの構築は、もう不可能に近い。
巨大なブラックホール(皇帝)の核に、私は触れてしまったのだから。
――扉の向こう、朝霧に消えていく李宵の唇が、音もなく動いた。
『もう、絶対に手放さない。……この檻から、二度と出しはしない』
それは、隠れ家(聖域)という名の、不可逆な監禁の始まりを告げる誓いだった。
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また明日[19:00]にお会いしましょう。




