祈りの儀
時の流れは無情に早く、それからのひと月は、息をつくほどの余裕もないまま過ぎていった。
毎日の務めに加えて、迫りくる祈りの儀式の準備に追われていた。
そうした慌ただしさが続いた果てに、とうとうその日が訪れた。
十年に一度だけ開かれる神殿最大の祭典、祈りの儀。
王族や貴族達も揃い踏みし、国中の信徒が奇跡を願う。
侍女たちの手で身支度を整えられ、私は純白の式典服をまとっていた。
金糸が編み込まれた白いレースは光を吸い込むほど清らかで、裾は床に流れるように長い。歩くたびに布が引きずられ、まるで自分の意思で進むのを拒んでいるかのようだった。
「セラ様……どうか、一歩ずつ……ゆっくりと」
裾の皺を整えたサーシャが、小さく震える声で言った。
その指先の硬さに、彼女の緊張が伝わる。
神殿で初めて、私を“人”として扱ってくれたのは彼女だった。だから、サーシャがそばにいてくれるだけで胸の奥の不安が少し和らぐ。
大聖堂の扉が、重く、荘厳な音を立てて開いた。
黄金の光が流れ込む。
その瞬間、数百の視線が一斉に私へ向けられた。
王族の席には、宝冠を戴く王妃とその側近たち。
近くには白衣をまとった大神官や神官長たちがずらりと並び、信徒の視線は祈りにも似た熱を帯びている。
空気が重い。
この場の期待も、恐れも、すべてが私の肩にのしかかる。
(落ち着いて……大丈夫……落ち着いて)
そう言い聞かせながら、私は震える足を前へ踏み出した。
一歩一歩、確実に……。ただ歩くことに全神経を集中し、祭壇へと続く階段を登ろうとした――その時だった。
ザッ……!
裾が不自然に引かれ、強い力で後ろへ引き戻される。
「きゃっ……!」
身体が前のめりに倒れ込む。
目の前に大理石の段差が迫る。
視界が真っ白に弾けた――
はずだった。
「セラ!」
固い衝撃の代わりに、誰かの腕が私の身体を包んだ。
布越しに伝わる、しっかりとした体温と震え。
ハルだった。
いつも凍りついたような表情をしている彼の眼差しが、いまははっきりと焦りを写している。
「だ、だめ……儀式が……続けなきゃ……」
「黙っていろ。怪我は?」
彼の声は低い。それは怒気を必死に押し殺した声音だった。
周囲がざわつく。
神官たちは蒼白になり、口々に叫び始める。
「神子が転倒だと……!?」
「凶兆だ!」
「不吉のしるし……!」
その言葉に、私は凍りついた。
これは、侍女や神官が“失敗した”時の空気だ。
その後に何があるのか――嫌というほど見てきた。
恐怖で足がすくむ。心臓がひゅっと縮む。
そこへまた、地を震わせるような声が響いた。
「静かに」
ハルが、大聖堂全体に届くほどの声で叫んだ。
私は思わず目を見開いた。
彼がこんなふうに声を荒げたのは初めてだった。
「セラが転んだ理由は――そこの侍女に裾を踏まれたからだ!」
指さされたその先には、サーシャが蒼白になって立ち尽くしていた。
唇が震え、立っているのがやっとの状況だ。目からは涙がボロボロと零れている。
「侍女が神子の衣を踏んだ……?」
「許されん!」
「浄化せよ!」
怒号とともに神官たちが一斉に動き出す。
サーシャを取り押さえようと腕を伸ばした。
「いやっ……やめて……! 私、私は……!」
その小さな声が悲鳴に変わる。
だめ。
サーシャは悪くない。
たとえ本当に踏んでいたとしても、罰せられるなんて――。
「待って!!」
気づけば私は、儀式の最中なのに、あり得ないほど大きな声を出していた。
「サーシャは悪くない! これは事故よ」
「黙ってろ」
ハルが袖を掴んだが、私は振り払う。
これだけは、どうしても譲れなかった。
王族席がざわめき、王妃が険しい目でこちらを見る。
神官長が怒りを露わにし、声を荒げた。
「侍女など庇うな!秩序を乱す気か!」
空気がぶわっと荒れ、信徒たちがざわつく。
私は深呼吸し、胸の奥で母の姿を思い浮かべる。
帝国で見た、常に凛として、どんな場でも怯まなかった母の背中。
――堂々としなさい。
――自分の立場を利用するのよ。
心の中でその声が響き、私は前へと進む。
「不敬なのは貴方たちのほうです」
自分でも驚くほど、声は静かでよく通った。
「儀式の最中に神子の道を塞ぎ、侍女を処罰しようとするとは……秩序を乱しているのはどちらかしら?」
大聖堂に、完全な沈黙が落ちた。
ハルが隣で息をのむ。
神官たちは、一瞬だけ怯んだように後ずさる。
「聞こえなかった? 道をあけなさい」
その言葉に、神官たちは押し黙り、まるで追い立てられるように退いた。
こうして儀式は予定通り進み、私は何事もなかったように最後まで務めを果たした。
……が、甘い期待はすぐに裏切られた。
儀式を終え、大聖堂から出ようとしたその時、王妃の衛兵たちが、ハルと私の前に立ちはだかった。
振り返ると、王妃が椅子からすっと立ち上がり、冷たい声で告げる。
「神子でありながら秩序を乱した罪は重い。
……禊のため、聖牢で精神を清めなさい」
「――!」
聖牢、禊……
それは“浄化”に次ぐ重罪だった。
サーシャが泣き崩れ、私の名を呼ぶ。
「セラ様……! セラ様ぁ……!」
私は手を伸ばしたが、衛兵の腕がそれを遮った。
「サーシャを……助けて……彼女は何も……!」
「無駄だ」
隣でハルが低く言った。
だが、その横顔は苦しみを押し殺したようにゆがんでいた。
「お前が泣こうと叫ぼうと……ここでは理は通らない」
静かな絶望を含んだ声。
腕を捕まれ、薄暗い回廊へと連行される。
足音が冷たく響き、日の明かりが遠ざかっていく。
扉が閉まる直前、ハルがかすかに囁いた。
「……諦めろ」
その声は震えていた。




