祈りの朝に
ep.30 白銀の青年は改定前の文章を掲載していたので
2025/11/27AM10時頃に編集しております。
恐れ入ります。
―トントンッ
顔を上げると、若い侍女が盆を抱えて入ってきた。
「……お食事をお持ちしました」
彼女は今まで見たことの無い初めて見る侍女だった。
もう誰かと会話をすることなんて諦めていたが、今日、久しぶりに誰かと話したからだろうか。何故か口が動いた。
「ありがとう。あなた……お名前は?」
「サーシャと申します」
「え……」
どうせ何も返してくれないと思っていたのに、これまでの扱いなど何も無かったかのように言葉が返って来たことに私は驚きを隠せなかった。
「サ、サーシャ!
あ、あの、さっきの……あれはいつもああなの?」
サーシャの手が一瞬止まった。
盆の上の器がわずかに揺れ、スープの表面が波立つ。
「……“あれ”とは?」
「人を殺すこと」
小さな声だった。それでも、部屋の空気がひやりと凍る。
サーシャは視線を落とし、ため息のように囁いた。
「今日もあったのですね。
珍しく、ありません。あれは……“浄化”です」
「浄化……」
「罪を犯した者、あるいは神の意に背いた者を、穢れから解き放つ儀式。そう教えられています」
「教えられている……ってことは、あなたは違うと思ってるの?」
サーシャは答えなかった。
ただ、ほんの一瞬だけこちらを見た。その瞳に、恐怖と、微かな哀しみが混じっていた。
「……わたしの友人も、“浄化”されました」
「どうして」
「分かりません。ただ何かに失敗したと聞きました」
言葉を失った。
喉がきゅっと締め付けられるように痛い。
泣くことも、悲しむことも、許されない場所。
「……ハルシオン様も、そう教えられてお育ちになったのです」
「ハルシオン?」
「あの方のお名前です」
サーシャはそう言うと、これ以上は話せないというように静かに部屋を出て行った。
残された私は、冷めたスープを前にただ座り続けた。
——ここは、神を祭る場所なんかじゃない。光の名を借りた、闇の檻だ。
―――――――――――
あの日から朝と夜に大聖堂で祈りを捧げることが私の務めの一つとなった。
ようやく慣れてきた、朝の冷たい空気が肌を刺すような日だった。
上り出した太陽の日差しが大聖堂を染め、壁に並ぶ聖像を照らし出した。
神話の世界を表すその彫刻は美しいはずだ。
なのに、まるで悪魔のように感じた。
「こちらへ」
案内役の神官に促される。
私はヴェールを被ると、開かれた扉から一歩一歩中に踏み入る。
列席する信徒たちは誰一人として声を発さず、祈りの姿勢のまま動かない。
息をする音すら憚られるような、完璧な沈黙だ。
その先で、彼が立っていた。
ハルシオン様と呼ばれていた青年だ。
白銀の髪が光を吸い、金色の瞳が無機質に光る。
その姿は神像よりも神々しく、同時に、どこまでも冷たかった。
「さっさと祈れ」
彼は短くそう言い、祭壇の前に膝をついた。
私もそれに倣い、静かに目を閉じる。
光冠の神へと捧げる祈りの言葉は、まるで機械のように淡々と口から出ていった。
——祈りではなく、服従の詠唱。
ここではそれが信仰の形なのだと、嫌でも理解させられる。
しばらくして、場がざわめいた。
祭壇脇にいた若い男が聖水を運ぶ途中、ふいに零したのだ。
銀の盃が床に落ち、透明な水が広がる。
音はあまりに小さかったが、この静寂の中では音の大小など関係ない。
全員がそれを聞いた。
「……穢れた」
誰かが呟いた瞬間、空気が変わった。
神官たちが一斉に立ち上がり、男を囲む。
彼は真っ青な顔でひれ伏し、震える声で謝罪を繰り返していた。
「申し訳ありませぬ……!手が、勝手に——!」
「ルクシオンの御前を穢した。罪は明白だ」
「火を」
「待って!」
思わず声を上げていた。
「ただの事故です!彼は……!」
「ハッ」
ハルの嘲笑するかのような声が、氷のように冷たく響いた。
「秩序が乱れたな」
その一言で、神官たちの手が止まらなくなった。
若い男は泣き叫びながら連れて行かれる。
その後に広がる焦げた匂いと、祈りの声。
誰も目を向けない。誰も助けようとしない。
この国では、それが“正しい反応”なのだ。
私は立ち上がりかけ、ハルを睨んだ。
「それが……あなたたちの“秩序”なの?」
「そうだ」
「神がそれを望むと、本気で思ってるの?」
「神は何も言わない。だから人が決める」
彼の言葉は静かだった。だがその瞳には、微かに揺れる影がある。
何かを押し殺すように。何かに縛られるように。
「……あなたもそうせざるを得ないのね」
私の言葉に、彼は目を見開いた。
けれどすぐに冷酷な表情に戻ると、その冷たい白い手で私の顎を無理矢理持ち上げる。
私を見下ろすその瞳は怖いほど綺麗な金だった。
「お前も浄化されたいか?」
乾いた声だった。
まるで、何度も同じ言葉を繰り返してきたかのような。
「神子候補である私をそんな簡単に浄化できないでしょ?」
私は負けじと彼を睨み返した。その距離は息が触れるほど近く、冷たい香の匂いがした。
「お前、面白いことを言うな」
「面白い?」
「ここに来て、そんなことを言った奴はいない。誰も、“思うこと”すらしなくなるのに」
金の瞳が光を吸い込み、まっすぐこちらを見据える。
確かに、彼の言う通りだ。私も自分のことなのに驚いた。
私の中にまだこれ程に感情が残っていることに…。
「……怖くないのか?」
「怖いよ。
でも、だからって黙っているのは…もっと怖い」
正直な思いを伝えたその瞬間、彼の目がわずかに揺れる。
長い間凍りついていた湖面が、ほんの一滴の雨で波紋を広げたように。
彼は一歩下がり、顔をそむけた。
「馬鹿だな。お前みたいなのは、長く持たない」
「そうかもしれない。でも、あなたも本当は……」
言いかけた時、
「——だまれ」
その声は低く、鋭く、それでいてどこか震えていた。
「今日の無礼は見逃してやる」
そう言い残して、彼はまた背を向けた。
歩き去る背中に息を呑んだ。
その背中は、ただの冷たい背中ではなかった。
遠い昔に“痛み”を知りすぎて、もう何も感じないふりをしているだけの背中だった。




