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はちみつの香り

 翌日、昼を少し過ぎたころ、馬車は国境手前の小さな町に入った。


 街に入ると、そこは帝都のような石畳ではなく、ところどころ草が覗く素朴な通り。

 けれど店先には干した花束や果物が並び、人々の笑い声があふれていた。


伯爵が窓の外を見つめながら言う。


「ここから先に続くのはエルダールとの交易路だ。

正式には“神々の回廊”と呼ばれている。古くは神殿の巡礼路だったそうだ。

 霜の降りる夜には道全体が銀に輝くほど冷える。冬場の旅には少し骨が折れるな」


「神殿の巡礼路……ということは、宗教の影響が強い国なのですね」

 

 私の問いに、ノアが頷いた。


「はい。エルダールは“光冠の神ルクシオン”を信仰する国です。

 王宮には“水晶宮”と呼ばれる場所があり、朝日を受けると空そのものが地に降りたように輝くとか」


空が地に降りた…一体どんな建物なのだろうか。少し、見てみたいと思った。


「……ここで服を揃えましょう。エルダールでは黒衣が禁制です」

 ウィリアムの言葉に、伯爵が頷いた。

「せっかくだから二人で行ってきなさい。私がここで馬車を見ている」


 馬車を降りると、足元の土の柔らかさが妙に心地よかった。

 初めて感じる——帝都の石の庭ではない、大地の感触。


「……なんだか、夢みたいです」

「え?」

「こうして街を歩くの。許されなかったから。

 風の匂いとか、人の声とか……全部、知らないもの」


 ノアが隣で微笑んだ。

「なら、今日はその“はじめて”をたくさん見つけましょう」


 その声に胸が温かくなり、思わずうなずいた。

 通りを抜ける風が、私のフードをふわりと揺らす。

 その下で、陽の光を浴びた金髪がきらめいた。


 最初の店は小さな仕立屋だった。

 白を基調にした衣が並び、窓から差す光を受けて淡く輝いている。

 

 店主の婦人が微笑みながら言った。

「旅の方? 国境を越えるなら白い布がいいわね。光冠の神の祝福色だから」


 私は淡い象牙色の旅装を手に取り、胸元に当ててみた。だが鏡を前にして、どう整えればよいかわからず、袖を迷うように握る。


 ノアがそっと近づき、服の襟を直してくれた。

「……こうです。こっちの方が、風を受けたときに綺麗に見えます」

 指先が触れた瞬間、息が止まる。


「……ありがとう」

「よくお似合いです」


 社交辞令だと分かっていてもその言葉に顔が熱くなる。

私は顔を逸らしたが、鏡越しにノアの横顔が映り込んでいて——

 それがどうしようもなく、胸を熱くした。



 買い物を終えると、通りの片隅に小さな屋台があった。焼き立ての菓子から漂う、甘い蜂蜜の香りが鼻をくすぐる。


「少し……食べていきませんか?」

「うん!」


 ふたりは並んで腰を下ろす。

 店主の娘が差し出した焼き菓子を半分に割り、ノアがそっと手渡した。

 ほんの小さな仕草なのに、まるで儀式のように感じられた。


「こんな風に歩いたり、食べたりするのって……普通なんでしょうか」

「どうでしょう。私もあまり経験がなくて。

 物心ついた頃から、鍛錬と勉学ばかりの日々でした。

 けれど、妹は母上とよく街に出かけていましたよ」


 その言葉に、胸が少し痛んだ。

 ノアは幼いころから私の従者として皇族に仕えている。

 彼の“自由”を奪っていたのは、ほかでもない私だ。


「ですから私にとっても“はじめて”なんです」


 そう言って笑うノアの表情は、驚くほど柔らかかった。

 その笑顔に、胸の痛みがふっとほどける。

 ノアの“はじめて”を一緒に過ごせたことが、どうしようもなく嬉しかった。


 蜂蜜の香りと夕陽の光が混じり合い、

 世界がやさしく溶けていくように感じた。



 馬車へ戻ると、伯爵が腕を組んで立っていた。

 皮肉げな笑みを浮かべている。


「ずいぶんと遅かったな。……若い連中は元気で何よりだ」


 その言葉に、ふたりは同時に顔を赤らめる。

 伯爵は愉快そうに笑い、手綱を軽く鳴らした。


「さあ、行くぞ。“光冠の国”はもうすぐそこだ」


 私は馬車の窓から、町を見送った。

 ――この小さな午後の光景を、きっと一生忘れない。

 甘い蜂蜜の匂いとともに。

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